私が、へとへとに疲れて帰ってきた日。
今から米を炊くのか…と、米がある有難さ、水がある有難さ、炊く道具がある有難さにまったく感謝もせず、米を炊かなければならないと思っていた時、今すぐ食べられるものを、いろんな方からいただき、ありがたき幸せを感じた日から、どこかの誰かにしていただいたことを意識してみた。
サンタさんありがとう。
そう思い、暮らしてみると、私の周りには何人ものサンタさんが、ひっきりなしにやってきて、私にいろんなものを届けてくれていることを改めて認識した。
サンタさん~♪と言い出してから、改めて、私はいつもなにかをいただいて生きているということを感じている今日この頃。
先日は、温泉に連れて行ってもらい(私が連れて行きましたが料金をだしてくれるという結果に)次の日は、晩御飯を食べにおいでと言ってもらうという。
また、最近気になっている、陶器作家さんの連絡先を教えてもらったり、これも自分ではたどり着かなかったことで、すごいギフトが来たと思います。
そして『インナーピース』という初めて聞く言葉を教えてもらったり、けれどそれは、つい最近私が知り合いに話していたことだったりして、あ~このことをインナーピースというのかと知りました。
これは、たった一人の、サンタさんの仕業ではなさそうで、おんくろだなうの神様とタッグを組んでいるに違いないと思う今日この頃。
改めて意識しなければ、こんなありがたい行為の数々を、『日常』にしてしまい、それほど意識していなかったような気がしてそちらに驚く今日この頃。
「今日空いてる?お茶しない?」と言ってもらえることも、ありがたき幸せで、素晴らしいギフトだ。
帰る家があることも、私が自分が思うことができるということも、私がしたいことに何の制約もないということも、すべてギフトだ。
きっと、自分が気が付いていないだけで、今までずっとギフトを受け取ってきているのだとおもう。ただ、それが自分にとっては当たり前すぎて、『日常』になっているだけで。
私にとっては、『夫婦喧嘩をする』というのは美しい行為で、あこがれの一つだ。
夫婦喧嘩をしてみたかった。
意見交流と言おうか、意見のぶつけ合いと言おうか。
そういうことも、日常でやっている方々には、何を言ってるのだろうと思われるかもしれないが、それがとても美しいクリエイティブな行為だということにぜひ、気が付いていただきたい。
そういうことができるのもギフトだ。
この世は、贈り物だらけで成り立っているのか。
悲しい出来事もギフトにさえ思えてくる。
こんなに悲しい思いを経験することができたなんて。
たぶん、人生に良い悪いは無くて、魂をどれだけ震わせたかということなんだと思う。
とてもうれしいこともとても悲しいことも、魂の震えるふり幅みたいなものは同じなような気がする。
一番、つまらんのは、魂が揺さぶられない状態だと思う今日この頃。
魂を揺さぶられながら、そこで、しっかり立って自分を見つめることができたら、心は平和だ。
さあ 今日のギフトも、しっかり受け取りましょう。
あなたのところにも、きっと毎日届いています。
今の瞬間も。
今から米を炊くのか…と、米がある有難さ、水がある有難さ、炊く道具がある有難さにまったく感謝もせず、米を炊かなければならないと思っていた時、今すぐ食べられるものを、いろんな方からいただき、ありがたき幸せを感じた日から、どこかの誰かにしていただいたことを意識してみた。
サンタさんありがとう。
そう思い、暮らしてみると、私の周りには何人ものサンタさんが、ひっきりなしにやってきて、私にいろんなものを届けてくれていることを改めて認識した。
サンタさん~♪と言い出してから、改めて、私はいつもなにかをいただいて生きているということを感じている今日この頃。
先日は、温泉に連れて行ってもらい(私が連れて行きましたが料金をだしてくれるという結果に)次の日は、晩御飯を食べにおいでと言ってもらうという。
また、最近気になっている、陶器作家さんの連絡先を教えてもらったり、これも自分ではたどり着かなかったことで、すごいギフトが来たと思います。
そして『インナーピース』という初めて聞く言葉を教えてもらったり、けれどそれは、つい最近私が知り合いに話していたことだったりして、あ~このことをインナーピースというのかと知りました。
これは、たった一人の、サンタさんの仕業ではなさそうで、おんくろだなうの神様とタッグを組んでいるに違いないと思う今日この頃。
改めて意識しなければ、こんなありがたい行為の数々を、『日常』にしてしまい、それほど意識していなかったような気がしてそちらに驚く今日この頃。
「今日空いてる?お茶しない?」と言ってもらえることも、ありがたき幸せで、素晴らしいギフトだ。
帰る家があることも、私が自分が思うことができるということも、私がしたいことに何の制約もないということも、すべてギフトだ。
きっと、自分が気が付いていないだけで、今までずっとギフトを受け取ってきているのだとおもう。ただ、それが自分にとっては当たり前すぎて、『日常』になっているだけで。
私にとっては、『夫婦喧嘩をする』というのは美しい行為で、あこがれの一つだ。
夫婦喧嘩をしてみたかった。
意見交流と言おうか、意見のぶつけ合いと言おうか。
そういうことも、日常でやっている方々には、何を言ってるのだろうと思われるかもしれないが、それがとても美しいクリエイティブな行為だということにぜひ、気が付いていただきたい。
そういうことができるのもギフトだ。
この世は、贈り物だらけで成り立っているのか。
悲しい出来事もギフトにさえ思えてくる。
こんなに悲しい思いを経験することができたなんて。
たぶん、人生に良い悪いは無くて、魂をどれだけ震わせたかということなんだと思う。
とてもうれしいこともとても悲しいことも、魂の震えるふり幅みたいなものは同じなような気がする。
一番、つまらんのは、魂が揺さぶられない状態だと思う今日この頃。
魂を揺さぶられながら、そこで、しっかり立って自分を見つめることができたら、心は平和だ。
さあ 今日のギフトも、しっかり受け取りましょう。
あなたのところにも、きっと毎日届いています。
今の瞬間も。