私は中年である。
・・・日本も中国も業者の「食品の安全意識」が、メチャクチャになってるね。
中国は「賞味期限2年前のちまき」日本は「牛肉と偽った賞味期限切れの豚肉」。
中国のことを「コキ下ろそう」と思ったけど、これでは五十歩百歩だ。
考え方においては、どちらかといえば日本の方が「ヒドイ」気がする。
なぜなら、一般市民の「衛生」に対する感覚が高い日本でおきた事件の方が
衝撃が大きいからだ。
「衛生」意識も「お金に対する」意識も、国を問わず「個人的な差」が大きい物だから
こんな非常識な事件が後を絶たない。
しかし、食品加工卸会社ミートホープの田中稔社長ってのはひどいね。
この事件は「詐欺罪」が適用されて当然って気がする。「食肉業者の良心」どころか
「人間としての良心」も摩滅しちゃってるよ。
非常に腹立たしくも悲しく思っている「中年」である。
さて、先回も「落語」のことをUpするつもりだったが途中で話がそれてしまった。
気を取り直してその話をしようと思う。
最近、落語に関する本を読んだ。
桂米朝著「私と落語」と古谷徹作「寄席芸人伝」(全6巻)である。
桂米朝は、すでに「人間国宝」になっているので知っていると思うが、上方落語を
どん底から復興せしめた功労者の一人である。
その落語に対する姿勢は「鬼気迫る」物がある。
彼の著書は少なくないが、この本は若年層(中高校生)向きに書かれているが、
落語初心者にも充分面白く読める。
私が落語に本当に興味を持ち始めたのは「桂枝雀」という落語家を知ってからだ。
すでに鬼籍に入ってしまっているが、覚えている人も多いだろう。
歌舞伎座1500席を満員に出来た数少ない落語家の一人だ。
詳しくは下記ページへ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%9E%9D%E9%9B%80_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
その枝雀の師匠が「桂米朝」である。
そして、何より驚いたのは師弟でありながら、芸風が「まるで違う」ことだ。
師匠の米朝は、まるで江戸時代から抜け出てきたかのような「香り」をもった
芸風なのに、枝雀は「爆笑王」の名を欲しいままにするほど「笑い」にこだわった。
一時期、枝雀ばかりを聞いて「落語はかくあるべき」と考えていたのだが、
それを変えたのは、もっと昔に買っておいた三遊亭円生の「一人酒盛・死神」の
カセットテープだった。
同じ「一人酒盛り」を枝雀と聞き比べてみた。
「落語」の奥深さを感じたのはこのときだったと思う。
「笑い」を重視すれば枝雀の「一人酒盛り」は面白いのだろう。しかし、そのに
そこはかとない「なつかしさ」と「芸の素晴らしさ」では、円生に遠く及ばない。
古典落語というのは、すべてがそうである。同じ内容の同じ結末のものを
その落語家個人のセンスや、企画力・頭脳の全てを使って語ることになる。
これは、何度かこのブログでも書いているが「素材」をいかにを仕事にしている
私の仕事「調理」に似ている部分があると思っている。
「新しい笑い」もいいだろう。しかし、「同じ素材」をあらん限りに笑いに
持っていく落語を楽しむ機会を皆さんも持って欲しいものだ。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「古典落語」を身近に置き、心豊かな人生が送れます
ように。
may
活字が苦手な方は「寄席芸人伝」がお奨め。結構、芸人の芯が伝わって来るよ。
・・・日本も中国も業者の「食品の安全意識」が、メチャクチャになってるね。
中国は「賞味期限2年前のちまき」日本は「牛肉と偽った賞味期限切れの豚肉」。
中国のことを「コキ下ろそう」と思ったけど、これでは五十歩百歩だ。
考え方においては、どちらかといえば日本の方が「ヒドイ」気がする。
なぜなら、一般市民の「衛生」に対する感覚が高い日本でおきた事件の方が
衝撃が大きいからだ。
「衛生」意識も「お金に対する」意識も、国を問わず「個人的な差」が大きい物だから
こんな非常識な事件が後を絶たない。
しかし、食品加工卸会社ミートホープの田中稔社長ってのはひどいね。
この事件は「詐欺罪」が適用されて当然って気がする。「食肉業者の良心」どころか
「人間としての良心」も摩滅しちゃってるよ。
非常に腹立たしくも悲しく思っている「中年」である。
さて、先回も「落語」のことをUpするつもりだったが途中で話がそれてしまった。
気を取り直してその話をしようと思う。
最近、落語に関する本を読んだ。
桂米朝著「私と落語」と古谷徹作「寄席芸人伝」(全6巻)である。
桂米朝は、すでに「人間国宝」になっているので知っていると思うが、上方落語を
どん底から復興せしめた功労者の一人である。
その落語に対する姿勢は「鬼気迫る」物がある。
彼の著書は少なくないが、この本は若年層(中高校生)向きに書かれているが、
落語初心者にも充分面白く読める。
私が落語に本当に興味を持ち始めたのは「桂枝雀」という落語家を知ってからだ。
すでに鬼籍に入ってしまっているが、覚えている人も多いだろう。
歌舞伎座1500席を満員に出来た数少ない落語家の一人だ。
詳しくは下記ページへ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%9E%9D%E9%9B%80_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
その枝雀の師匠が「桂米朝」である。
そして、何より驚いたのは師弟でありながら、芸風が「まるで違う」ことだ。
師匠の米朝は、まるで江戸時代から抜け出てきたかのような「香り」をもった
芸風なのに、枝雀は「爆笑王」の名を欲しいままにするほど「笑い」にこだわった。
一時期、枝雀ばかりを聞いて「落語はかくあるべき」と考えていたのだが、
それを変えたのは、もっと昔に買っておいた三遊亭円生の「一人酒盛・死神」の
カセットテープだった。
同じ「一人酒盛り」を枝雀と聞き比べてみた。
「落語」の奥深さを感じたのはこのときだったと思う。
「笑い」を重視すれば枝雀の「一人酒盛り」は面白いのだろう。しかし、そのに
そこはかとない「なつかしさ」と「芸の素晴らしさ」では、円生に遠く及ばない。
古典落語というのは、すべてがそうである。同じ内容の同じ結末のものを
その落語家個人のセンスや、企画力・頭脳の全てを使って語ることになる。
これは、何度かこのブログでも書いているが「素材」をいかにを仕事にしている
私の仕事「調理」に似ている部分があると思っている。
「新しい笑い」もいいだろう。しかし、「同じ素材」をあらん限りに笑いに
持っていく落語を楽しむ機会を皆さんも持って欲しいものだ。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「古典落語」を身近に置き、心豊かな人生が送れます
ように。
may
活字が苦手な方は「寄席芸人伝」がお奨め。結構、芸人の芯が伝わって来るよ。