完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

宮本輝著「青が散る」読み終わりました。  ~本を映像化するむずかしさ~

2007年03月01日 | 
私は中年である。

唐突だが「われは海の子」と言う歌をみんなは知っているだろうか。

「当たり前じゃないか!」と怒られそうだが、それでは「われは海の子」が
何番まであるか知っている?「3番」なんていうと私は許さないよ。

知っている人も、その歌詞の意味を本当に知っている?

1番に出てくる「とまや」ってなんだか知ってる?(しばらく前まで私は
「蕎麦や」だと思ってた)

2番に出てくる「浴み(ゆあみ)」って何だが知ってる?

3番に出てくる「いみじき楽」って何だが知ってる?

全ての答えは最後に用意します。

さて、我ながら古い本ばかり読んでいるなぁとあきれるのだが

        宮本輝著「青が散る」
                  読み終わりました。

この本は昭和53年(1978年)から4年に渡って「別冊文藝春秋」に連載された。
そして昭和58年(1983年)にTBSでドラマ化されたので、覚えている人も
いるだろう。

宮本輝は不思議な作家だ。彼は「芥川賞」(純文学)と「直木賞」(大衆文学)の
ちょうど中間に位置する作風を持っている。

純文学として発表した『泥の河』『螢川』『道頓堀川』の川三部作は、その関西を
舞台とした見事な小説だ。

大衆文学として発表した中では、この「青が散る」と「優駿」がベストだろう。

私のような「佐渡を含む日本海側の地域」に住む者にとっては、関西・大阪圏は
「独特の明るさ」の爆発している所というイメージが強い。

しかし、彼の小説群には、そうしたところにも「人間の奥底にある深い悲しみ」が
潜んでいることをそこはかとなく感じさせてくれる。(純文学・大衆文学共にだ)

「青が散る」はTBSでドラマ化されたときは、視聴率の低さで最初の計画から
7~8回削られてしまったが、このドラマがデビューの石黒賢・二谷友里恵を
中心に佐藤浩市・川上麻衣子らを共演させてうまく作られていた。
(劇中歌の「人の駱駝」も結構ヒットしたような覚えがある)

・・・しかし、「良く出来ていたドラマ」だったが原作の「素晴らしさ」を
完全に伝えてはいなかったと思う。

ドラマ「青が散る」は原作の舞台の「大阪」を「東京」に置き換えてしまったことで
そのベースとなる部分を半分以上失って、安斉克巳(登場人物・かなり重要な役)の
病気をテレビ向けに変えてしまったことで、残りの半分の半分を失ってしまった。

この人の作品は、小説としての完成度が高い分「映像化」するのに苦労する。
(仲代達也・斉藤由貴・緒方直人・拳親子の出演で映画化された「優駿」も
 同じことが言える)

今と違って「携帯電話」も「パソコン」も出てこないが登場人物の大学生
「椎名燎平」や「佐野夏子」「金子慎一」「星野裕子」たちは生き生きと「本」の
中で輝いている。

ドラマ「青が散る」は再放送を繰り返すたびに視聴率を上げていったと言うが、
もし、ドラマしか見ていない人がいたら言いたい。

        「是非、原作を読んでみなさい」
                         と。

そうした意味でも、宮本氏は「文章の持っている本当の力」を感じさせてくれる
作家だと言えるだろう。

・・・といいながら最近の彼の本を読んでないなぁ・・・。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「本当の文章の力」を感じ取れるようになりますように。

と言うことでマクラの答え合わせです。
「われは海の子」は・・・実は「7番」まであるのです。
1番の「とまや」は「粗末な家・質素な家」くらいの意味でしょうか。
2番の「浴み」(ゆあみ)は「湯浴み」つまり「風呂(産湯)」のこと。
3番の「いみじき楽」は「気持ちの良い・心地よい音楽」と言う意味です。

歌の本当の意味については、今度じっくりUpしたいなぁ。    may






 

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引退の「決意」   ~ある噺家の引き際~

2007年03月01日 | Weblog
私は中年である。
しかし、世の中には「凄い・ヒドイ」話が転がっているものだ。

12人全員が無罪となった「鹿児島県議選をめぐる選挙違反事件」などは
「今は昭和一桁か?」と絶句してしまった。

前にそんなことをUpしたと思うのだが、問題なのは「警察」のこれほど
あからさまな「恣意的捜査」を「検察」が見抜いて「不起訴」にすることが
出来なかったのだろうか。
(まえのUpの時はこれよりヒドイ「裁判所」のことをUpした記憶がある)

「警察」「検察」「裁判所」と言うのは、ある意味犯罪における「フィルター」の
役目をしているものだと私は思っていた。

犯罪を摘発し、起訴し、裁く。そうしたことは、様々な人間がかかわることで
「恣意的」な部分を「客観的」な目でチェックする。それこそが「機関」の存在
理由だと思うのだが・・・。

いまは流行している「それでも僕はやってない」なども、興味深い映画だ。
(早く見たいのだが、我が地域には映画館が無い)

とても、犯罪になど巻き込まれたくないと、そんな意味でも強く思う
「中年」である。


さて、落語家の三遊亭円楽氏が「引退宣言」をしたと言う。

一昨年あたりから静かなブームで「落語ブーム」が起きていたのだが、
違った意味でこの三遊亭円楽氏の動向も注目されていた。

それはもちろん「笑点」の司会をどうするか?が問題だったからである。

思えば、よほど好きな人でもなければ、普通の人にとって「落語」や
「落語家」を身近に感じるのはこの番組くらいのものだろう。

私は変わり者の中年だから「落語ファン」なのだ。そういいながら「寄席」に
行ったことは残念ながらない。

その寄席に行ったことのない私が、なぜか「円楽」の生の高座は聞いたことが
ある。


古典落語は、日本人の「心」に訴える芸だと言える。

江戸時代から明治初・中期位までに出来た噺をそういうのだと思うのだが、
その頃までが「日本人」が「本当に日本人」らしくあったときのようなする。

世界の情報・言語・貨幣が飛び交うようになって「日本人らしい」ことが
おぼろげになって行き、現在は「日本人である」ことに意味を見出さない若い人も
増えている気がする。

古典落語の中にも「滑稽噺」「人情噺」などの種類があるが「滑稽噺」の中には
時の流れにおける日本人のほのぼのとした生き方みたいなものがベースにあるし
「人情噺」には日本人の本来持っていた情や道徳感が見て取れる。

更に落語のおもしろさは、同じ噺を様々な人が演じることでその「差」を楽しむ
ことにある。

大阪と東京・三遊亭と林家・円楽と歌丸。同じ噺もそのファクターで
全く違った物になる。

だから物の「比較」と言うものに興味の無い人は古典落語をあまり、楽しめ
ないだろう。
(同じことがクラシック音楽や歌舞伎にも言える。共通していることは、
 その噺・音楽・演題を熟知して見たり聞いたりしないとその「違」いを
 楽しめないからだ)

円楽氏の引退に「まだ早い」とか「芸は落ちていない」と言って惜しむ声は多いが、
こと落語の大家においては、聞いている方に本人の決意の意味はほとんど
分からないのだ。

伝説の名人「三遊亭円生」は、晩年ロレツが回らなくなってからがおもしろかった。
と言う人もいる。

先代の「林家正蔵(彦六)」(こぶ平が継いだ名前で有名ですね)も、80歳に
なっても独特の口調で死ぬ間際まで高座に立っていた。

その道の大家になればなるほど「人の期待」するものと「自分の納得」できる物との
間で苦しむことになる。

実際、彼の話は多分に技術と目先の新しさを混ぜ合わせた芸だった。円生や正蔵の
ように確固たる技術とセンスで成り立っていなかった分、不安の方が大きかったのではないだろうか。

どんな人も様々なことからの「引退」と言う時を迎える。その時に「生き様」自体が
問われることになる。

円楽氏のそれは、中年の私にまた一つその「見本」を見せてもらった気がする。
自分の場合、仕事においての「引退」は単純に「定年」なんてことになりそうで、
情けなくはあるが・・・。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「違いの分かる男(女)」になりますように。
(古くて分かんないですか?)

「名人」と言われた円楽だが、私の見た高座では「娘」と言うところを「息子」と
言ってしまい照れ笑いでごまかしていたよ・・・。(ちなみにその時の演題は
「長命」と「文七元結」どっちもいい出来だったです。間違えたのは「文七」の方)
                                 may

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