何年か前ポンピドゥー・センターに行ってるのだけれど外観の写真すらない。あのときはモンドリアンが特別展示されていたのだが、そのとき買ったマグネットがあるだけ。不思議だ、1枚も写真撮っていないなんて。今は昔と違って整理していない写真が箱に入っているわけではなく、ファイルで簡単に分けられているから一目瞭然なのでなくしたということもない。好きだったのだがマグリットを観たときと同じで、美術館で観るものではないと思った。それはデュシャンも同じ。上野の美術館でダリを観たとき、平日の午前中なのに暇なおばさん方ダリでも観に来るんだと思った。それに比べて横浜でデュシャン展があったとき驚くほど静かで観るのにはちょうどよかったのだが、スコップや便器観ていると何か虚しい。デュシャン昔から大好きでいつも画集をパラパラめくっていたのだが。ゲイジュツを否定したのに芸術として観ようとするのが間違っている。ミロのビーナスの隣に便器があるからいいのであって、便器の隣がスコップでその隣が自転車の車輪ではただのゴミ。マグリットも前書いたようにおしゃれなポスターを見るようで立ち止まってとか思わない。モンドリアンも写真がないのでどういう作品が展示されていたか定かでないが、通り過ぎただけだった。すると現代美術館も一緒かというと意外とへんてこなのに立ち止まったりする。この3人好きなのでその分ショックもある。比較的静かに観れたが混雑していたほうがありがたみがあったのだろうか。美術館で食い入るように絵を観ている人がいる。まあ勝手だが海外ではだいたい写真が撮れるので早くどけてくれないかと思うくらい。絵を観るという行為について考えることがある。レンブラントの自画像が好きでいくつも観てきたが、画集のが一番ぐっとくる。それはまだ本物観たことない自画像なのでその本物観たらもっと感動するかもしれないが、本物の違う自画像はどれもピンとこないというのはおかしいだろう。で思うに絵画はパーソナルなものではなかろうかと。もちろん本物を家に置くことはできない。しかし美術館で観たところで何が伝わるのだろうか。美術館行ってきましたはただの自己満足。パチンコしてきたよりは聞こえがいい。本物がなくても静かな部屋で好きな音楽をかけながら画集をめくるだけで自分には伝わる。レンブラントの若いときの希望に満ちた情熱と晩年のすべてを悟って自分自身を見つめる姿、それを美術館に行って感じることができるだろうか。
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