植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

役に立たない経済学 わらしべ長者

2021年03月24日 | 時事
 先だって、海外の若い娘さんが、YouTubeかなんかで物々交換を続けて、1セントのヘアピンから車まで入手したと報道されていました。現代版わらしべ長者でありますな。ゆくゆくは庭付き戸建てを狙っているそうです。

 物の価値、値段というのは摩訶不思議です。ワタシが大学の経済学部に入って、一番最初に学んだは「価格は需要と供給関係によって決まる」という理論でありました。以来ほとんど知識や経済理論には興味もなく、なんの進歩も無いままにいつの間にか卒業してしまいました。

 実社会に入って学んだのは、実体経済は教科書に載っているようには動かないということです。ケインズだろうがマルクス経済だろうが、都合よく結果に理屈を合わせているだけです(笑)。例えば、金利が上がれば、株が下がるという理論は、他に何も条件が変わらなければそうかもしれません。実際は、みんなが株を買おうとしている(地合いがいい)タイミングに利上げが行われれば、「マーケットは織り込み済み」とかいって安心して買いが入るということもあります。今の日本は政府(日銀)が構わず株を買い込んでいるので、官製相場と言われております。これも経済原則からは大きく逸脱しております。

 いくら需要が少なくても(学校に行く生徒が減っても)価格は高くなる(授業料は上がる)というようなことが世間にはざらにあります。原価はタダ同然なのに値段が高い、盛り場のバーの酎ハイや携帯電話料金などワタシに言わせればぼったくりであります。要するに経済は受給だけでも統計でも物流でもなく「心理学」やら欲得によって変動する要素が強いということですね。

 さきのわらしべお姉さんは、絶対的な価格(価値)があるならば成立しませんが、是非欲しいと思ったら、例え自分の持ち物(余剰物)の方が一般的には高いものであっても交換を希望するということになります。これは個人での需給バランスという意味では余ってるものなら安く放出してもいい、必要であるなら多少高くても構わない、という理屈ですね。

 さて、ワタシの場合、大根やらジャガイモなどを育て、蕎麦を打ち、かなりの分はご近所や親戚に差し上げます。作る側からしたら、出来損ないでもなんでも大事なのです。元はかかっていなくても手間をかけていますからね。食べられるものを廃棄するのはウチのコンビニ店長位で、ワタシらはもったいなくて、平気で人に上げます。

 逆もありで、10日ほど前には、農家を営む親戚が、大小さまざまな柑橘類を置いていきました。粒が小さく、酸味が抜けてふかふかになったものなので当然売り物にはなりませんが、お土産に持っていけば無駄にはなりません。ウチでも柑橘作っています、などとは口が裂けても言いません。ありがたく頂きました。

 人に差し上げると、だいたいはお返しが来ます。ほとんど無価値なものであっても、気持ちという付加価値があります。相手はどこか申し訳ないという心理が働くので、お惣菜とかお菓子などを頂きます。お互い様、困ってる同士(余ってる同士)で助け合うという物々交換、原始的取引を実践しているのです。

 今、毎日彫っている篆刻、これは純粋に自分の幸せ・楽しみと篆刻の上達を両立させようという行動で、ほとんど頼まれもしないくせに人の姓名印を彫っては、押し付けるという結果につながっております。ヤフオクでは、練習用・普及品・彫かけ・使用済みなどほとんど無価値、廃棄されてもおかしくないようなものが大量に出品されております。その中でましなものを見つけては落札するので、一個当たり数十円程度になります。

 これをワタシらが素人細工で彫っていて、人に売ったら「詐欺」に近いものでしょう(笑)。練習で彫らせてもらって楽しいのに、その上お代を頂いたら罰が当たりますな。それでも、毎日刻んでは人に差し上げ、少しは喜ばれると、やってよかったという気持ちになります。たまに、お返しに肉まんとかチョコレート、お餅なぞ頂きましたが、対価としてはまことに十分すぎるので、申し訳なくなります。プチわらしべでしょうか。

 この歳になって、世のため人のため、少しは役立ちたい思っておりますが、ヤフオクでわずかばかりの小遣い金を落とす以外は、キャッシュレス、現金を使わない生活なので、とうてい日本経済に寄与してるとは言い難いのですね。
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