まてぃの徒然映画+雑記

中華系アジア映画が好きで、映画の感想メインです。
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ひとつの歌

2012-12-27 09:54:06 | 日本映画(は~わ行)

昨年の東京国際映画祭で上映された作品が、今年のTIFFに合わせて限定ロードショー。

ポラロイドカメラで写真を撮る青年。駅のホームで何枚かの写真を撮ってから階段を上がると、何やら事故の音がする。ホームで被写体になった男を、青年は密かに駅を出てから尾けていく。静かな住宅街を行き、男が玄関に入るまで見守る。青年は人を尾けるのが趣味なのか、夕闇のなか足早に1人で歩く女性の後も尾けて、部屋の電気が点くのを見守る。

青年は普段は植木職人をしていて、今はちょうど大きなお屋敷のお得意さんらしき家に先輩と2人、庭の手入れをしている。お屋敷では、最近贔屓にしてくれていた主人が亡くなったらしく、お年を召したご婦人がお茶や食事を出してもてなす。

駅から尾けた男の家にふと行ってみると、男の葬式を出していた。彼はポラロイドカメラのフィルムを探して町角の古い写真屋へ行き、店の女性と少しずつ親しくなる。女性とは、バイクの後ろに乗せて一緒に海まで行ったり、植木のお客さんの家のパーティに行ったりする仲になったが、青年はあることに気づいてしまう。。。

台詞がほとんどなく、説明も最小限というか極限まで削ぎ落とした描写にもどかしさを感じます。彼は何をしているのか、彼と周囲の人間との関係性はどうなっているのか、いったいスクリーンの中で何が起きているのか、ほとんど説明はなく、当然監督の頭の中にはしっかりとしたストーリーがあり脚本もあるのでしょうが、わざと観客に分からないようにさせてるんじゃないかっていうくらい、ストーリーを伝える行為を放棄しているような感じです。

上映後に杉田協士監督と五所純子さんのトークショーがあって、その話を聞いたりチラシの解説を読んだりして、ようやくストーリーが繋がって物語の全体が見えてきました。何だかとにかく消化不良な気分です。

トークショーでは、まず「削ぎ落とす」ということに焦点が当たります。昨年のTIFFで審査員から捨象する意味をはき違えていると酷評された、と監督は自虐ネタにしていましたが、「映っていないこと、映っていないものにも意味があり、全てのシーンに明確に伝えたいことがある」と言っていました。例えば冒頭の駅の場面、ホームには青年と男と女性がいて、青年は男も女性も両方を撮っています。しかし駅から出てきたのは青年と男の2人でした。後から考えると、青年が聞いた音と合わせて女性に何かが起きたんだ、ということがそこから読み取れますが、その瞬間は「女性は電車に乗って行ったのかもしれないし・・・」とさして気にも留めませんでした。監督の意図を推し量るのは、一度見ただけではなかなか伝わりづらと思います。青年がお辞儀をする場面も何回も撮ったとのことですが、台詞がない分だけお辞儀の角度やタイミングで語らなければならないということでしょうか。

このように語られていないことにも意味があるとすると、観客側も漫然と観ているだけではストーリーが理解できないので、否応なく物語に向き合わされて、それぞれのシーンの意味、俳優の一挙手一投足、さらにはそこにあるはずなのにないもの、あってもいいのにないものにまで思いを巡らし、ストーリーを編み上げる役割を担わされているような気がします。

最後の告白のシーンは、どこまで言うかずっと役者と話しをしていて一旦は決めて撮ったそうですが、撮りながらスタッフ全員の空気が何か違う、と感じて今の形にしたと言っていました。物語の中の関係性を把握して、もう一度見たらまた何か新しい面白さが見つかるかもしれませんが、商業映画らしくもう少し分かりやすさがほしいところです。

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