日本人に生まれて

前期高齢者の仲間入りをしました。昭和、平成、令和を振り返りながら、日常の出来事を綴ります。

自衛隊 海外派遣の歴史

2020-01-04 04:35:28 | 政治
今日の言葉

 一度言葉が口から出れば、
 取り戻すことはできない。
   ホラティウス(ローマの詩人)

閣議決定

内閣が合議体として意思決定するための会議。内閣総理大臣が議長となり各大臣から提出された案件を討議する。通常非公開で、決定は全員一致の形式をとる。
 ブリタニカ国際大百科事典小項目から

始まりの文

「桜を見る会」に対する年末の野党の追及、自分も同調していましたが、怒りがしぼみつつあります。安倍首相の思惑通りの展開になりそうです。「桜を見る会」をおとりにして「ホルムズ海峡自衛隊派遣」を閣議決定、国会の審議、討論を通さないで進める方法は安倍内閣の常套手段です。これでは、国会の役割を果たさず、閣僚以外の議員の存在価値はありません。野党の政策も何を重点にするかぼやけて見えません。海外への自衛隊派遣の履歴です。

自衛隊海外派遣 朝日新聞より引用

自衛隊の海外派遣をめぐっては、これまでも国内で議論されてきた。

専守防衛の組織である自衛隊は戦後、訓練や親善を除いた海外派遣は行ってこなかった。

転機となったのは、イラクのクウェート侵攻を受けた1991年の湾岸戦争だ。日本は米国中心の多国籍軍に自衛隊を派遣せず、戦費130憶ドルを負担したが、米国国内では批判が出た。

日本は湾岸戦争の停戦合意後の同年4月、海自の機雷掃海部隊を自衛隊初の海外任務としてペルシャ湾に派遣した。専守防衛の枠を超えるとの批判に、政府は停戦合意後で武力行使が目的ではないと主張。自衛隊法の機雷除去の任務を根拠にした。

90年代は「国際貢献」を旗印にした海外派遣が増加した。92年には国連平和維持活動(PKO)協力法が成立。初のPKO派遣となったカンボジアでは日本人の国連選挙監視ボランティアと文民警察官が犠牲になった。

2001年の米国同時多発テロ後は、米国の対テロ戦争への協力で海外派遣に拍車がかかった。小泉政権は01年、テロ対策特措法を成立させて、海自をインド洋に派遣して米空母に給油した。03年のイラク復興支援特措法では、イラク・サマワの現地に陸自などを派遣したが、活動地域が「非戦闘地域」にあたるのかが問題となった。

15年の安全保障関連法成立は、自衛隊の海外派遣をさらに拡大させるものだ。後方支援の対象は米軍以外に広がり、活動範囲に地理的制限がなくなった。ただ、今回の中東派遣は安保関連法案でなく、防衛省設置法に基づく「調査・研究」が根拠だ。

これまでの主な自衛隊の海外派遣
・湾岸戦争の停戦合意後、自衛隊初の海外任務として海自掃海部をペルシャ湾に派遣
・停戦監視でカンボジアPKO派遣
・米同時多発テロ
・米軍などにインド洋で給油活動
・イラク戦争勃発
・イラク・サマワに給水や医療支援て派遣
・ソマリア沖、アデン湾に海賊対処の艦艇を派遣
・南ス-ダン独立支援でPKO派遣

保守の真意 ディスレーリ

保守は維持し、改造すること。時務に応じて国政をよく維持し改造してゆくこととし自分の使命は、その保守党を国民に魅力ある政党にすることである。自分は悪を去ることにおいてはラディカルである。急進的であるが、善いものを保つことにおいて保守的である。

結び文

平成は失われた30年と言われますが、昭和の栄光と挫折の膿を吐き出した時代でもありました。令和は日本のアイデンティティを確立する時代です。「他人任せ、私知りません、あなたについていきます。」思考能力が失われた日本人、どのように自立していくか覚悟を決める時期がきています。自衛隊海外派遣を機に、憲法9条の存在意義もしかりです。




コメント
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