イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「植物は〈知性〉をもっている  20の感覚で思考する生命システム」読了

2018年05月23日 | 2018読書
ステファノ・マンクーゾ 、 アレッサンドラ・ヴィオラ/著) マイケル・ポーラン/序文  久保 耕司/訳 「植物は〈知性〉をもっている  20の感覚で思考する生命システム」読了

「植物は知性を持っているか?」そんなテーマで書かれているのだが、知性を持っている持っていないにかかわらず、植物はすごいというお話である。

著者は高等動物が持っている五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)に加えて15もの感覚を持っていることが知性を持っているという証拠だという。しかし、視覚は光の方向に伸びてゆく能力、聴覚は振動を感じる、嗅覚は根が持っている養分に反応する力、触覚は食虫植物などが葉を閉じるときの反応のもとになるものや蔓が伸びてきて何かに撒きつくときの動きの元になっているなどなどが根拠だといっているのだが、これはあまりにも植物愛が強すぎるのではないかと思うのである。こういうのは、ただの反射行動にすぎないと思うのである。人間でも内臓同士が脳を介さずに情報の交換をしているとNHKでタモリが言っていた。しかし、全然動かなくて立っているだけにしか見えない植物だが、これだけのことをやってのけているというだけですごいのだから、わざわざ知性を持っているというようなことを言わなくてもいいのではないかと思えてくる。

この本では“知性”の定義を、「生きている間に問題を解決する能力」としている。その定義からすると、例えば、虫がやってきて葉っぱを食べられたとすると、植物はその葉っぱの周辺の葉っぱだけ虫が嫌う物質を発散するように仕向ける。または食虫植物が虫を消化する過程、ある種の蘭の花はハエのメスそっくりに擬態し交尾を誘って受粉の手助けにしていること、葉っぱや根はそこに栄養分や光があるからといって一斉にそっちを向いて成長するのではなくてバランスよく成長しながらなおかつきちんと生きてゆくための材料を求められるようになっているとか、そういう事実が知性を持っている根拠になるのであると言っているのだが、これらもはやり、きっと様々な反射行動の積み重ねがそうさせているに過ぎないと思うのだかどうだろうか。
事実、著者も、鳥が編隊を組んで動き回ってもぶつからないのは非常に高度な技術ではあるけれども、それは個別の鳥が隣と必ず一定の距離を保って動くという決まりを守るという単純な行為だけでそれが成り立つ(これを創発と呼ぶらしい。)そういう単純な行為が複雑極まりない動きを生み出すといっているのだからきっとそうに違いない。

最後は哲学的な話になってきて、 “知性”の定義が再度哲学的に語られる。
人間のようなタイプの知性だけを知性と呼ぶのなら、地球外生命を探すという行為は無駄であり、この宇宙、もしくは地球上にでさえ知性というものにはさまざまなタイプがあってしかるべきだというのである。また、人工知能はいつになったら知性を持ったことになるのかと問いかけもしているけれども、もっとシンプルに、数億年という時を経てこれだけの能力を身につけた植物に敬意をはらうだけで十分ではないのだろうか。
もしくは、もっと哲学的に語るのであれば、そもそも知性とはただの反射が複雑に絡み合った結果であり、その絡まり方が、人間の方がわずかに多いだけのことであるのだからすべての生物の間に知性の境界線はなく、人間だけが偉そうにできるものではないのだということになるのではないだろうか。




実感として、これはすごいと思ったことをいくつか書いてみようと思う。
まずは、ウチの庭に生えている植木のバベの木だが、自分で剪定をおこなうとやたらに切り過ぎる傾向がある。というか、植木屋さんというのはちょこっと切るだけで木はどんどん大きくなっていく。彼らは背の高い脚立を持っているから大丈夫なのだろうが、こっちにはそんなものがないから去年、思いっきり枝を切り取ってやった。特に手が届かない頭頂部を必死になって刈り込んだのであるが、その途端、幹であろうと枝の途中であろうとおかまい無しに新しい芽が吹き出てきたのだ。若返ったというのでもないだろうが、自らの命の危機を感じたのだろうか、とにかく葉をもっと出さなければということになったのだと思う。どこにも司令部らしき器官はないはずなのであるけれども木の中のネットワークのすごさを思い知った。
次はタラノメ。この木は大体、森が途切れて日が当たるようなところに生えている。だから新しく道や住宅地を作るために切り落とされた法面の上のほうを探すと見つけることができるのだが、そこが森に飲み込まれてしまうと枯れてしまう。しかし、古くなって他の木の勢いが増している場所でよく観察してみると、タラノメの周りというのはそこだけ空間が残っていたりする。港の近くのタラノメしかり、去年見つけて今年アクセスしてみた生石山のタラノメしかり、ブッシュの中、そこだけぽっかり空間ができているのだ。これはきっと植物同士の戦いのようなものが繰り広げられ、何か他の植物を寄せ付けないような工作をしているに違いないと考えるのである。
家の木は切ってやらねばおそらく2、3年で家を飲み込んでしまうほどの勢いで枝を伸ばしてしまう。近所にもそんな家がいくつか見受けられるが、その生命力のすごさは動物の比ではないように思うのである。人間さえも抵抗をし続けないと住処を奪われてしまうということだ。誰もこの庭を愛でたり、眺めながらほっこりするようなことがなく、当時はどの家にも小さいながら植木や石をあしらった庭があったので僕の父親もそれに倣ったまでだったと思う。僕の植物に対する価値観は食べられるかどうかでしかない。それならいっそ切り倒してしまえばいいと思うのだけれどもそれは可哀想だと思いとどまってしまう。

と、いうようなことを考えてみると、やっぱり植物にも知性があり、戦略と戦術を駆使していきてきたのだろうかなどと考え方が変わったりしてしまう。
ならば、僕が生石山で摘み取ってくる山菜類も摘み取られる瞬間は断末魔をあげているのであろうか・・。
いやいや、そうは思いたくない・・・。

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