イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「『洋酒天国』とその時代」読了

2018年09月25日 | 2018読書
小玉武 「『洋酒天国』とその時代」読了

著者の「洋酒天国」をめぐる著作はいくつか読んでいたのだが、こんなタイトルの本もあった。

今回、師は脇役に回って洋酒天国が発行されていた時代の文壇、そしてかなり範囲は狭いけれども酒場をめぐるその頃の時代の匂いのようなものをまとめている。
どちらかというと、こっちの本に内容が近い。確かに内容がだぶっている部分もあったような感じだ。

洋酒天国は、昭和31年4月10日に第1号が発刊され、昭和38年1月31日の第56号で終了した。時代は戦後の復興期から抜け出して高度経済成長期を迎える助走段階の時代とでもいえる時代であった。
酒場の歴史では、大正から昭和の戦前の頃は大正モダンと言われたように、バーというと有産の知識層だけが出入りできる場所であったけれども、庶民が戦後、カストリやバクダンというような野蛮?な酒を飲んでいた時代を経てその庶民が有産知識階級を追いかけ始めた時代である。そしてトリスバーがその受け皿になった。酒場だけでなく、生活のすべてで一ランク上の生活を目指していた時代である。未来には必ず一ランク上の世界が待っている。そんな希望に満ちた時代でもあった。

そして、一般の人々が同じ方向を向いて進んでいたというのがこの時代であったのだろう。読む本も、聴く歌も、酒場での話題も同じような内容があちこちで語られた。逆を返すとそれだけ選択肢が少なく、そしてみんながそういうものに飢えていた。だから同じものを追い求めることが当たり前で、それで十分満足ができた。そして、共通の話題を持っていられるということはきっと集団の中での安心感につながっていたのではないだろうか。
洋酒天国という雑誌はそんなスタンダードを人々に知らしめたメディアのひとつであった。

それと比較すると今は情報がありすぎる。多すぎて何を求めればいいのかわからない。そしてその情報もすぐに使い捨てられ留まることがない。共有できるものが少なくなり孤立してゆく。まさしく混沌とした世界だ。
さて、人としてどちらが幸せであるのか。みんな同じだけれどもまだまだ上を目指すことができる。何でも求めることができるけれども下手をするとその波に押し流されてしまうかもしれない。(お金がなければそれさえもできない。)そして僕もそんな世界の中に溺れている。


ものすごく消極的に思われるかもしれないけれども、少し足らないくらいの状態で上を向いていられる方がよほど心の状態としてはいいのではないのだろうかと、この本の内容とはまったく関係がないことを思いながら読んでいた。
師の言葉に、「知ることの苦しみ」というものがあるけれども、多分そういうことを指しているのだろうとつくづく思うのである。

コメント
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