2歳の息子テッドは近くのヒッチコック幼稚園(Hitchcock Presbyterian Church Preschool)に入学した。教会附属の幼稚園で申し分ない環境だった。Tedは英語がわからなかったこともあって、はじめのうち通うことを嫌がっていたが、次第に慣れていった。友達のバースデイパーティにも招かれるようになった。生徒の数は十二三人で、日本人としては二人目だった。幼稚園側もはじめは戸惑っていたようだが、辛抱強く面倒を見てくれた。担当のスミス先生は母親の面倒まで見てくれた。妻はSmithという名前を正確に発音出来なかったので、先生から"Mrs. Smith, Mrs. Smith"と何度も言いなおされた。今では懐かしい思い出である。
同じ村の少し離れたところに勤務先事務所の社長Kさん一家が住んでいた。K夫人はとても面倒見の良い人で、慣れない妻に手取り足取り教えてくれた。自動者免許をとるための運転練習、スーパーマーケットなどの行き先案内、買い物の仕方、子供の幼稚園入学先の世話など、何から何まで助けてもらった。お陰でスムースにNY生活をはじめることが出来た。今でも頭が上がらない大恩人である。
中庭を挟んだアパートに日本の大手商社勤務のGさんが住んでいた。ご主人はとても忙しくて我が家と同じく母子家庭みたいだったが、NYに長い間住んでいたこともあって、何かと僕たちを助けてくれた。妻が出産する日に僕は会社の仲間とゴルフをしていたことがあった。ご主人が妻に代わってゴルフ場にかけあって僕を探してくれて「出産が近いからすぐ帰れ」と連絡してくれた。まさかの時には、いつもGさん夫婦に助けてもらった。我が家にとってはまさに恩人だった。残念ことに、ご主人はその後日本で仕事をしている最中に倒れて亡くなった。日本のために戦った戦士の一人だったと思う。
庭を隔てた向いのアパートにライアンさんという自分たちと同年代のアイルランド系の夫婦が住んでいた。奥さんの名前はマリアンヌ(後年、我が家の愛犬に同じ名前をつけました)。優しいひとで、何かとわれわれの面倒を見てくれた。あるとき妻が英語を教えてほしいと頼んだら喜ん引き受けてくれた。それ以来家族づきあいが始まった。主人は若いころ軍人だったが、辞めてからは経理の勉強しながら会社のマネージャーになった。奥さんもいろんな資格を取ったりして、社会に役立てようと努力していた。日本に帰ってからもしばらく交流が続いていたが、お互いが家を移ったりしたため音信が取れなくなった。今でも残念に思っている。
階下の住人はユダヤ系の中年夫婦だった。ある晩、うちの子供が大きな足音を立てたといって、親父が血相変えて怒鳴りこんできた。"Big sound like thunder. The ramps are shaking."確かに我が家のカーペットは薄かった。しかしそれにしても少しオーヴァーな、という思いだった。以来彼らとは少々気まずい関係になった。
彼らには高校生の一人娘がいて、よくボーイフレンドが遊びに来ていた。休みの日には中庭の芝生に椅子をだしてくつろいでいた。時折キスもしていた。しかし、親も付近の住民も見て見ぬ振りをしていた。
彼らには高校生の一人娘がいて、よくボーイフレンドが遊びに来ていた。休みの日には中庭の芝生に椅子をだしてくつろいでいた。時折キスもしていた。しかし、親も付近の住民も見て見ぬ振りをしていた。
斜め下の家もパパとママとリッキーという名前の男の子の3人家族だった。リッキーも我が息子テッドと年が近かったので、よく遊んでくれた。彼らはイタリア系の陽気な家庭だった。テッドはじめのうち言葉がよくしゃべれなかったこともあって、思うようにならないときに、相手ををたたいたり、咬んだりしたらしい。そんな時リッキーのママキャロルはテッドにむかって"Don't hit, Ted"とか"Don't bite,Ted"と言って諭してくれた。お陰でテッドが最初に覚えた言葉がそれらだった。
リッキーのパパはサラリーマンであるとともに、町のボランティア・ファイアマンだった。どこかで火事があると、何はさておき家を飛びだして行った。派手な夫婦喧嘩も良くしていた。
リッキーのパパはサラリーマンであるとともに、町のボランティア・ファイアマンだった。どこかで火事があると、何はさておき家を飛びだして行った。派手な夫婦喧嘩も良くしていた。
ハーツデールのアパートは2階建で4家族が住んでいた。お隣はドイツ人の主人レイ・ミュラーさん、フィリッピン人の奥さんローラとキースという息子が住んでいた。わが息子テッドはキースと同じ年頃だったので、すぐに仲良くなった。
あるとき息子がキースに向かって「馬鹿」と怒鳴ったらしい。母親のローラがテッドを抱きかかえて飛び込んできた。「テッドがキースにひどい言葉を使った。」と恐ろしい剣幕で妻に抗議して来た。彼女が言うには、「フィリッピンにいたとき、日本の軍人がよく「馬鹿」と怒鳴っていた。そういう良くない言葉をあなたの息子が使った。」というのだ。妻は返す言葉もなく、ただただ謝った。
彼らの方が、われわれより早くドイツに帰っていった。そのとき記念にもらったロッキングチェアーは今でも我が家の居間にあって、僕が毎日愛用している。
あるとき息子がキースに向かって「馬鹿」と怒鳴ったらしい。母親のローラがテッドを抱きかかえて飛び込んできた。「テッドがキースにひどい言葉を使った。」と恐ろしい剣幕で妻に抗議して来た。彼女が言うには、「フィリッピンにいたとき、日本の軍人がよく「馬鹿」と怒鳴っていた。そういう良くない言葉をあなたの息子が使った。」というのだ。妻は返す言葉もなく、ただただ謝った。
彼らの方が、われわれより早くドイツに帰っていった。そのとき記念にもらったロッキングチェアーは今でも我が家の居間にあって、僕が毎日愛用している。
神戸の友人が夏に咲く珍しい花3種の写真を送ってきました。自分だけ眺めていてはもったいないので紹介します。
「ユウスゲ」。レモン色のすがすがしい花ですね。夕方に咲いて朝にはしぼむそうです。同じ仲間のニッコウキスゲは昼咲き、エゾキスゲは夜昼咲きです。面白いですね。
「キツネノカミソリ」。ヒガンバナは街中でよく見かけますが、こちらは見たことがありませんでした。ヒガン花はちょっと気持ちが悪い感じがしますが、こちらはすっきりしてますね。狐という名前がついているためでしょうか?
珍しいハスの花「近江妙蓮」。滋賀県守山市にある妙連公園に咲いているそうです。驚いたことに花弁が2000枚から5000枚もあります。室町時代より約600年にわたって所有者の田中家が守ってきたそうですが、明治29年から花が咲かなくなりました。世界的ハスの権威者である大賀博士に依頼して結果、昭和38年に復興を果たしたそうです。僕は長年滋賀県に住んでいたのですが、恥ずかしながら知りませんでした。
「ユウスゲ」。レモン色のすがすがしい花ですね。夕方に咲いて朝にはしぼむそうです。同じ仲間のニッコウキスゲは昼咲き、エゾキスゲは夜昼咲きです。面白いですね。
「キツネノカミソリ」。ヒガンバナは街中でよく見かけますが、こちらは見たことがありませんでした。ヒガン花はちょっと気持ちが悪い感じがしますが、こちらはすっきりしてますね。狐という名前がついているためでしょうか?
珍しいハスの花「近江妙蓮」。滋賀県守山市にある妙連公園に咲いているそうです。驚いたことに花弁が2000枚から5000枚もあります。室町時代より約600年にわたって所有者の田中家が守ってきたそうですが、明治29年から花が咲かなくなりました。世界的ハスの権威者である大賀博士に依頼して結果、昭和38年に復興を果たしたそうです。僕は長年滋賀県に住んでいたのですが、恥ずかしながら知りませんでした。
夕方、旭川の郊外東神楽森林公園のキャンプ場に着きました。自然に囲まれたすばらしいところでした。
バンガローの前は甜菜畑が広がっていました。
夕食は旭川の街へ出て「松尾ジンギスカン」で腹いっぱい食べました。
翌朝は旭岳へ直行。山支度をしてロープウェイで「すがたみ」駅まで。そこから花と鳥と山の風景をたっぷり楽しみました。
ツツジ科のエゾノツカザクラ。かわいらしい赤紫色の鈴状の花が一面に咲いていました。
ゴマノハクサ科のイワブクロ。薄ムラサキ色をした鐘状の花が房をなして咲いていました。
サクラソウ科のエゾコザクラ。かわいらしいピンクの花がそこかしこに咲いていました。日本では北海道しか見られないそうです。
バンガローの前は甜菜畑が広がっていました。
夕食は旭川の街へ出て「松尾ジンギスカン」で腹いっぱい食べました。
翌朝は旭岳へ直行。山支度をしてロープウェイで「すがたみ」駅まで。そこから花と鳥と山の風景をたっぷり楽しみました。
ツツジ科のエゾノツカザクラ。かわいらしい赤紫色の鈴状の花が一面に咲いていました。
ゴマノハクサ科のイワブクロ。薄ムラサキ色をした鐘状の花が房をなして咲いていました。
サクラソウ科のエゾコザクラ。かわいらしいピンクの花がそこかしこに咲いていました。日本では北海道しか見られないそうです。