休憩処 まっちゃの部屋(別館)

まっちゃの言葉と戯れる日々の徒然日記。

美しい言葉

2012年07月19日 02時40分47秒 | 日記
フランスでは「うちの娘は美しいフランス語を話せますのよ」と
母親が自慢をする、という話を聞いたことがある。

日本ではそういう話はあまり聞いたことがない。
そして、そう自慢できるほどの日本語力を持っている、と
自信を持って言える人はどのくらいいるだろうか。

そして、手話はどうか?

私の親は聴こえるし、手話はできない。
(意外なようだが、私のころのろう教育では「口話主義教育」だったので
 親が手話を覚えたくても先生から止められるのが常だった)

そして、私自身もまた、然りである。
生まれた時から日本語らしき口形と、
補聴器を通して聞こえてくる声らしきものと、
目で見てわかる書記日本語とで
コミュニケーションを取ろうとしてきた。

コミュニケーションというのは、
「通じている」とお互いに認識できている状況が、
お互いの内に了解されて初めて成り立つ、
ということであるならば、
私はコミュニケーションできる方法を
持たなかったということになろうか。

同じ聴こえない立場にありながらも、口話主義教育のために
口の読み取りや不完全な声を出すことを強いられ、
手話も手話とは言えないような、中途半端な感じで
多感な思春期を過ごしてきた。

今にして思えば、思春期にありがちな反抗期がなかったのも、
「不完全な」コミュニケーション方法しかないがゆえに
内容を理解してもらう前の段階でとどまってしまうことが多かった。
発音を直されるのはスペルが間違っているよ、と言われるのと同じであり、
「それなら言わないですまそう」としたことが大きいと思う。

また、ろう学校ではいじめを受けていたために
安全なわが身の置き所を求めて、職員室に入り浸った。
そこでは本によって覚えた言葉を操り様々な知識を吸収でき、
アカデミックな雰囲気に浸れる、とっても楽しい場所だった。

手話よりは書記日本語が第一言語だったと思う。
手話はコミュニケーションの中で習得したわけではなく、
大学の手話サークルで手話を教える立場になって、
ちゃんと教えたくて、手話辞典で改めて勉強し直した、という。


なぜだろう。
こうして育ってきた自分の手話が美しいとかわかりやすいとか
日本手話話者と言われるようになったのが、本当に不思議でならない。
そして、最近立て続けにエッセイや論文を書いて発表したらとも言われた。

なぜなんだろう。
私を通して、知りたいもの、見たいものがあるのだろうか。
今のところ、インスピレーションが降りてこないのだけど、
「こういうテーマで話してほしい」と言われることそのものが
インスピレーション、なのかもしれない。


でも、私は思う。
日本手話とか日本語とか言語に関係なく、
「美しい」表現をする人は、心根も美しいのだ、とおもう。
その美しい心根が土台であり根幹となって、
枝葉である立ち振る舞いや言葉遣い、表現として表れてくる。

美しいとされる表現を考えるよりも、
何時何時迄もいかなる時も常にぶれず「美しい人間」でありたい。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Mai Moroe)
2012-07-19 10:03:21
こんにちは♪

良いお話だなぁと思いました(^^)
私もそんな風に、美しい表現の出来る人間になりたいな…(o^^o)
ありがとうございます (まっちゃ)
2012-07-20 00:15:04
Maiさん

コメントありがとうございます☆
Maiさんはすでに身に着けていらっしゃると思いますよ♪

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。