団塊世代MACCHAN(まっちゃん)の、<人生これから>だよ!

リタイア後16年、人生を日々面白がる楽しみを綴ります。健康と家族と友人を大切にする、年金生活爺さんの「残日録」です。

青春18切符は定年後旅行の強力武器だ

2007-08-30 | 旅行
世界遺産「姫路城」も、浜松から2300円で見物可能!

金があまり無くても、時間がたっぷりありそうなこれからの人生は知恵と工夫次第でいくらでも楽しくなりそうな気がする。旅行もその一つだ。55歳の役職定年以降は工夫しながら夫婦で旅行してきた。そんな中で最近また見直して頻繁に使用しているのが、「青春18切符」だ。

この切符は今年20周年を迎えたJRの、根強いファンをたくさんもつロングベストセラーだ。学生の春、夏、冬の長い休みに照準を当ててスタートして、この名前がついているらしい。しかし昨今のこの切符の使われ方を見ていると、どうやら少子高齢化社会を反映して、我々団塊世代を中心に50台以上の層に圧倒的にファンが多いと思われる。この春、発売20周年を記念して、通常5回¥11500のチケットが¥8000で販売されたときはもの凄かった。夜11:00ごろ浜松駅に到着した普通列車から降りてきた乗客は、70%くらいが自動改札が通れない青春切符を手に持ったわれらが仲間だった。恐るべし”新”青春パワー!!

今週もまた平日休んで火、水1泊2日の「文化遺産を巡る旅」に出かけた。夫婦併せて4回分のチケットを確保して、向かった先は姫路と倉敷。目的は言わずと知れた、追試無しで世界遺産に認定された「姫路(白鷺)城」と文化の薫り高い「大原美術館」だ。今回は初日早朝、浜松を出発して昼には姫路に着いた。

姫路駅から見えた目指す城は、テレビ番組の「世界遺産」で見た圧倒的な迫力と異なって、「なんだ、あれかよ?!」と思うくらい謙虚に見えた。駅から歩いて約15分、各交差点で立ち止まるたびに白鷺は迫力を増していく。城の内堀を渡り、坂を登って行く頃にになると、「これが400年以上前に、当時の権力が金に飽かせて人々の知恵と力を総動員して造った大木造建築なんだ」という少ない前知識が頭の中をぐるぐる巡る。中に入ると樹齢500年以上の大木を惜しげもなく使用した構造で、なんと高さ30M近い5階建てだ。数百人の観光客が一度にガタガタぞろぞろ歩き回ってもびくともしない。当初の3時間滞在を2時間近くもオーバーさせ、大汗の塩を含んでポロシャツが色を変えていたが、かまわず祖先の偉業を振り返りながら城周辺庭園施設も歩き回った。

宿泊は、電車を2度乗り継ぎ1時間半更に西へ移動した倉敷だ。用意周到に分厚い会社の契約施設一覧ガイドブックから予約したビジネスホテルは、一泊一人なんと¥2900也。使用は最初で多分これが最後?だろうな。ツインルームは契約対象ではないとのことで、安い宿泊料には勝てず、結婚後33年で初のシングルルーム泊の一晩別居となった。これもまあいいっか??

加齢による?朝寝できない症候群で、7:00には行動開始。市や商工会議所が永年努力して観光街づくりをしてきたなと思わせる「美観地区」には、もうじっとしていられない熟年夫婦が何組も繰り出して写真を撮り合っている。そこいらを散歩して時間をつぶし、9:00の開館を待って事前研究した数施設を巡ったが、何と言ってもハイライトは「大原美術館」だ。100年も前に紡績業で財を成した大原孫三郎氏の、今で言う企業メセナぶりも凄みがあるが、画才を買って古今東西の美術品を集めさせた画家の児島虎次郎の並々ならぬセンスと企画力、そのパトロンに対する説得力にも思わず唸ってしまった。

国民として心から誇らしいと思った瀬戸内の文化都市とも、14:00にはお別れだ。これから先1~2時間毎5~6回の乗換えがある。しかし、車窓から最近目だって増えてきた田圃の鷺を数えるもよし、瀬戸内名物を肴にビールを飲むもよし、永年遠ざかっていた小説に没頭するのもまたよし。浜松までの7時間余りは色んな楽しみ方ができる。今回の心身堪能旅行の総経費、二人で3万円余り。もちろん目、心、お腹の満足代全て込みであった。さあ、次はどこにしよう??
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これも屋上緑化?

2007-08-26 | エコ生活
 昨日写真で紹介した老愛馬と軽トラが入っているガレージの屋根上は、一年中緑と花々で覆われている

この夏は、梅雨明けが大幅に遅れた分太陽が大張り切りで、毎日うだるような暑さだ。「ええっ、35℃??」昼間の二階の部屋には、とてもいられない。15年前建て替えしたときの工務店には、厳しく予算の上限を伝えておいたので、天井の断熱材が足りなかったのか? でも普段から信頼している工務店の棟梁の「いい仕事」を、今更疑うなんてとても失礼なことじゃないかね、MACCHANよ。

予算のこともあるが、東海大地震の可能性が徐々に高まっていると当時盛んに言われたために、屋根に瓦は使わなかった。しかし昔の建物でいわゆる陶器の瓦を使っている家は、天井断熱材なんか使っていないだろうに、二階の部屋でも結構涼しい。分厚い茅葺の家なんか、もっと涼しかったに違いない。家を作り始めて何千年来の、我々の祖先の生活の知恵にはやはり敬意を表したくなる。

暑さ対策の生活の知恵といえば、最近は「打ち水」や「屋上緑化」などが、省エネの観点でまたクローズアップされている。我が家はずっとエアコンが無い生活を送っていたが、何年か前に居間にだけやっと1台導入した。とても暑くてたまらない数時間、夏中で延べ1週間くらい限定的に使用している。そして相前後して、居間の前庭になっているコンクリート面上を通ってくる風は3~5℃くらい高いのではないかと感じていたので、そこを緑化することにした。

我が家は坂の途中に建っているので、ガレージは家と庭の下に潜り込むような形で設置されている。その結果、ガレージの屋根部分のコンクリートが居間の前にむき出しになっているのだ。工務店の棟梁に構造的に問題ないかどうか相談して、OKをもらってから土を入れることにした。昨日のブログに書いたように、火の車の家計がまだ続いていたので、DIYでできるだけ安く仕上げたいと考えた。

まず、棟梁にどこかの工事で余った防水シートを頂いて、コンクリート面に敷いた。ホームセンターで2メートルもあるどこか外国の幅広い鉄道線路に使っていた枕木も6本購入して、220cmx400cmの馬鹿でかい木枠を作った。家計をやりくりしてくれている大蔵大臣と二人で、時間をかけてえっちらおっちら運び上げたが、腰が抜けると思うほど重かった。そして土入れだ。借りてる畑(内緒だったけどもう時効だよね)や知人の畑からも土を頂いた。植える植物と屋根の重量耐久性のことを考えて、軽い牛糞もかなり追加した。土の厚さは20cm程度に留めておいたが、草花が育つのに十分な条件が備わった花壇になったかどうか、少し心配だった。

しかし3ヶ月も経つと、それも杞憂だったことがわかった。何よりも草花好きのかみさんの手塩にかかって、花壇は緑と花々で覆われた。そして次の年は、二階のベランダまで渡したネットを伝って伸びた西洋朝顔が、春から晩秋まで簾となって日差しを和らげ、何百何千と咲き続ける花が目を楽しませてくれている。

今度チャレンジする「遊び小屋」は屋上緑化にするのもいいなあと漠然と考えていたら、ガレージの屋根利用の花壇も立派な?屋上緑化と言えるじゃないかと、改めて気がついた。居間の前庭の暑さを何とかしたいと考えた末のDIYだったので、加齢とともに頭が固くなった私は、当たり前のことに気付くのが何年も遅れたのだった。
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リタイア後を素敵に暮らす

2007-08-25 | 還暦・定年
 若い時上司だったNNさん(右)と、展覧会場の大作前で.


60歳の定年(誕生日前日の10月13日)まで2ヶ月を切り、有休やファミリー休暇、定年旅行休暇などをうまく使いながら週1日程度の出勤にして、いよいよ軟着陸体制に入っている。

少し前に、若い時上司だったNNさんから絵の展覧会をやるという案内を頂いていたので、かみさんとギャラリーになっている古い造り酒屋の明治時代の蔵を訪ねた。いたいたNNさん、会場に入ってすぐ目が合ってニコニコ顔で迎えてくれた。5~6年ぶりに会ったが、日焼けして一層シャープになった印象は、不本意な仕事をしていて早期退職に応じた10年位前より、はるかにいきいきして若くなったと感じた。

NNさんは、私が新入社員でスポーツ事業部門に配属になった時に他部門から転勤してきた人で6~7歳年上、その後私が初めて東京営業所に転勤になったときに直属の上司になった人だ。だから付き合いは37年になる。当初は一緒に飲んだり、麻雀をやったりする普通のサラリーマンの上下関係だったが、NNさんを改めて見直すようになったのは直接仕事の関係が無くなって暫くたった15~6年前からだった。家が数キロ程度の近所だったこともあって、たびたび汗水だらけで黙々と走る姿を見かけるようになった。ジョガーの域を超えた、市民マラソンランナーだと知った。

元々絵心があって、年賀状には力強い達筆と共に「おおっ」と思わせる版画や挿絵が付け加えられていたが、そのうちに巷の流行絵手紙がとても足元に及ばないほどの素敵な絵手紙が来るようになった。その後偶然お会いした時に、早期リタイアすること、絵の勉強とランニングに加えて介護ヘルパーの資格をとるために勉強を始めたことを聞かされた。NNさんと言えば若い時はクラリネットを吹いていて、音楽が縁でわが社に入社されたが(前歯が入歯になってその後の活動は中止された)、本人が吹聴することはなかったが関西の某有名百貨店社長の御曹司だということは、多くの人が知っていて皆一目置いていた。

そのご本人が大きくイメージチェンジしたのは、そのお父上の介護がきっかけだったようだ。父上が亡くなった後は、取得した資格を活かしてずっと赤の他人の介護ヘルパーを続けている。今は月に8回一回当り15時間に及ぶ夜勤をこなしているそうだ。昔から変わらぬ権力には媚びない率直な物言いで、施設のサービス改善を訴えている様子を、ニコニコしながらサラッと伝えるのだった。

そして展示会出品の絵はと言うと、素人ながら口はばったいが私は年々腕を着実に上げて、見るものを更に魅了するようになったと感じた。近郊の寺で気に入った4枚の屏風絵をデフォルメして、30号位の一枚の和紙に描いた(冒頭の記念写真のバックになっているもの)大作はそれを物語っていると思う。それを当の本人に伝えても、「気に入った先生の画風を真似ているだけだよ」と全然肩に力が入っていない。絵手紙展覧会も、最初は浜松を基点にして半径50Kmくらいの東海道宿場町を描いていたが、マイナーな景色を描いてもあまり共感を得ないと反省して、最近は同じ近郊でも皆が知っているところを主に描いているという。

まいった! ごく身近な先輩にも、こうしてすごく素敵なリタイア後の生活を送っている人がいたのだ。とびきり上等な映画を観てきたような清々しい気持ちになって、今日の晩酌はしみじみ特別な味わいになった。
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定期健診と定期点検の怪 その2

2007-08-25 | 健康管理
 齢18年の老愛馬と例の農作用の軽トラ

今月は定期健診に加えて、齢18年の愛車パジェロの法定1年点検を受けた。ドンキホーテの老愛馬ロシュナンテ号ではないが、いたわりながら話しかけながら乗り続けている。

世の中はバブルだったんだなあ。家族とのスキーやキャンプ旅行を夢見て、買換えの予算200万円を大幅に超えて、憧れでしかなかった4WD車に格上げになった。もちろん、かみさんに「10年乗るから、いいよね?」と了承を取り付けるのは忘れなかった。しかし次々に中学高校に進学した息子たちは、テニス、野球、サッカー部活に勤しむようになった結果、家族旅行の休みどころではない。特に野球、サッカー部は父母会組織があり当番もあって、逆に毎週末は遠征試合の送迎や応援ばっかりだった。

そして約束の10年を迎える頃は次々に大学進学、家のローンに加えて授業料や仕送りで家計は火の車になった。一生懸命やりくりしているかみさんには、とても車を買い換えたいと言い出せる状況ではなかった。助かったのは今日に至るまで、プライド高くよい車作りに邁進していたその頃の三菱車は故障がほとんどないことだった。だから、3人の息子たちが自活できるようになって少し家計に余裕ができてきた3年前ごろには、こいつにはどちらかがくたばるまで付き合おうと決めた。

そして今回の定期点検。誠実な技術者が気に入って、この10年は近所の自動車屋でお願いしている。何回か頼みもしない有料サービス項目が気になって、自分で出来る項目はやらなくていいからとか、法定点検項目以外で費用がかかるときは事前に電話相談してくれるように伝えてきた。その日のうちに出来上がった愛車を受け取りにでかけて支払おうとした時、請求項目を確認したら「おや?これ何だろう?」ある項目が気になった。法定点検料、テールランプ交換料(これも事前に相談してくれれば自分で替えられたけど)、ここまではまあいい。3番目に「その他点検技術料¥3000」とあった。

「すみません、これ何ですかね?」窓口の女性はわからず、呼び出されたいつもの技術者がニコニコしながらカウンターまで出てきた。「これはですねーーバッテリーの電流チェックとエアクリーナーの清掃をしました」「法定点検項目じゃないの?」「いえーーー会社の方針でーー」ニコニコ顔が曇って、とても歯切れが悪い。「じゃあ、いつもお願いしてるように、やっていただかなくてよかった項目ですよね」と、ちょっと語気が強まったかもしれなかった。こういう時は自説をベラベラ並べるより沈黙が効力ある、と義弟に教わっていたことを思い出した。意味のある意図的な沈黙30秒。(おまえはビートルズかぁ!!) しびれを切らしたのか、技術者は「では、この項目は無かったことにしましょう」と切り出した。「それは会社持ち?あなたが身銭を切るんじゃないよね?」「違います」「じゃあそれでお願いします」ということで2項目だけになった請求明細が改めて打ち出され、支払いを無事終えた。

同じ点検でも病院と明らかに異なるのは、自分の身体を全面担保に差し出していないこと、そしてなじみの技術者が独りで全ての責任をもって応えてくれることだ。仮に相手に「うるさい嫌な客だな」と思われても、不審に思ったことは納得できるまで質問できる。それにしても、病院といい薬局といい、そして町の自動車屋まで、なんでこの頃はこんなに売上げ利益志向なんだ。これから死ぬまでの多分長い間、大切な年金は業者の言いなりにならず、納得のいく使い方をしていくぞと今月は改めて決心したのだった。



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定期健診と定期点検の怪 その1

2007-08-24 | 健康管理
今月たまたま自分の定期健康診断と車の定期点検をやってもらって、同じ類の「何かちょっと変だな」を感じた。

定期健診は今年は8月初旬に日時を指定され、会社の健康管理センターで受診した。午前中、健診と体力測定そして1時間の健康講話があった。全て終了して12:00、ちょっと前から胃検査のバリュウムを排出するための下剤が効いてきて、お腹がゴロゴロ言っている。健診結果の無罪放免者は名前が呼ばれて、いち早く退出できる。トイレにも行きたいし、去年に続いて無罪で早く解放してくれないかな、という願いも空しく名前を呼ばれることはなかった。居残り組みには、午後から担当医の説明があるという。「ヤバッ」脳裏にあれかなこれかなと、よしなしごとが浮かんだ。

それからトイレには2回行ってすっきりはしたが、気持ちがすっきりしないまま指定された13:15を迎えた。いよいよ担当医の説明だ。「昨年に続いて、健診項目はこれと言って悪いところはありませんね。胃のX線検査も異常がありませんね」『じゃなんで居残り組みなの? はっ早く結論を言ってくださーい』と心がせっつく。「今年は5年に1回の、ペプシノゲン検査というのをやりましたが、値がちょっとーーー。あなたの場合は胃の粘膜を守るペプシノゲンという物質の量が少なく、萎縮性胃炎ではないかと思われます。萎縮性胃炎とは、胃の粘膜が老化して薄くなった結果消化機能が低下し、胃癌やポリープができやすい状態をいいます。X線検査結果は異常なしですから大丈夫だとは思いますが、念のために胃カメラ検査受けときますか? 紹介状を書きますので、X線写真と一緒に持参して受診してください。じゃ、お大事に」「あっ、どうもありがとうございました」

『何がお大事にだよう。何の自覚症状もないのにどうせいっちゅうのーーブツブツブツーー』 そして小心な私は以前に何回か胃カメラ検査を受けた総合病院に翌朝電話予約した。予約できたのは翌週だった。面白くない気分で週末を過ごして、当然すぐ胃カメラだと思ったから、前の晩から飲まず食わずで予約時間に出頭した。持参した紹介状や写真を見もせずに、消化器内科の医者は「さすがY社さんですね。市内でペプシノゲン検査やってるのはおたくだけじゃないかなあ」『褒めてんの?けなしてんの?どっちでもいいから早く胃カメラやってよ』とまたまた心がせっつく。

「萎縮性胃炎の説明は会社の担当医から受けたと思いますが、まあ念のために胃カメラ検査やりますから、いつがいいですか?」『エーッ、これからやってくれるんじゃないの??』と顔に書いてあったのだろう。「検査やるところは、また別ですからね」と医者は言い訳したついでに、「ピロリ菌検査は前に陽性だったようですが、念のためにもう一回検査し、ついでにC型肝炎とエイズ検査をやります、いいですか?」『何の関係があるのよ』と思ったが、何かあった時の担当医が勧めるんだから、文句屋のMacchanも「結構です」とは言えなかった。血液検査後、消化器検査科でアポをとりなおして、翌朝また絶食で臨んだ。小柄な女医さんだったが、テキパキ上手にやってくれた。でも別チューブを4本入れてたから組織取ってるな、と前の経験でわかった。

上手でもやっぱりちょっとつらい15分が終わって、女医さんは、「胃が荒れていますが、特に腫瘍があるというわけではありません。ポリープと萎縮している部分の組織をとりました。後日検査結果をお知らせしますので、改めて予約してください。お大事に」『あれあれ、また出直しかい』心が舌打ちしている。サテライトで、また消化器科の担当医のアポを取り直し、翌週月曜日朝またまた出直した。

若い担当医は、PCで胃カメラ検査の写真を見ながら、検査科の女医と全く同じことを繰り返した。『組織検査の結果はどうですか?』と口が尖りかけた時、担当医は「組織検査の結果は来週初めになりますが、月曜日来られますか?」『エーッ、まだ結果が分からないのに、何で今日呼び出したのよ!!』何かあった時には世話になるかもしれない先生だからーー切れかかる気持ちを抑えながら、またまたまたサテライトでアポをとった。

そして20日の月曜日、おずおずと部屋に入り担当医の前に座った。「特に異常はありませんでしたので、潰瘍を誘発し癌化する確率の高い、ピロリ菌の退治をしておきましょう。1週間薬を飲んで1ヵ月後菌がいなくなったかどうか検査します、いいですね?」『尋ねてはいるけど、有無を言わせずという感じだな』と思いながら、死の確率が減るならいいかと承諾した。

今は不味い4種類の薬を毎朝夕飲みながら、何か後味の悪い2週間を過ごしたなあと感じている。多分、胃カメラ検査と組織検査の結果と共に検査結果を説明する、2回の通院でよかったのではないか?そして、あの血液検査は一体なんだったのか?ITを駆使した市内トップ級の総合病院は確かにあらゆる面でシステマチックだ。しかし、たった2科間の連携がとれていない、サテライト受付と担当医の意味ある連絡がとれていない。システムは完璧だろうが、心が通っていないのだ。売上げを上げるのには熱心だ。

そして落ちがある。ピロリ菌退治のための薬をもらいに隣の薬局に行った。担当医の<ジェネリック可>と書いてある処方箋を見て、「ジェネリックでお願いします」と伝えたら、「可と書いてあるところに先生の捺印がないのでダメです」と来た。『億単位の契約書だって、判子は一個だってば。でも長期療養の薬じゃないし、一回きりだからまあいいか』あーあ、どこもかしこも売上げ志向ばっかり。これじゃ患者という弱みに付け込んだ、巧妙な販促だ。

書きながら不愉快さが蘇った結果、今日はいつもより更に長くなってしまった。明日は「車の定期点検の怪」を短く?お伝えする。
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雨水を植栽の散水に利用する

2007-08-23 | エコ生活
写真は、裏庭に自作した「連結雨水貯蔵タンク」貯水量は1トン

この20年くらいの間に、国や県の補助金に多額の独自起債を加えて、日本全国の地方都市にも猛烈な勢いで下水道工事が行われてきた。フランスなどヨーロッパの映画シーンではおなじみだが、大きな下水管(というより地下道という感じ)の中を、追われるヒーローと何十人の追う者達が何十分間のサスペンスを繰り広げる。パリではナポレオンの時代に、すでにこのような施設が充実していたというのだから、70年代に日本がいくらアメリカに次ぐ経済大国になったとは言え、社会資本の充実ではまだまだ到底及ばなかった。

我が家も、浜松市郊外の現住所に中古住宅で購入した25年前は浄化槽だったが、15年前に家を建て替える頃にはようやく下水道が完備して、トイレも生活用水も直接放流することができるようになった。四六時中槽内をかき回すモーター音や数ヶ月に一回の業者点検、年に一回の槽内汲み取り洗浄作業の煩わしさから開放された。しかし、新たな問題が起きた。上水道料金とほぼ同額の下水道料金を支払わねばならなくなったことだ。住宅ローンや子供たちの教育費の増加で、毎年やせ細っていく家計にこれは応えた。

うちのかみさんは父親譲りで、昔から花や緑を育てることが大好きだ。そう広くもない我が家の庭は現在、庭木植木鉢類の植栽でほぼビッシリ占拠されている。岳父が身体が弱って自慢の盆栽類の世話ができなくなってから、3年前に亡くなるまでの間、隣近所のファンから羨ましがられた盆栽類は手入れが行き届かず、無残な姿に変わっていった。父死去とともに形見としてかみさんが受け継いだ何十鉢が、更に占拠率を上げたのだった。地面に直に根を下ろしている庭木はともかく、ガレージの屋上を利用した花壇や植木鉢植栽には毎日水遣りが必要だ。

庭の散水に浄水をふんだんに使用するのはちょっと気が引けるけど、撒いた水は下水道に戻って行くことはないのに、高い下水道使用料をとられるのは癪にさわるじゃありませんか。これを何とか打開しようとして考えたのが、雨水を貯めて散水に利用することだった。早速Web検索するとあるはあるは、自慢のDIY製作者や商魂たくましく専門業者が貯水装置を宣伝している。ホームセンターにも勉強に行ったが、おしゃれだけど値段が高い割りには小型のものが多く、我が家の需要では一日撒いたら終わりそうだった。ここは普段何かと世話になっているかみさん孝行?で、大型のものを自作して点数稼いでおくかなと考えた。

普段から贔屓の農業屋に行ったら、水や農薬散布用の大型ポリタンクはあるは、配管用品はあれこれあるは、なかなかいいぞ!という感じで、ますますやる気がわいた。結局、タンク内の藻の発生を防げる黒色の500ℓポリタンクと、縦樋から取水するための塩ビ管や開閉のためのバルブ、そして電気汲み上げポンプも購入した。いつも私がやることには、歯に衣着せぬ辛口感想を述べることが多いかみさんにもバカ受けした。Macchanの株は瞬時に100円高。あまりに評判がいいことに気をよくし、調子に乗って200円高を狙って同じ大きさの500ℓタンクを連結した。なんと合計貯水量1トンの設備が出来て3年目の今年、関東以西は猛烈に暑い夏を過ごしている。満水になると普段は毎日撒いて1週間近くもつが、今夏は雨が少ないこともあって、不本意かつ悔しながら上下水道の世話にもなっている。

今日は明け方に雷鳴と共に降った2~3週間ぶりの雨らしい雨で、カラッケツのタンクにあっという間に80%溜まった。エコだロハスだという時代になって、我が美しい地球を子々孫々に残そうという潮流に少しでも貢献できている満足感と、何よりも家計に優しいこの装置には大感謝、ウフフの毎日だ。
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何でも標準値だったら健康で長生きできるか?

2007-08-22 | 健康管理
勤務している会社には「健康管理センター」というのがあり、年一回の「誕生月健康診断」を行った結果、異常が発見された時はもちろんのこと、健診項目の標準値からはずれるものがあると事細かに対策を指示してくれる。さらに成人病の諸悪の根源と見られる喫煙者には、特に厳しく指導されるようだ。30歳ですでに喫煙をやめた私には縁がないが、断煙?プログラムが用意されていて、禁煙パッチか禁煙ガムかが勧められて、その費用も会社から補助が出る仕組みだ。

「健康管理センター」の指摘や指導は有難いなあと思う反面、本当に健診項目が標準だったら健康を維持できるのかということ(へそまがりですね)を、いつも懐疑的に考えている。体重や総コレステロール値などは、特にそう思っている。世間の長生き老人を見ていると、肥満度はばらついていてあまり関係ないんじゃないか?運動を日課にしている人ばかりでもなさそうだし、コレステロールが怖いからと、精進料理ばかり食べているわけでもなさそうだ。自宅に閉じこもったまま30年、庭でごろごろしたまま蟻などの虫の動きを観察し続け、分厚いステーキを好物にしていた有名な画家の熊谷守一さんは、97歳で亡くなるまで元気に創作活動を続けたそうだ。

「健康管理センター」の指導には耳を貸さず、横着を決め込んでいる或るヘビースモーカーは、「映画監督の市川昆さんだって死ぬまで缶ピー(両切りの最もきつい缶入りピース)を、毎日二缶100本近くも吸っていたって長寿だったじゃないか!誰でも死ぬときは死ぬんだよ」と、わけのわからない悪態をつく。酒ファンの私もそれに近い感想、言い訳をもっている。でも健康は、結局確率の問題なんでしょうね。

私はというと壮年になってからずっと、警告まではいかないけど血糖値や総コレステロール値が境界をさまよっていた。体重も徐々に増え続けていた4年半前、不本意なことにテニスでふくらはぎの3種類の筋肉を断裂して1ヶ月以上松葉杖をついていた。体力と筋肉の衰えを自覚して役職定年の節目を迎えたこともあり、時々胃カメラ検査を受けていた市内の大規模総合病院の「一日人間ドック」の検査を受けた。健診結果の総評で、毎年指摘を受けていた項目と体重の増加などが改めて指摘された。担当医師がいくつかの生活指導をされた後で、自分で健康な身体になるための「三つの誓い」をしてください、と言われた。10分くらい考えてレポートを提出した。

標準体重に戻して、血糖値や総コレステロール値も正常範囲にするために、
1)週3回各1時間以上の運動をする。
2)毎日飲んでいたのを、週に連続2日の休肝日を作る。
3)74Kgの体重を10%減らし、標準値にする。   と書いた。

面談で1)の具体的な手段を問われ、毎週3回改めて運動するのは難しいので、車通勤をバスに変えて週2~3回は往復14Kmを自転車通勤にします、と言ってしまった。真面目で?臆病な私はそれから毎日、食事量をおかずもご飯も70%にし、月曜火曜の2日を禁酒デーにした。松葉杖が取れてから毎日、バスでの往復の時はバス停三つ四つは歩き、自転車の時は特に腹が減って長い急な上り坂のあるつらい帰路が待ち受けていたが、我慢して続けた。体重が順調に減って目標の66Kgになった3ヶ月過ぎたころ、ちょっと恐ろしくなって食事量は元に戻した。運動と節酒?を続けているので、体脂肪が16%になった身体は今でもリバウンドしてはいない。

各項目めでたく?標準値に収まった今、多分病気になるリスク確率が少なくなったというだけで、無病息災や長寿を保障されたわけではないだろう。しかし自己満足だろうが、心身ともに軽やかになって、気のせいか頭もすっきり?(髪の毛の量じゃないってば!)してきたような気がする。リタイア後、長続できる運動をどうするかなと、真面目なMACCHANは今から真剣に考えている。

(2008.3.1追記)
先日市川崑監督が93歳亡くなったと聞いて、「しまった」と思った。私の意識の中では、もう亡くなった人だと思っていた。字も間違っていた。改めて反省し市川監督にはお詫びしたい。
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毎日の食事を作る

2007-08-21 | 料理DIY
小学生の頃からだったろうか、母親に「男は台所に入るもんじゃないよ」と言われながらも何かやりたくて、母親の目を盗みながらこそこそやっていた記憶がある。三つ子の魂まではいかないが、その後も台所で何かを作るのが好きだ。

外で美味しいものを食べると、なんとか見よう見まねで再現したくなる。調理人の手元が覗ける一品料理の飲み屋や食堂に入ると、どうしても目や気持ちがそちらに向かってしまって、暫く同行者との話がおろそかになることもよくある。「個の確立」が比較的遅かった私は、会社の仕事が楽しくてしょうがなかった頃も、酔いで心が開放された時は、「料理人」になりたかったなとよく思ったものだ。だから今の会社が経営するリゾート施設の責任者になった、40歳ごろの3年間は無茶苦茶に働いたけど楽しかった。色んな現場を直接把握するManagement by Walking Aroundを心がけたが、中でも楽しかったのはレストランの戦場のような調理場を頻繁に観察できること、料理長や調理人と会話ができることだった。責任者の役得で新メニューの「検食」と称して高級ワインと共に、毎月のように検討会をやった。素人ながら提案したことが「新メニュー」に反映されて、お客の評価が高かったときは嬉しかった。

料理番組をよく見るが、字幕で現れるレシピはほとんど書き留めたことがない。調理の手順に、はずせないものがあることはよく理解できるので、美味しい料理作りのためにこれは守らなくてはならない。しかしパンや菓子作りはともかく、材料や調味料の量は、あんなに厳しくグラム単位や大匙小匙半分単位で守る必要はないだろう。堺正章さんの「チューボーですよ」はお気に入り番組の一つだけど、同一料理で3人の町の巨匠が登場しても、レシピや場合によっては手順さえ異なることは別に珍しいことではない。

だから自分で料理を作るときも、初めてチャレンジするメニューはプロのレシピと手順を意識はするけど、2回目以降はオリジナル。畑で季節に収穫できるもの、冷蔵庫に余っている材料が優先される。調味料は、海外の仕事で訪問した国の美味しいものにかぶれては、新し物を取り入れた。常備しているのは、ナンプラー、蛎油、コチュジャン、豆板醤など、アジアものが多い。家族に全く受け入れられなくて、不本意ながら消えてしまったお気に入りも数多い。

18年前リゾートの仕事を終えて浜松の本社に戻ってきて担当した仕事は、またまたどれもこれも忙しかったが、小さな感動を再現したい衝動に駆られて、友人とのホームパーティーや家族との週末の夕食には、大胆にもぶっつけ本番で色々試した。試行錯誤しながら、不評を糧にしてめげずにやってきた。55歳の役職定年を過ぎてからは余暇時間が増し、料理する回数も増えてきた。これからは、少なくとも食事の半分は担当できる。「遊び小屋」作りで出勤?する時は、弁当も作らなくっちゃね。

でもね、今でもかみさんに小言を言われるのは、調理器具を片付ける手順とタイミング。最初の頃はやりっぱなしで、「そんなんだったら、やってくれなくてもいい」と言われたものだ。今は改善してそれほどひどいことはないと思うが、料理しながらちゃっちゃと片付けていく、かみさんの手際のよさにはまだまだ及ばない。

お見せできるようなものは余り無いが、15年以上続けて、まあまあ評価を得ている燻製作り(冬季限定の冷燻、温燻)は、そのうち披露しようかな。

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遊び小屋の構想

2007-08-20 | 遊び小屋DIY
定年後の20年間を元気に生きるとすると、6歳から60歳までの学校と社会人生活54年間の余暇時間と、同じ長さの自由時間をこれから過ごせるのだそうだ。こんなに長い時間をどうやって過ごそうかと、あれこれ考えるだけでワクワクしてしまう。

その一つに、「遊び小屋DIY」がある。家から車で30分くらいの奥浜名湖に、3年くらいかけてこつこつ自分で建ててやろうと思っている。「棟梁になって!」とおだてて、11歳先輩のUAさんに相棒になることに快諾?をもらっている。私は5年前に知り合ったときから、この硬派のおっちゃんの生き方が好きで、親しみを込めて「うーさん」「あつ兄」と勝手に呼ばせてもらっている。元高校の英語教師で油絵、木工、男声合唱が趣味。端材古材を活かして作った椅子や行灯を数点頂いているが、一旦死を覚悟した材料たちを生き生きと蘇らせ輝かせる特技とセンスがある。

素朴な手作り小屋は、まだ子供だった昭和30年前後の生活がテーマだ。不便だけど、生活すること自体を楽しめる小屋にしたい。五右衛門風呂、囲炉裏、薪のかまどなどは必要アイテムだ。そこで毎週のように、様々な「遊び=創造生産的な文化活動」をテーマに、友人や家族達と飲み、食べ、語らう。

「家作り、DIY」でWeb検索すると、既にこつこつ楽しんでいる人たちが何人もいる。参考にさせてもらえそうなのがいくつかあるが、中では同名の本も出版されている小笠原昌憲氏の「100万円の家作り」には感銘を受け、目から何枚も鱗が落ちた。これだ、基本は在来工法(日本の伝統工法である木造軸組み工法)で柱と梁に屋根を載せてしまえば、あとはこつこつ時間をかけて家作りそのものを楽しめる。何より「ほんもの」が格安で出来るのが、年金生活の懐には優しくてよい。

小笠原昌憲氏のHP「小笠原農場へようこそ」は、http://www2.odn.ne.jp/ogasawara/

「農作小屋」作りの失敗経験を糧にして、まずは建築確認が要らない3坪の「物置兼作業小屋」作りでの練習?からスタートだ。6ヶ月くらいかかって、試行錯誤しながら完成させていく。これは本番の「遊び小屋」完成後には、水周り(台所、トイレ、風呂場)になる予定。

段々コンセプトが具体的になってきたので、秋には小屋作りをスタートさせたい。

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これから半年、演奏会が目白押し

2007-08-19 | 男声合唱(合唱)
今では生活の一部になった「男声合唱」は、毎週月曜日19:00から2時間練習している。月に1回は土曜か日曜の夕方練習が、イレギュラーに入ってくる。遠方の単身赴任や勤務時間の都合で、なかなか決められた曜日や時間には練習にでてこられないメンバーのために、去年から始まった。

練習場は発足時からのメンバーUAさんの縁故で、市の中心部にある日本文教幼稚園の講堂を拝借している。

昨日(8月18日土曜日)はそのイレギュラー練習日だった。この秋、三つの演奏会が控えているので、それらで歌う曲を練習した。

9月16日(日)<第10回三遠南信合唱祭> はまホール

「月下の一群」Ⅰ小曲、Ⅲ人の言うことを信じるな、Ⅴ秋の歌
合同ステージ曲=(坂田寛夫作詞、大中恩作曲)過ぎし日のうた、草原の別れ、沈丁花、木の実は熟れ、夕焼けあかい

9月30日(日)<浜松市民合唱祭> 浜松アクトシティー中ホール

 「ADORAMUS TE」、ふるさと(室生犀星作詞)

11月11日(日)<豊橋TFM合唱団25周年記念演奏会>男声部との共演 ライフポートとよはしコンサートホール

 「ADORAMUS TE」、「ふるさと」、「わが歌」、「Onward Christian  Soldiers」、「さくら」、「Sing Along」

これだけ曲が多いと、楽譜を見ながら歌っていても合唱初心者にとってはまだまだ追いつけておらず、よく音をはずす。後ろで歌っている、大学グリークラブ経験者のKAさんの出す音で修正をかける。前にも書いたように、指導者の和田さんは余り細部にはこだわらず、おおらかに音の強弱のめりはりや曲想を大切にされるので、音はずしは大目に見られることが多いが、出だしの音程に自信が無くて遅れて出るとすぐにストップがかかる。各パートの音符の縦揃いも重視項目の一つだ。

和田さんが重視されることを物語る、指導中のせりふを一つ紹介しよう。
今練習している曲の一つ、「Adoramus Te」は始まりからキリスト礼賛の単純な歌詞が2種類2回ずつ繰り返される。1回目はピアニッシモのクレッシェンド、2回目はフォルテのクレッシェンドの指示マークがある。ピアニッシモとフォルテの強弱の歌い分けはなかなか難しいが、和田さんは「教会の中で歌っているのを外で聞いているのがピアニッシモ、重厚なドアを開けてワーッと聞こえてくるのがフォルテ」と表現する。団員の大半はクリスチャンではないけれど、経験的感覚的によく理解できるので、すぐ演奏に反映できる。

これから半年間のうちに、上記の演奏会に加えて、12月15日(土)に市内有名ホテルで開催される、団のピアニスト飯田さんのクリスマス演奏会に、アカペラ曲2~3曲10分間程度の賛助?出演をする。そして来春3月8日(土)に市内雄踏文化会館ホールで、我が「浜松男声合唱団」のコンサートが2年ぶりに開催される。否が応でも練習に熱が入ろうというものだ。
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A畑とB畑を一気紹介!!

2007-08-18 | 農作DIY
只今落花生「落花」中 (花が咲き終わったあと地中に向かって茎を伸ばし、地面の中で実を結ぶことから命名されたそうだ)


仕事の忙しさにかまけて家族をあまり省みることがなかったころも、なぜか家庭菜園だけは縁があって始めていた。子供たちがまだ小さいころだからもう25~30年近く前になるか、浜松の貸家住まいの近くで始めたのが最初だった。玉ねぎなど手のかからないものから始めたが、ノウハウ不足と忙しさ?で余りにも手入れが悪く、雑草に打ち負けて収穫はピンポン球くらいの大きさが多かったが、それでもとても嬉しかったことを覚えている。

その後東京、浜松、伊勢、浜松とめまぐるしく勤務地が変わったが、そのうち浜松の今の家を購入して近所地域づきあいが深まったのが縁で、最初に借りたのが「A畑」と名付けて今でも耕作している20~30坪の菜園。鍬とスコップだけで地面と格闘した。今と同じ無農薬と台所ごみコンポストなどの自家製堆肥+近郊の牛舎から購入する牛糞や鶏糞だけでなるべく育てようというスタイルが定着した。

そして昨年春、A畑の隣接地を耕しているMさんから「近くに持っている別の畑を耕作してくれないか」という勧めがあって、今の「B畑」と名付けた120~130坪を借り受けた。今年の春からだったら定年後計画通りなのでよかったと思ったが、こういうことは縁とタイミングなので、少し考えてから「お願いします」と返事した。Mさんは普段から面倒見がよく、見よう見まねで汗水流して奮闘している、氏素性もよく知らない私に勧めてくれたのだった。

タイミングといえば、農耕作業に必需品の軽トラックや手押し耕運機も、農作の師匠YKさんが丁度今までのものを買換え新調するということで、無料ないし格安で譲ってもらった。特に軽トラは中古車を探していた時にYK師匠と会話することがあって、新車を契約して納車待ちということがわかり、ディーラーから無理して下取り価格で戻してもらった。市場価格の半額近かったので、本当に有難いことだった。

A畑とB畑は家から坂を下りて1Km余り、歩いて12~3分、車で3~4分だ。それぞれの間の直線距離は300mくらいかな。

A畑には昔からのコンポストが三つと隣接畑との境を作っている積上げ堆肥がある。B畑には一間四方のベニヤ板で囲った堆肥場とその他に2箇所の積上げ堆肥、油粕発酵用の蓋付ごみ缶とコンポスト一つずつがある。そのほかに時々、市の緑地課?が無料で譲ってくれる緑地手入れ後の粉砕枝葉で作った堆肥を軽トラを乗りつけて頂いて来る。これと地域の卵屋特製の鶏糞と農業屋で購入する苦土石灰や追肥として遅効性の化成肥料を少し使用している。

この夏秋、育成中の作物を紹介しよう。

<A畑>
山芋、ゴーヤ、ネギ、にら、小豆、里芋、ハブ茶、金ごま、青紫蘇、みょうが、菖蒲(番外編)

<B畑>
きゅうり、なす、トマト、ピーマン、とうがらし、落花生、里芋、ヤーコン、アピオス、オクラ、落花生、にら、キャベツ、大豆、黒豆、ネギ(根深)、生姜、赤紫蘇、さやいんげん、綿(番外編)


こうして書き出してみるとずいぶん沢山の種類があるが、それぞれの種や苗の入手経路、育て方の薀蓄や苦労などなど、農作師匠YKさんや地主のMさんその他農作を通じて親交がある方々の情報が交錯しながらも、それぞれを取捨選択したり自己流解釈しながらの試行錯誤がなんとも楽しい。

作物なので当然出来不出来があり、一時期に沢山できたりするが、そこはそれ、言い訳しながら隣近所や知人友人に無理やりもらって頂くのだ。

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定年後の生活構想

2007-08-17 | 還暦・定年
書いているほどビシッと頭の中が整理されているわけではないけれど、今現在の「定年」に対する考え方は前回記した。じゃあ具体的にはどうやって過ごしていくのか??質問したい家族や友人ならずとも、本人が自問自答しながら只今計画を整理中なのだ。漠然としながらも、まとまってきている全体構想や項目は次に紹介するとおり。子供のころの「将来なりたいもの」が変化していったように、今後も少しずつ変化するかもしれないが、このところ毎日真剣に考えていることだ。

<定年後の生活構想>

☆平均寿命の80歳まで20年間を元気に、自分の意思と知力体力で生きる。
☆給料を得て働くのは、60歳でやめる。
☆基本的に、今後の収入は年金だけでやりきる。
☆文化活動を続けるが、消費文化ではなく主に創造生産文化に関わりたい。
☆幼少期の昭和30年前後の、貧しくも素朴な中に喜びがあった生活を再現したい。

<具体的な生活項目>

1)農作DIY(豆芋雑穀、四季の野菜を無農薬&できるだけ有機栽培で自給)
2)大工DIY(遊び小屋の建築、自家および自分とかみさんの実家修繕DIY)
3)男声合唱(週一回の練習、年数回の演奏会、月一回の仲間との飲み会)
4)料理DIY(酒の友燻製作り、かみさんとシェアする食事作り)
5)スポーツ(ウォーキング、自転車、水泳、スキーなどは続ける)
6)旅行(時に世界&国内の安上がり旅行で非日常体験を楽しむ)
7)社会貢献活動(只今他薦お勧め何件かあり)
8)1~7項目で共に楽しむ家族&友人との楽しい語らい

2)と3)はこのブログで少し紹介したが、その他の項目や詳細は今後徐々に紹介しながら、自分で決心を深めていきたいと考えている。

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定年の考え方様々

2007-08-16 | 還暦・定年
「定年延長」が社会の流れである。定年といえば、その昔は50~55歳。今は平均57~60歳だろうか。それが更に延長されようとしている。

理由は、まず平均寿命が80歳前後と世界一になった長寿社会化が一つ。少子高齢化で、年金支給年令が60歳から65歳に繰り上がってきていることが二つ目か?あとは強いて言えば、元気な高齢者が増えて社会貢献意欲が増していることかな?

あと2ヶ月でリタイアが決まっている私の勤務先は、定年は全従業員公平に60歳。組合員は本人と会社側の希望が一致すれば1年単位の雇用延長があるが、管理職にはその制度は適用されない。技能伝承に危機感を持っているメーカーなので、特別な技能、技術を持った従業員が優先だ。子会社の人材派遣会社に移り、本社と1年単位の契約派遣になる。年収は30~40%くらいになるようだが、労使ともに文字どおり「Agreement」で再雇用されるわけだから、両者ともハッピーだ。

そういう私は管理職なのでそもそもそういう恩恵はないし、あったとしても事務営業企画系の経験は「余人をもって代え難い」という要素はほとんど無いので、本人と会社側の希望が一致することは考えにくい。多くの管理職は、特別な技術を持った専門職でもない限り、自分だけでは何もできないものだ。私も「自分がいなければ仕事が止まる」と思い上がった時もあったが、所詮組織でやっている仕事は部長や社長であっても、突然いなくなったところで仕事が止まることはありえない。

さて、定年後も働きたいと考えている周囲の人たちの動機は、いくつかに分けられるのではないか。

1)生活レベルをできるだけ落としたくない
2)リタイアしてやることがなくなるとボケるのが怖い
3)子供の教育や家のローン返済がまだ残っている
4)家や地域にいても過ごし方がわからない  等等

私は、「どうにかなる」「反骨精神=へそまがり」の主義で、上記の理由付けをする先輩仲間に対して、自分なりの生き方を考えた。

1)十分でなくとも年金をもらえるなんて有難い
2)生活レベルが落ちたって衣食住に困らない
3)幸いなことに3人息子は独立し、家のローンもぎりぎり返済を終えた
4)やりたいことは趣味を中心に山ほどある
5)趣味は消費系より創造生産系が多く、収入にはならないが出費は助かるはず

もらえる年金額内で、人生を楽しみながら生活することは十分可能なのではないかな。年金が満額になる4年後までは持ち出し覚悟だが、退職金や預金で補える範囲だと思うしーー。

具体的には、2箇所借りている計150坪の畑でとれる無農薬有機栽培の芋豆や四季の野菜類を中心に、親友から頒けてもらうこだわり栽培米を月に約10Kg、安売店で仕入れるわずかな国産肉類や沿岸魚介類と乳製品、毎週売りに来る近所のうまい豆腐があれば食品は十分だ。衣類だって、流行を追わなきゃ箪笥や衣装ケースに一生使い切れないほどの枚数がある。家の修理の度に100万円単位の出費だと友は嘆くが、身体が元気に動く間は壁の塗り替えだって自分でやっちゃう予定だ。

パチンコは25歳、タバコは30歳、麻雀は35歳でやめ、ゴルフは55歳でやめた。消費型の趣味は週5日の晩酌を除いて、ほとんど残っていない。これからはブログに書いていく創造生産?型趣味で、金額少なく楽しみ多い<人生これから>を送るのだ。新聞によると、6歳から60歳まで54年間の学校および社会人生活で過ごした余暇時間と、これから80歳までの20年間の自由時間がほぼ同じらしい。「もう20年しか残っていない」じゃなくて、歯が生え替わってから今までの気の遠くなるほど長い、自分の意思でどうにでも楽しめる余暇時間が、これから先に横たわっているのだ。
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こんなので「遊び小屋DIY」ができるのか?

2007-08-14 | 遊び小屋DIY
写真はこの春4月にDIYで完成した「農作小屋」だ。親友のUAさんSZさんのヘルプを得たので、正確にはDIYsかな。この20年近く20~30坪くらいの菜園をスコップと鍬だけで耕作して来たが、この秋からの「毎日が日曜日」の生活に備えて100坪以上借り増ししたら、たちまち耕運機やらなんやら農機具が増えて、家のガレージの奥くらいでは間に合わなくなってしまったのだ。

そこで最初に考えたのが、浜北の農作師匠YKさんがDIYで作った本格的なビニールハウスのミニチュア版だったが、農業屋に行ってあれこれ目算したら最低10万円くらいはかかりそうだ。こりゃかみさん、Kuniちゃんの許可が下りんわね。「んー」、今秋リタイア後は「遊び小屋DIY」やるんじゃなかったっけ? 練習しとかなくっちゃいかんじゃん! ということで、木造の在来工法でD90cmxW270cmxH180cmの「農作小屋」に、急遽チャレンジすることになった。

畑の一角を平らにしてビニール紐で線出しをやって、さらに丁寧に対角線をルートで計算して直角を出した。もちろん水平器で水平も確保した。8本の土台は、柱の古材をもらってきて、腐食防止のために焼杭にした。「パックマン」で深さ70cmの穴をあけ、慎重に杭を埋めた。

55mm角の柱を建てた時はちょっと曲がっていたが、横木を取り付け高さの中間に棚板を張ったときはピシッとした。しかし、屋根の波板を張り終わった時に、波板が波打ってどうも平らにならない。しゃれにもならない。これは後でわかったことだが、桟木を縦につけたために起こったことがわかった。後日、桟木を横に付け直して波板も半透明にして釘位置がよくわかるようにして、やり直しした。これが第1の失敗。でもリカバリーは効いた。

第2の失敗は、なんと90cmx270cmが横方向に5cm程度ひしゃげて、菱形になってしまったことだ。どうも、板壁を張ったり木製ドアを取り付けたときに、1~2cmの誤差が生じていて、変だなあと思っていた。決定的になったのが上記の波板をやり直したときに、庇はピシッと揃っているのに奥から手前にかけて5cmくらい斜めになってしまった。しまった!しゃれている場合ではない。杭打して杭より細い柱を取り付けた時、WxDは確認したが、対角線の長さ確認を怠ってしまって、直角が出ていないのを見逃したのだ。杭は奥深く埋まり、苦労して柱、屋根壁板まで付けてしまっている。えいっ、ままよ!雨が漏らなきゃいいだろうと、そのままにしてしまった。

建築直後の夕闇迫るときには、通りがかりの人に「だんなさん、器用だねえ。小屋のキットで作ったのかね?」と多分褒めてくれた。しかし明るい白昼に褒められたことは、その後もまったく無い。今年2回上陸した台風の大風にも無事だったし、雨漏りも無いようだ。しかし「青春の蹉跌、5cm歪んだ三角形」は庇の両脇に厳然として存在している。口の悪い家族や友人達は、「こんなので、遊び小屋が建つのかねえ?」と異口同音に言う。

遊び小屋建築の前に、3坪の物置小屋にもう一回チャレンジして、本番に満を持したい、と最近真剣に考えている。

なお、今回の総工費はやり直しの波板代を入れて3万円強だった。こればっかりは、ちょっと満足。
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「男声合唱」にはまってる

2007-08-11 | 男声合唱(合唱)
浜松市が2001年7月に「市制90周年」を迎えたのを祝って、市民が「共に讃え、共に歌う」と銘打って大きな音楽イベントが開催された。

第1部が、前年催された「浜松国際ピアノコンクール」優勝者のガブリリュクさんのピアノコンサート。第2部は市民から公募された「市制90周年祝祭合唱団」が浜松交響楽団の演奏をバックに、カール・オルフ作曲の「カルミナ・ブラーナ」全曲を演奏するというもの。

私は会社の総務部に所属していて、浜松市など行政などと関わりがある仕事をしていたのと、もう浜松に骨を埋めようと決心していたこともあって、「記念になるかもしれない」程度の軽い気持ちで合唱団に応募した。イベント開催半年前の寒い日だった。音楽好きではあったが、合唱を本格的に経験したことはなかったし、カルミナ・ブラーナがどんな曲かもよく知らなかった。

本番までの半年間、毎週2~3時間の練習があったが、パート別の指導者がピアニスト付で丁寧に指導してくれたし、高価な楽譜はもちろんパート別の旋律を吹き込んだCDまで用意してくれてあった。だから、難曲だなとは感じていたが毎回楽しく練習を積めたし、市内の様々な合唱団から有志が集まっていたので、経験者のアドバイスも心強い味方になった。練習を重ねて少し自信が持てたころ、曲の中で少人数で歌う「コロピッコロ」の選抜があって、「思い出だから」と軽い気持ちで応募して試験に受かってしまった。これが後に親友になった合唱団仲間から「素人ならではの無謀な行為」と揶揄された。経験者達はなまじプライドがあるために、選抜試験に落ちたときのことを考えて応募しなかった人が多かったらしい。

本番が近づくと、浜松出身の実力指揮者である河合尚市さんの指導が始まり、浜響とのリハーサルもやった。ピアノをバックに歌うのではなく、フルオーケストラで歌うのは初めてだったので、この非日常体験にはかなり興奮した。指揮者の、時におだてを交えた巧みな指導によってオーケストラとうまくマッチし始め、各パートとのハーモニーも著しく改善していった。

いよいよ本番当日。400人に及ぶ大合唱団が、市の自慢の施設「浜松アクト大ホール」に集い、直前リハーサルを経てガブリリュクさんの演奏舞台裏に控えた。生まれて初めての大舞台だったにもかかわらず、400分の一だという気楽さからか余り緊張しなかった。いよいよ開幕だ。ティンパニーの「ドーン」で始まる、運命の女神を呪う?「O Fortuna」で長いながーい1時間の演奏が始まった。

12世紀の古いドイツ語やラテン語で書かれた歌詞は、細部の意味を理解できないままだったが、半年間何十回も何百回も練習したお陰でお経のように自動的に歌詞は口をついて出た。プロのソリストの抜群の歌唱力や、近来めきめき実力を上げている浜松交響楽団の演奏に引っ張られて、初舞台の素人にもハーモニーが重厚でリズムや音量にもメリハリがあって、上出来な演奏が進んでいることがわかった。いよいよ最後の「エピローグ」部分、美や幸福の女神を讃え、運命の女神も最後は賞賛する部分になって、歌いながら感動し続けた。涙が滲んだ。苦労が報われたとか、つらかった練習の日々が思い浮かんだとか、そんなもんじゃなく、2000人の聴衆の前で単純に大勢の仲間たちと歌っていることに感動した。初めての経験だった。

半年間の練習中に仲良くなった仲間と何回か飲み会をやったが、終わった日も当然のように焼き鳥屋の2階で打ち上げ会をやった。半年前までは余り興味もなかった合唱を、これからも続けてもいいなと、その時思った。市内にも数が多い混声合唱団を選ぶ手もあったが、より親しくなったSZ君の勧めがあったのと、大舞台に立つまでの間のお世話役の女性たちのきめ細かすぎる窮屈さを感じていたので、「浜松男声合唱団」の練習を見学に行って、入団を決めた。

(浜松男声合唱団のブログ)
我ら「浜松男声合唱団」30~80歳!!
http://hamadan-gasshou.cocolog-nifty.com/blog/ 

指揮者の和田さんの指導が、余り細部にこだわらず、むしろ「音符を歌うな」とよく指摘されることに現れているように、音符を正確に歌うより曲想をよく理解してリズムやメリハリを大切に歌うことに重きを置いておられる。歌う歌も様々なジャンルから選ばれて、退屈することはない。アカペラで歌われることも多い、男声合唱特有の重厚なハーモニーがつぼにはまった時に脳内を走る快感は、とてもお金では買えない。団塊世代を中心に30台~80歳の幅広い年齢の20人近い団員は皆気さくで、月に1回開催している飲み会に出てくる有志たちとは、いつも時間を忘れて飲み食べ語る。「人生、生きていて楽しい」を実感できる時間だ。

こうしてこの5~6年、だんだん男声合唱にはまってきている。はまり具合の具体例は、このブログの一つのジャンルとして時々紹介していきたい。
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