すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

【サッカー日本代表】日本人にとって「組織サッカー」とは何か?

2018-05-04 06:49:48 | サッカー戦術論
誰も責任を取らなくてすむ無責任体制

 日本人は「組織サッカー」なる言葉が大好きだ。いったいなぜか? たとえば負けても「組織で戦いました」と言えば、たちまち鵺のように責任の所在があいまいになる。つまり組織で戦えば個人の責任が問われなくなるわけだ。

 例えば1人の選手が決然とシュートを打てば、入るにしろ外れるにしろ個人が責任を引き受けることになる。外せば「あいつが悪い!」と激しくなじられる。日本人は極力それを避けたがる。そして自分でシュートを打てる場面でも、責任回避して他人にパスを出したがる。

 いかにもサッカーの目的が「点を取って勝つこと」ではなく、「パスをつなぐこと」に陥りがちな日本人らしい。ストライカーでなく10番タイプの選手が脚光を浴びる日本的なパス至上主義である。

 そこで何が起こるかといえば、いつまでたってもパスを回し続けることが自己目的化するのだ。誰も責任を取ってシュートを打たない無責任体制が出来上がる。まるでゴールそのものが存在しないボールキープゲームのようなサッカーである。組織によるパスサッカーでポゼッションを志向したジーコジャパンや、悪い時のザックジャパンはそれが顕著だった。

 個人が白黒ハッキリつけたがらない、日本ならではのあいまい文化。日本人特有の「忖度」や「空気を読む」という行動も、根は組織サッカーを祭り上げる無責任体制のメンタリティと同根であるような気がしてならない。

「組織野球」なる言葉が廃れた理由

「組織サッカー」という言葉ができたのは、日本人がまだ満足にトラップすらままならなかった時代のお話だ。「自分たちは個人技で戦えば外国に負ける。だから組織でカバーし合おう」。個でぶつかれば負けるから組織力で勝とう。裏を返せば、ミスの責任を個人が取らずにすむよう組織サッカーが生まれたことになる。

 一方、野球でもかつては組織野球、全員野球なる言葉が盛んに持て囃された。だがいまではあまり聞かれない。なぜだろうか? おそらく日本の野球選手の個人技術がアメリカに伍するほど向上し、個人が敗戦の責任を取らなくてすむ確率が高まったからだ。だからもう逃避としての組織野球なる呼称は必要ない。

 もちろんサッカーも昔とくらべ日本人選手の個人技術は飛躍的に伸びている。だがそれでも野球とくらべればまだまだ世界とは明らかな落差がある。野球とちがいサッカーでは、まだ日本人の個の力は十分ではない。であるがゆえに敗戦の責任が個人に回って来る可能性が高い。

 ゆえにそれを避けるため、いまだに組織サッカーという美名のもと、誰も責任を取らなくてすむよう集団による無責任体制が存在しているわけだ。しかもタチが悪いことに「無意識のうちに」そうなっているのである。これが日本独特のパス至上主義の正体だ。

 日本サッカーが個の力で世界に勝ち、個人が敗戦の責任を被らなくてすむ時代はいつやってくるのか? ひょっとしたら技術やフィジカルの問題以前に、日本人はまず「責任回避のメンタリティ」を変えなければ世界に勝てない。いや、もちろんポルティモネンセの中島翔哉やフローニンゲンの堂安律、ハンブルガーSVの伊藤達哉など、日本人が世界に個で勝つ雄々しい胎動はすでに始まっているのだが。

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