昨年から地域の区会の役を引き受けている。この地区では厳冬期以外の4月から11月まで月に1回早朝の街路清掃を自主的に行っている。やはり、観光地ということでそうした観光客への気配りがあるからなのだが、その早朝清掃で近隣のKさんから次期の区の役を引き受けてもらえないだろうかと打診があった。リタイア後は、地元のこうした仕事を積極的に引き受けなければ、との思いがあったので、勧められるままに役員を引き受けることにした。
毎月1回区の役員会があって、これに出席することになったが、ここで同じく役員をしているYさんと時々私的な話をする機会があり、ある時「蝶」の話になったところ、Yさんからそれなら面白い本があると紹介されたのが、松本清張の「熱い絹」であった。
Yさんによれば、この小説には軽井沢と蝶の両方が出て来るので、きっと私が興味を持つだろうと思うということであった。Yさんが持っているので貸していただけるのだが、蝶関連ということで、手元に置いてもいいと考え、早速上下2巻のこの本を買い求めて読んだ。舞台は東京、軽井沢に始まり、そしてマレーシアのカメロンハイランドへとその中心が移っていく。
確かに熱帯のマレーシア産の蝶の標本も登場し、重要な役割を演じている。更に面白いことに、東京の骨董店も登場する。そしてこの骨董商の店主は夏には軽井沢にも店を出すという設定になっていた。Yさんは私がアンティーク・ガラスショップを開いていることを知っているので、この事もYさんが本書を紹介しようと思った理由の一つかもしれない。
物語は1967年7月のある夕方、東京の赤坂見附にある骨董店「瑠古堂」に服飾デザイナーの山形佐一が入るところから始まる。外から見える陳列窓に置かれた女人像に眼をひかれたからであった。その像は、タテ六十センチ、ヨコ四十センチくらいの大きさで、ヨコが欠げて砂岩の粗い断面がむき出しになっているものであった。女人像は四人の女が横一列に並び、腕を組むようにしてうずくまっている。頭上にもりあがった結髪は両端が少女のようなお下げになって、ゆたかな頬の横に垂れている。額がひろく、眼はまるく、鼻はいくらか扁平で、唇は情熱的に大きい。クメール彫刻の特徴だった。
日陰のようなこんな路地中に骨董店があることじたいが思いがけないことであったが、この陳列物はもっと意外であり、高樹町にならぶ大きな古美術店でもついぞ見かけたことがない古美術であった。店には若い女性店員と、奥から出てきた主人がいた。主人の話では、この陳列物のリリーフは戦前にある会社のシンガポール支店長をしていたことのあるコレクターの遺族から買ったもので、カンボジアあたりからの出土品ということであった。非売品であるが、「できるだけ多くの方に見ていただきたい」ということで陳列窓に出していたという。
この瑠古堂は7月末に東京の店を閉めて、夏の間1か月ほどは旧軽井沢の商店通りに小さな店を借りてここに引っ越している。瑠古堂が夏の間軽井沢に移動していることを偶然知った山形はここを訪れる。しかし、店にはクメール美術の浮彫りはなく、店主も不在で地元の佐久に住むアルバイトの青年高橋不二夫が店番をしていた。彼によると主人の名前は広沢(久太郎)だという。
同じころ、中軽井沢の貸し別荘の寝室内でアメリカ人女性の他殺死体が見つかる。名前はフランシス・ウィルバーといい、45歳の独身。住まいは東京目黒区の青葉マンションで、夏の間は軽井沢で愛犬2匹と共に過ごしていた。出身はコロラド州のデンバー。牛乳配達員が、昨日配達した牛乳瓶がそのままになっているのを不審に思い軽井沢警察署に通報をし、刑事課の村田と谷山の二人が現場に来て、別荘内に入り死体を発見した。
被害者がアメリカ人ということもあり、長野県警刑事部から即刻捜査係が数人応援に来て、軽井沢署に「合同捜査本部」が設置された。合同捜査本部長には、県警刑事部からきたメンバーの中の長谷部忠雄捜査一課長が就いた。
ミス・ウィルバーはガウン姿でうつ伏せに倒れていて、頸動脈を絞められており背後から扼殺されたものと思われた。死亡日時は、十日午後七時から十一時と推定され、死後まる二日間が経過している。室内を見ても、ミス・ウィルバーには、とくに特徴ある趣味はないようであったが、好みとしては、カーテンやテーブルクロスでも、パジャマでもガウンでも、みんな光沢の強い絹布や絹織物を使っていた。また、寝室の壁には蝶の標本入りの額を掲げていた。
蝶の標本を見ると「緑色に黒い鋸歯紋のある翅、緑に黒のじぐざぐの縁どりのついた翅、黄色に茶の模様が地図のようについている翅、紅葉のように赤い翅、刺繍のような艶ある緑の翅、焦茶にうすい茶色の点をつけた翅、全体の白色に黒褐色の斑を散らした翅など十三の蝶が翅をひろげ、ならんでいた。」
同種のものが二つあったり三つあったりするが、標本の下には蝶の学名らしい名が手書きで書かれていて、次のようであった。
〇 Trogonoptera brookiana albescens.
〇 Graphium Sarpedon luctatius.
〇 Cepora judith Malaya.
〇 Appias nero figutina.
〇 Cyrestis nivea nivalis.
〇 Parnassius jacquemonti west Pamir.
〇 Austrozephyrus absolon Malayicus Pendlebury.
後日、被害者の身元確認のために急遽香港から呼ばれた被害者の妹アン・バートン夫人によると、これらの絹製品や蝶の標本は、タイのバンコクにいる彼女らの兄ジェームス・ウィルバーが送ったものであるという。その兄は現在出張中でフランシスの遺体との対面のため来日できないとアンは長谷部に告げたが、後に現地の知人からの連絡で、実はジェームス・ウィルバー氏がマレーシアの保養地カメロンハイランドに出かけ、七月十六日の午後三時ごろ、単独で散歩に出かけたまま行方不明になっていることを長谷部は知る。
その後捜査は難航していたが、長谷部は八月三十一日付の長野県で発行されている新聞の朝刊の第一面に五段抜きで、《長野県の青年、マレーシアで殺さる 熱帯蝶採集の旅に参加して》という記事を見つける。記事は次のようであった。
「マレーシアのカメロンハイランドに二十七日から来ていた『マレーシアの蝶の旅』の参加者二十一名の内、長野県佐久郡字古坂田、農業高橋市太郎さんの二男不二夫さん」(二十七)は、二十九日午後、蝶の採集中に行方不明となったので、引率者がカメロンハイランドのタナー・ラタの警察隊に届け出て捜索方を依頼した。同隊で捜索隊を出して行方をさがし求めたところ、午後六時半ごろ、カメロンハイランドの東北方のブリンチャン山(6666フィート)の山腹東側の密林中に高橋さんが惨殺死体となっているのを発見した。・・・」
この事件を受けて、マレーシア政府から、ICPOの条項によって、長野県警に捜査員を至急派遣するように要請があった。長野県警を指名したのは、この高橋不二夫氏が長野県佐久市の青年だというだけではなく、軽井沢の別荘で起ったアメリカ婦人フランシス・ウィルバー殺人事件の捜査状況を知りたいという事情があった。現地では兄ジェームス・ウィルバー氏の失踪に関して、誘拐説と事故説の両面から捜索が続けられていたのである。
こうして、話の舞台はマレーシアのカメロンハイランドに飛ぶ。現地には、長谷部たち警察関係者だけではなく、骨董店の女性従業員下沢ヒロ子や店主広沢久太郎、さらにこの骨董店を訪れた山形佐一もまたそれぞれの事情でカメロンハイランドに集まってくる。下沢ヒロ子には舞踊団の団員三笠月子、店主にはこの舞踊団の透視術師小川華洋という、それぞれもう一つの顔があった。山形佐一は新しいデザインを求め民族美術に関心を持ち現地を訪れていた。
ここで更に骨董店の店主の広沢久太郎、そして日本人の舞踊団団長の川口義夫が殺されるという事件が起きる。またジェームズ・ウィルバーがすでに殺害されていることが判り、妹フランシス・ウィルバー殺害との関連やその殺害動機、さらに佐久市の青年高橋不二夫、広沢久太郎と川口義夫の死の真相が、クメール彫刻の盗掘という問題と関連して明らかにされていくという上下2巻の長編小説であった。
マレーシアの地図(「熱い絹」より)
カメロンハイランドの地図(「熱い絹」より)
小説の内容の紹介はここまでにしておこうと思う。
ところで、随所にマレーシアの蝶が登場するが、どのような種なのか、見ておく。
上で学名を挙げた蝶の日本名は、小説の中でも明らかにされているが、それぞれ次のとおりである。
1.〇 Trogonoptera brookiana albescens. (和名)アカエリトリバネアゲハ=アゲハチョウ科
2.〇 Graphium Sarpedon luctatius. (和名)アオスジアゲハ=アゲハチョウ科
3.〇 Cepora judith Malaya. (和名)キタシロチョウ=シロチョウ科
4.〇 Appias nero figutina. (和名)ベニシロチョウ=ベニシロチョウ科
5.〇 Cyrestis nivea nivalis. (和名)シロイシガケチョウ=タテハチョウ科
6.〇 Parnassius jacquemonti west Pamir. (和名)ジャクエモンアゲハ=アゲハチョウ科
7.〇 Austrozephyrus absolon Malayicus Pendlebury. (和名)ネッタイミドリシジミ=シジミチョウ科
この中で1.のアカエリトリバネアゲハの属するアカエリトリバネアゲハ属は、マレー半島、インドネシアのボルネオ島、スマトラ島に産する。各種ごとの分布は局所的であり、ニューギニアでは峰ごとに、インドネシアでは島ごとに産する種が異なる。また、近縁のトリバネアゲハ属も含め、どの種も例外なく大型のチョウであり、世界最大とされるアレキサンドラトリバネアゲハ Ornithoptera alexandraeになると胴長が最大 76mm 、開翅長は 280mm にもなる(ウィキペディア)。そして、アカエリトリバネアゲハの学名(Trogonoptera brookiana albescens)は19世紀のサラワク王国初代白人藩王(ラージャ)だったジェームズ・ブルック卿(Sir James Brooke, 1803年4月29日 - 1868年7月11日)に献名されたものとされる。
今世紀に入って、原産国の近代化に伴う急速な開発で生息地である熱帯雨林が破壊され、個体数が激減しているという。現在、アレキサンドラトリバネアゲハを除く全種が ワシントン条約 附属書IIに記載されている危急種もしくは希少種に認定され、アレキサンドラトリバネアゲハはさらに厳しい附属書Iに記載されており、ワシントン条約加盟各国間での商取引は規制されている。
ところが、我が家にも以前昆虫展などで買い求めた、海外産の蝶の額入り標本が3点あって、そのうちの1種は偶然「アカエリトリバネアゲハ」である。添付されているラベルを見ると、その採集地は「Cameron Highland W-Malay Pen. , MALAYSIA」とある。小説の舞台となっていたカメロンハイランド産であった。
「アカエリトリバネアゲハ」の標本(2020.2.9 撮影)
ワシントン条約のことが気になったが、標本の裏側を見ると、次のように記されていて、正規の手続きを経て日本に来たものということであった。
「ワシントン条約に抵触する蝶について:本種は絶滅が予想される野生動植物を保護する目的から、商用の目的での輸出入を禁止すべく国際間での取決めが行われている蝶ですが、個人の調査研究用に正規の手続きを経て日本に持ち込まれたものです。」
2.のアオスジアゲハは日本でも普通に見られる種と近縁で日本産は次の写真のようである。
日本産アオスジアゲハ(2016.9.30 静岡県登呂遺跡で撮影)
3.のキタシロチョウ、4.のベニシロチョウは日本には似た種がいない。
5.のシロイシガケチョウは日本産のイシガケチョウによく似ていて次の様である。
日本産イシガケチョウ(2019.1.11 ぐんま昆虫の森で撮影)
6.のジャクエモンアゲハは日本産では北海道でしか見ることのできないウスバキチョウが一番近いと思われる。軽井沢周辺で見られる近縁種はウスバアゲハであるが、こちらは翅に赤い斑点がない。
日本産ウスバアゲハ(2017.6.17 軽井沢で撮影)
また、7.のネッタイミドリシジミは小説の中でも「カメロンハイランドにだけ生息している幻のゼフィルス」として表現されているが、実際ウィキペディアで探してもその写真はとても少なく、実際の姿がよくわからないという状況である。こちらは容易に標本にお目に掛かれるものではなさそうである。義父のコレクションから、よく似た日本産のミドリシジミの標本写真を次に示す。
自宅の日本産ミドリシジミ標本
私は特に松本清張のファンではないが、小説も多少読んでいるし、松本清張原作の映画も見ている。その範囲で言えば、海外を舞台にした作品はなかった。詳しく調べたわけではないが、その点では本作品は珍しいものと言えるようである。この「熱い絹」は実際に起きたジム・トンプソン失踪事件を下敷きに、著者が組み立てたミステリー長編とされるが、このジム・トンプソン失踪事件の概略は次の様である。
「1967年3月26日に、休暇で訪れていたマレーシアの高級別荘地、キャメロン・ハイランドにあるシンガポール人の友人の別荘「ムーンライト・コテージ」で忽然と姿を消し、マレーシア軍や警察、現地の住人などのべ数百名を動員した大規模な捜索活動にも拘らず、その姿は二度と発見されることはなかった。
失踪当時、トンプソンは自らの名を冠したタイ・シルク製品生産、販売の成功によりアジアをはじめ、アメリカやヨーロッパでも有名になっていただけでなく、失踪当時ベトナム戦争が激化しており、それに伴い東南アジアでも諜報活動が盛んになっていた上に、トンプソン自身が以前諜報機関に所属し、失踪当時もアメリカなどの諜報関係者と接触を持っていたこと、政変が繰り返されていたタイの政府上層部や反政府指導者に知人が多かったことなどから、身代金目的の営利誘拐から諜報活動がらみの誘拐と暗殺、単なるジャングルでの遭難から地元住民による殺害まで、さまざまな失踪理由が取りざたされたものの、現在に至るまでその行方も生死も謎のままである。(ウィキペディアより)」
「熱い絹」は劇場での映画化はされていないが、TVドラマとして放送された。この作品はDVDとしても発売されている。
TVドラマ「熱い絹」のDVD版
この時のキャストは次の通りであった。
長谷部忠雄 - 渡瀬恒彦
村田五郎 - でんでん
山形佐一 - 村上弘明
下沢ヒロ子 - 鈴木京香
広沢久太郎 - 長門裕之
高橋不二夫 - 佐伯太輔
川口団長 - 伊藤敏八
ジェームス・ウィルバー - ケント・ギルバート
最後に「熱い絹」上下2巻の表紙を示す。
「熱い絹」(1985年 講談社発行)の表紙(上下)
毎月1回区の役員会があって、これに出席することになったが、ここで同じく役員をしているYさんと時々私的な話をする機会があり、ある時「蝶」の話になったところ、Yさんからそれなら面白い本があると紹介されたのが、松本清張の「熱い絹」であった。
Yさんによれば、この小説には軽井沢と蝶の両方が出て来るので、きっと私が興味を持つだろうと思うということであった。Yさんが持っているので貸していただけるのだが、蝶関連ということで、手元に置いてもいいと考え、早速上下2巻のこの本を買い求めて読んだ。舞台は東京、軽井沢に始まり、そしてマレーシアのカメロンハイランドへとその中心が移っていく。
確かに熱帯のマレーシア産の蝶の標本も登場し、重要な役割を演じている。更に面白いことに、東京の骨董店も登場する。そしてこの骨董商の店主は夏には軽井沢にも店を出すという設定になっていた。Yさんは私がアンティーク・ガラスショップを開いていることを知っているので、この事もYさんが本書を紹介しようと思った理由の一つかもしれない。
物語は1967年7月のある夕方、東京の赤坂見附にある骨董店「瑠古堂」に服飾デザイナーの山形佐一が入るところから始まる。外から見える陳列窓に置かれた女人像に眼をひかれたからであった。その像は、タテ六十センチ、ヨコ四十センチくらいの大きさで、ヨコが欠げて砂岩の粗い断面がむき出しになっているものであった。女人像は四人の女が横一列に並び、腕を組むようにしてうずくまっている。頭上にもりあがった結髪は両端が少女のようなお下げになって、ゆたかな頬の横に垂れている。額がひろく、眼はまるく、鼻はいくらか扁平で、唇は情熱的に大きい。クメール彫刻の特徴だった。
日陰のようなこんな路地中に骨董店があることじたいが思いがけないことであったが、この陳列物はもっと意外であり、高樹町にならぶ大きな古美術店でもついぞ見かけたことがない古美術であった。店には若い女性店員と、奥から出てきた主人がいた。主人の話では、この陳列物のリリーフは戦前にある会社のシンガポール支店長をしていたことのあるコレクターの遺族から買ったもので、カンボジアあたりからの出土品ということであった。非売品であるが、「できるだけ多くの方に見ていただきたい」ということで陳列窓に出していたという。
この瑠古堂は7月末に東京の店を閉めて、夏の間1か月ほどは旧軽井沢の商店通りに小さな店を借りてここに引っ越している。瑠古堂が夏の間軽井沢に移動していることを偶然知った山形はここを訪れる。しかし、店にはクメール美術の浮彫りはなく、店主も不在で地元の佐久に住むアルバイトの青年高橋不二夫が店番をしていた。彼によると主人の名前は広沢(久太郎)だという。
同じころ、中軽井沢の貸し別荘の寝室内でアメリカ人女性の他殺死体が見つかる。名前はフランシス・ウィルバーといい、45歳の独身。住まいは東京目黒区の青葉マンションで、夏の間は軽井沢で愛犬2匹と共に過ごしていた。出身はコロラド州のデンバー。牛乳配達員が、昨日配達した牛乳瓶がそのままになっているのを不審に思い軽井沢警察署に通報をし、刑事課の村田と谷山の二人が現場に来て、別荘内に入り死体を発見した。
被害者がアメリカ人ということもあり、長野県警刑事部から即刻捜査係が数人応援に来て、軽井沢署に「合同捜査本部」が設置された。合同捜査本部長には、県警刑事部からきたメンバーの中の長谷部忠雄捜査一課長が就いた。
ミス・ウィルバーはガウン姿でうつ伏せに倒れていて、頸動脈を絞められており背後から扼殺されたものと思われた。死亡日時は、十日午後七時から十一時と推定され、死後まる二日間が経過している。室内を見ても、ミス・ウィルバーには、とくに特徴ある趣味はないようであったが、好みとしては、カーテンやテーブルクロスでも、パジャマでもガウンでも、みんな光沢の強い絹布や絹織物を使っていた。また、寝室の壁には蝶の標本入りの額を掲げていた。
蝶の標本を見ると「緑色に黒い鋸歯紋のある翅、緑に黒のじぐざぐの縁どりのついた翅、黄色に茶の模様が地図のようについている翅、紅葉のように赤い翅、刺繍のような艶ある緑の翅、焦茶にうすい茶色の点をつけた翅、全体の白色に黒褐色の斑を散らした翅など十三の蝶が翅をひろげ、ならんでいた。」
同種のものが二つあったり三つあったりするが、標本の下には蝶の学名らしい名が手書きで書かれていて、次のようであった。
〇 Trogonoptera brookiana albescens.
〇 Graphium Sarpedon luctatius.
〇 Cepora judith Malaya.
〇 Appias nero figutina.
〇 Cyrestis nivea nivalis.
〇 Parnassius jacquemonti west Pamir.
〇 Austrozephyrus absolon Malayicus Pendlebury.
後日、被害者の身元確認のために急遽香港から呼ばれた被害者の妹アン・バートン夫人によると、これらの絹製品や蝶の標本は、タイのバンコクにいる彼女らの兄ジェームス・ウィルバーが送ったものであるという。その兄は現在出張中でフランシスの遺体との対面のため来日できないとアンは長谷部に告げたが、後に現地の知人からの連絡で、実はジェームス・ウィルバー氏がマレーシアの保養地カメロンハイランドに出かけ、七月十六日の午後三時ごろ、単独で散歩に出かけたまま行方不明になっていることを長谷部は知る。
その後捜査は難航していたが、長谷部は八月三十一日付の長野県で発行されている新聞の朝刊の第一面に五段抜きで、《長野県の青年、マレーシアで殺さる 熱帯蝶採集の旅に参加して》という記事を見つける。記事は次のようであった。
「マレーシアのカメロンハイランドに二十七日から来ていた『マレーシアの蝶の旅』の参加者二十一名の内、長野県佐久郡字古坂田、農業高橋市太郎さんの二男不二夫さん」(二十七)は、二十九日午後、蝶の採集中に行方不明となったので、引率者がカメロンハイランドのタナー・ラタの警察隊に届け出て捜索方を依頼した。同隊で捜索隊を出して行方をさがし求めたところ、午後六時半ごろ、カメロンハイランドの東北方のブリンチャン山(6666フィート)の山腹東側の密林中に高橋さんが惨殺死体となっているのを発見した。・・・」
この事件を受けて、マレーシア政府から、ICPOの条項によって、長野県警に捜査員を至急派遣するように要請があった。長野県警を指名したのは、この高橋不二夫氏が長野県佐久市の青年だというだけではなく、軽井沢の別荘で起ったアメリカ婦人フランシス・ウィルバー殺人事件の捜査状況を知りたいという事情があった。現地では兄ジェームス・ウィルバー氏の失踪に関して、誘拐説と事故説の両面から捜索が続けられていたのである。
こうして、話の舞台はマレーシアのカメロンハイランドに飛ぶ。現地には、長谷部たち警察関係者だけではなく、骨董店の女性従業員下沢ヒロ子や店主広沢久太郎、さらにこの骨董店を訪れた山形佐一もまたそれぞれの事情でカメロンハイランドに集まってくる。下沢ヒロ子には舞踊団の団員三笠月子、店主にはこの舞踊団の透視術師小川華洋という、それぞれもう一つの顔があった。山形佐一は新しいデザインを求め民族美術に関心を持ち現地を訪れていた。
ここで更に骨董店の店主の広沢久太郎、そして日本人の舞踊団団長の川口義夫が殺されるという事件が起きる。またジェームズ・ウィルバーがすでに殺害されていることが判り、妹フランシス・ウィルバー殺害との関連やその殺害動機、さらに佐久市の青年高橋不二夫、広沢久太郎と川口義夫の死の真相が、クメール彫刻の盗掘という問題と関連して明らかにされていくという上下2巻の長編小説であった。
マレーシアの地図(「熱い絹」より)
カメロンハイランドの地図(「熱い絹」より)
小説の内容の紹介はここまでにしておこうと思う。
ところで、随所にマレーシアの蝶が登場するが、どのような種なのか、見ておく。
上で学名を挙げた蝶の日本名は、小説の中でも明らかにされているが、それぞれ次のとおりである。
1.〇 Trogonoptera brookiana albescens. (和名)アカエリトリバネアゲハ=アゲハチョウ科
2.〇 Graphium Sarpedon luctatius. (和名)アオスジアゲハ=アゲハチョウ科
3.〇 Cepora judith Malaya. (和名)キタシロチョウ=シロチョウ科
4.〇 Appias nero figutina. (和名)ベニシロチョウ=ベニシロチョウ科
5.〇 Cyrestis nivea nivalis. (和名)シロイシガケチョウ=タテハチョウ科
6.〇 Parnassius jacquemonti west Pamir. (和名)ジャクエモンアゲハ=アゲハチョウ科
7.〇 Austrozephyrus absolon Malayicus Pendlebury. (和名)ネッタイミドリシジミ=シジミチョウ科
この中で1.のアカエリトリバネアゲハの属するアカエリトリバネアゲハ属は、マレー半島、インドネシアのボルネオ島、スマトラ島に産する。各種ごとの分布は局所的であり、ニューギニアでは峰ごとに、インドネシアでは島ごとに産する種が異なる。また、近縁のトリバネアゲハ属も含め、どの種も例外なく大型のチョウであり、世界最大とされるアレキサンドラトリバネアゲハ Ornithoptera alexandraeになると胴長が最大 76mm 、開翅長は 280mm にもなる(ウィキペディア)。そして、アカエリトリバネアゲハの学名(Trogonoptera brookiana albescens)は19世紀のサラワク王国初代白人藩王(ラージャ)だったジェームズ・ブルック卿(Sir James Brooke, 1803年4月29日 - 1868年7月11日)に献名されたものとされる。
今世紀に入って、原産国の近代化に伴う急速な開発で生息地である熱帯雨林が破壊され、個体数が激減しているという。現在、アレキサンドラトリバネアゲハを除く全種が ワシントン条約 附属書IIに記載されている危急種もしくは希少種に認定され、アレキサンドラトリバネアゲハはさらに厳しい附属書Iに記載されており、ワシントン条約加盟各国間での商取引は規制されている。
ところが、我が家にも以前昆虫展などで買い求めた、海外産の蝶の額入り標本が3点あって、そのうちの1種は偶然「アカエリトリバネアゲハ」である。添付されているラベルを見ると、その採集地は「Cameron Highland W-Malay Pen. , MALAYSIA」とある。小説の舞台となっていたカメロンハイランド産であった。
「アカエリトリバネアゲハ」の標本(2020.2.9 撮影)
ワシントン条約のことが気になったが、標本の裏側を見ると、次のように記されていて、正規の手続きを経て日本に来たものということであった。
「ワシントン条約に抵触する蝶について:本種は絶滅が予想される野生動植物を保護する目的から、商用の目的での輸出入を禁止すべく国際間での取決めが行われている蝶ですが、個人の調査研究用に正規の手続きを経て日本に持ち込まれたものです。」
2.のアオスジアゲハは日本でも普通に見られる種と近縁で日本産は次の写真のようである。
日本産アオスジアゲハ(2016.9.30 静岡県登呂遺跡で撮影)
3.のキタシロチョウ、4.のベニシロチョウは日本には似た種がいない。
5.のシロイシガケチョウは日本産のイシガケチョウによく似ていて次の様である。
日本産イシガケチョウ(2019.1.11 ぐんま昆虫の森で撮影)
6.のジャクエモンアゲハは日本産では北海道でしか見ることのできないウスバキチョウが一番近いと思われる。軽井沢周辺で見られる近縁種はウスバアゲハであるが、こちらは翅に赤い斑点がない。
日本産ウスバアゲハ(2017.6.17 軽井沢で撮影)
また、7.のネッタイミドリシジミは小説の中でも「カメロンハイランドにだけ生息している幻のゼフィルス」として表現されているが、実際ウィキペディアで探してもその写真はとても少なく、実際の姿がよくわからないという状況である。こちらは容易に標本にお目に掛かれるものではなさそうである。義父のコレクションから、よく似た日本産のミドリシジミの標本写真を次に示す。
自宅の日本産ミドリシジミ標本
私は特に松本清張のファンではないが、小説も多少読んでいるし、松本清張原作の映画も見ている。その範囲で言えば、海外を舞台にした作品はなかった。詳しく調べたわけではないが、その点では本作品は珍しいものと言えるようである。この「熱い絹」は実際に起きたジム・トンプソン失踪事件を下敷きに、著者が組み立てたミステリー長編とされるが、このジム・トンプソン失踪事件の概略は次の様である。
「1967年3月26日に、休暇で訪れていたマレーシアの高級別荘地、キャメロン・ハイランドにあるシンガポール人の友人の別荘「ムーンライト・コテージ」で忽然と姿を消し、マレーシア軍や警察、現地の住人などのべ数百名を動員した大規模な捜索活動にも拘らず、その姿は二度と発見されることはなかった。
失踪当時、トンプソンは自らの名を冠したタイ・シルク製品生産、販売の成功によりアジアをはじめ、アメリカやヨーロッパでも有名になっていただけでなく、失踪当時ベトナム戦争が激化しており、それに伴い東南アジアでも諜報活動が盛んになっていた上に、トンプソン自身が以前諜報機関に所属し、失踪当時もアメリカなどの諜報関係者と接触を持っていたこと、政変が繰り返されていたタイの政府上層部や反政府指導者に知人が多かったことなどから、身代金目的の営利誘拐から諜報活動がらみの誘拐と暗殺、単なるジャングルでの遭難から地元住民による殺害まで、さまざまな失踪理由が取りざたされたものの、現在に至るまでその行方も生死も謎のままである。(ウィキペディアより)」
「熱い絹」は劇場での映画化はされていないが、TVドラマとして放送された。この作品はDVDとしても発売されている。
TVドラマ「熱い絹」のDVD版
この時のキャストは次の通りであった。
長谷部忠雄 - 渡瀬恒彦
村田五郎 - でんでん
山形佐一 - 村上弘明
下沢ヒロ子 - 鈴木京香
広沢久太郎 - 長門裕之
高橋不二夫 - 佐伯太輔
川口団長 - 伊藤敏八
ジェームス・ウィルバー - ケント・ギルバート
最後に「熱い絹」上下2巻の表紙を示す。
「熱い絹」(1985年 講談社発行)の表紙(上下)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます