イエス様は、多くの罪人と共に過ごしました。
時には悪霊を追い出し、時には食事を共にし、時には罪すら赦しました、時には死んだ者をも生き返らせてくれました。
イエス様は、ラビや律法学者とは共にしませんでした。
神様は、罪人を救うためにイエス様をお遣わしになりました。
イエス様は、私たちと共に喜び、共に泣き、私たちと同じ人間としての感情を共感してくれます。
そんなイエス様をどのように思いますか・・・!?
時には悪霊を追い出し、時には食事を共にし、時には罪すら赦しました、時には死んだ者をも生き返らせてくれました。
イエス様は、ラビや律法学者とは共にしませんでした。
神様は、罪人を救うためにイエス様をお遣わしになりました。
イエス様は、私たちと共に喜び、共に泣き、私たちと同じ人間としての感情を共感してくれます。
そんなイエス様をどのように思いますか・・・!?
マタイ23章で律法学者やファリサイ派の人々を厳しく非難されていますが、これはそれだけ彼らを愛しておられたからだと思います。
「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」イエス様はどんな階層の人とも分け隔て無く、お付き合いされたのだと思います。
でも、病んでいる人、貧しい人、孤独な人には、特に気を遣われたのだと思います。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」と言われています。人生の闇の中に沈んでしまったたった1匹の羊を探し求めて下さると思います。
イエス様の愛を感じることが、1番の幸せなことなのかも知れませんね・・・!?
いつも、私たちの中にイエス様のご臨在を感じることが、私の願いです。
そう、1匹の子羊のために・・・。
「体が呼吸を必要とするくらいに、私たちの魂はその呼びかけを必要としているのです。もしそうでないなら、祈りは死んだものであり、黙想は単に考えているということにすぎません。」とイエス様の「私は渇く」という呼びかけの必要性を訴える文章もあります。
イエス様は何と仰っているのでしょうか。神様が望んでおられる第一のことは何と言っても、我々が神と共にいることではないのでしょうか。マリアとマルタのたとえ話(ルカ10:38)を思い出してみましょう。
イエス様に出会うことに年齢は関係ありません。いつも、心からイエス様と出会うことを望んでいれば、必ず、イエス様から手を差し伸べてくれると思います。