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イエス・キリストのブログ
プロテスタント(バプテスト派)

聴覚障害者の番組

2008-07-23 19:16:46 | その他
聴覚障害者の番組がTBS(PM6:55~9:00)に行われる。

夫婦が聴覚障害者(ろう者)で、夫婦ともトライアスロン(水泳、競輪、マラソン)をしていました。 子供が生まれて家族3人の生活を番組にしました。

子供は、健聴者(普通に聞こえる子供)でした。
両親はとても、嬉しかったようです。

丁度、私の姉もその旦那もろう者で、子供が生まれて、その子供が健聴者なので、姉の家族と重なりました。

反面、子供のころと姉と過ごした時間を思い出しながら見ていました。

「風の音とは・・・!?」
耳が聞こえないけど、肌で自然のリズムを聞く感じでしょう!
きっと、地球の鼓動を感じ取る意味だと解釈しました。

番組の子供のレオくんと私の姪が重なりました。 年齢もだいだい近い感じなので、もし、見ていたら何かを感じ取ったかも知れません。

耳の聞こえない空間、手話だけが飛び交う世界。 私も何度か経験があります。
私もしゃべらなければ、ろう者のように手話をするので、たぶん、手話だけを使っていれば、ろう者と間違えられるかも・・・。

姉への愛情には、いつも、手話ができるようにすること。
他には何もしてあげられません。
いつでも、どんな時でも手話で会話してあげることが、姉が安心させてあげることぐらい・・・。

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6 コメント

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祈り (12nobu)
2008-07-28 16:26:53
 手話で直接お姉様とお離しになったほかに、神様に向かってお姉様のために、お祈りをされたことでしょう。それこそが尊いと思います。
 お姉様はご結婚されておられたのですね。ご不自由な生活をされていると思います。でも、神様にはその分愛されて、肌で自然の移りゆく様を感じ取れる感性を、健常人より遙かに鋭敏な感覚を、恵まれていると思います。
 私は自分の死を思います。死の床にあった時、今のうつ病と慢性疲労で何も出来ない自分をどう評価するか、神様に守られて満足だったと言い切れるかどうか、自分に問いかけています。「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」私に現れてくる神の業とは何だろうと考えています。
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Re:祈り (Logical Space)
2008-07-28 18:32:37
12nobuさん、こんにちは。

神様の下で、無価値な存在の方は誰1人もいません。 人の良いところ、悪いところをお互いが、補い合って生きていくことが、人の道であると思います。
それは、「隣人を愛しないさい」の中に含まることだと思います。
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Unknown (12nobu)
2008-07-29 04:21:20
 前の牧師が教えて下さった事ですが「用の中に無用の人はいない。無用という字の中にもすでに用がはいっている」と言う仏教の言葉があるそうです。
 教会には教派が沢山あるけれども、これも完璧な教会など存在しないから、お互いに足りない所を補い合っていると言います。その1つの教会を取ってみても、その中にいる人はみな、
違っていて、お互いを助け合って存在していると思います。だから、無用な人はいないと思います。「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」
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Unknown (Logical Space)
2008-07-29 08:03:10
12nobuさん、おはようございます。

教会は人が建てた物ではありません。 イエス様の聖霊によって建てられた物です。 教会は、神の家であると言えると思います。
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祈りの家 (12nobu)
2008-07-31 19:00:22
 確かに「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」とイエス様が言われたように初代教会は神様によって興されました。イエス様の死後、使徒達や信徒達の集まりが聖餐式を中心として教会になり、教えを述べ伝えるため福音書が書かれ、正典が定められていって、現代に至るように思います。その中で教会は数を増やし分裂をも経験しました。私の教会も先々代から先代に引き継がれる時に、考え方の違うグループが別の教会を造り出て行ってしまいました。
 全ての教会がイエス様の精霊によって興された物であることを祈って止みません。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』」教会は神様の家と言うよりも神様の祈りの家と言った方が良いのではないかという気もします。
 
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Re:祈りの家 (Logical Space)
2008-07-31 23:58:50
12nobuさん、こんばんは。

「祈り」は神様とわたしとの対話であります。

『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』は、エルサレム神殿のことを直接に言っている箇所です。 エルサレム神殿は、神様の神殿なので、神様と対話する場所です。

エルサレム神殿からキリスト教の教会でも祈りの家のイメージが過去の歴史の中で出来たのも思います。
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