後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」 200年の歴史・・・八木沢集落

自然への畏れ 先祖を敬い 自然に感謝したマタギ文化消滅
資料:火縄銃の背負袋(上小阿仁村文化財)

朝日新聞「集落最後のマタギ引退・残さねば200年の証し」狩人の伝言 上小阿仁村 八木沢マタギ

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

朝日新聞 2009年10月28日「集落最後のマタギ引退」秋田総局 矢島大輔記者の記事
 
 
 八木沢川(通称:ヤギジャッコ)大滝の上は豊穣の大地「赤沢」(撮影:佐藤良美)
 
 昭和4~50年頃まで集落、南東側にもう一つの大淵集落があった。八木沢と大淵集落を結ぶ吊り橋。橋下は赤沢源流から小阿仁川に注ぐ、通称「ヤギジャッコ」(八木沢)の清い水が注がれ、小阿仁川をなだらかに流れ米代川へと合流する。吊り橋を渡ると5軒のマタギ部落があったが昭和40年以降、姿を消していった。
 昔のマタギがいっていた。「八木沢はマタギによってひらかれたムラで地名は八木沢(通称:ヤギジャッコ)から呼称されたのだろう。」と。八木沢(沢の名前)の突き当たりは大滝(高さ約6㍍)。滝つぼの手前から尾根を登ると豊穣(ほうじょう)の大地「赤沢」が姿をあらわす。
 
 1828年(文政11年)、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されています。牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。大赤沢では天保年間に親子二人の秋田マタギが狩を伝え、親は石沢家に、子は藤ノ木家に納まったという。清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。 
 
 大赤沢を出て、わずか二軒だけの甘酒村でのこと「雪に降りこめられたなら、さぞかしさびしいでしょう」と聞いてみた。女は答える「雪の間は里の人は一人もやってきません。ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」(鈴木牧之:秋山紀行より)

 「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。牧之は「秋田在の訛も交わらず言葉鮮なれば、一つも繰返して聞直すこともなく」と記している。
 民俗学者の宮本常一著書「山に生きる人びと」によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」・・・。 
 山の中ではやくからくらしをたててきた人びとには、野獣をとろうとして住みついた者、山にある木や草を生活用具として利用しようとした人、胴・鉄のようなものを帆って歩いた人たちなどいろいろある。そうした仲間のうち、野獣を追うて歩いた人びとの山住いの歴史がもっとも古いのではないかと思われる。今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。北からいって青森県下北半島恐山の西にある川内畑、津軽の黒石市大川原・黒森・二庄内・沖浦・板留、中津軽郡西目屋村、西津軽郡鯵ヵ沢町赤石川の谷、秋田県北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村戸沢、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県岩船郡朝日村三面、北魚沼郡湯之谷村など東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであるが、さらに古くさかのぼれば吉野・熊野の山中にも狩猟の村は多かったし、四国山中にもそうした村がみられた。(山に生きる人びと:宮本常一より)
 
 豊穣(ほうじょう)の大地「赤沢」精霊(しょうりょう)が宿る山。八木沢の「赤沢」は近世中期以降、根子・八木沢・萩形マタギ等の猟場でもあったと思われる。近世後期、鈴木牧之「秋山紀行」秋田マタギとのであい「旅マタギ」の発祥の原点はここに残され、いまもなお消えたとされるマタギ文化の霊魂はうごめきあっているような気がする。
 
 

<マタギが住んでいた屋敷跡>

  

江戸後期に住みついた マタギ屋敷跡。春の訪れをつげる「バッケ」(ふきのとう)が咲く

 

 早春、ゆっくりとムラを歩いた。幼年のころの思い出が次々と思いだされる。ここにもマタギの家があったと足をとめた。残雪に光をあびた屋敷跡に「ヤマワサビ」が芽をだしていた。まるでムラ人が自分たちの生活の場として、汗を流して守り続けてきた土地が野生の姿に戻ろうとしているかのように思えた。  

 

<小阿仁川と機織り道具>

  

 集落の中心部を流れる小阿仁川。小阿仁川の源流は標高1171㍍の大平山山頂直下から流れいでる。北側に笹森(1045㍍)、南側に白子森(1179㍍)が聳えその中心部を大旭又沢が流れる。南北の稜線は近世からマタギが歩いた。かつての古老マタギがいった。「大旭又沢で熊狩りをすると空振りはなかった」と。十二からなる小沢の清水は集落の中心部をなだらかに流れやがて米代川へと合流する。川には昭和40年代初期のころまでマスが遡上した。また、4~50㌢のイワナの魚影も通常みかけるほど豊かな川であった。

 写真右側は集落に残された江戸後期の機織り道具で蔵に収蔵されていたものである。山田佐一郎マタギ(明治45年生) は八木沢は今では考えも及ばない不便なところでした。森林起動が通ったのは大正7、8年頃ですか。昔から昭和の初めころまで機屋(はたや)さんというのがあって、機織りは相当おそくまでやっていた。畑から採集した糸の原料、長く伸びたのを釜で蒸かした後、皮をむいて「オシキダ」というものでギューッとこくると白い繊維が出てきます。それを洗って棹にかけて乾燥します。それを女の人たちが夜に糸を紡ぎます。へそを巻くと言って、ひょうたん型に巻いて吊るしていました。それを材料にして布を織ります。材料は主にマタギの衣装、モンペとか袴です。風は通すけれども雪は全然付かなかった。自給自足でどこの家にも機織りはありました。冬場のマタギは犬の毛皮をきていました。皮は生のうちに張り板に張り付け乾燥をさせます。そのあと皮を揉みます。犬の皮は軽く雨も通さず雪もつきません。とても暖かいです。雪に座ってもさぶみ(寒さ)が通ってきません。クマ狩りでよくきていました。また、佐藤良蔵マタギ(大正13年生)は「機織りは昔、家にいっぱいあったが使わなくなり、壊して蔵にしまった。」と語っていた。

  

 

一郎マタギ屋敷跡と旧大淵集落跡

 

 昭和40年ころまで、八木沢集落南東側に大淵集落があった。通称「ヤギジャッコ」(八木沢)に架かる「つり橋」を渡ると、すぐの家が「山田家先祖代々記」を書き綴った「山田福蔵」マタギの家があった。そして「つり橋」の手前には一郎マタギが住んでいた。大淵集落の福蔵は旅マタギだった。貴重は記録や史料、狩猟猟具などがあったと思うが何も残せなかった。いま思うととても悔やまれてならない。

 八木沢マタギは最後まで残ったのが「一郎と良蔵」の二人。二人の心はかたい「絆」で結ばれていた。廃屋となってしまった屋敷跡がとてもさみしい。一郎マタギの子供は誰もマタギを継がなかったがマタギの魂はここに宿りつづける。

 

    
  写真左:<ソメイヨシノ>江戸後期、最初に住みついた「徳助、三之助、七左衛門」の3人のうちの1人、七左衛門の屋敷跡。保存樹ではこの桜(ソメイヨシノ)だけになった。桜は樹齢約200年、今でも咲きほこる。写真右は昭和17年度在校生{1年~6年)、旧八木沢分校(旧公民館跡地)
 
 2012年春、マタギの調査で戦前まで集落で暮らした秋田市に住む老婆を尋ねた。老婆は「鉄砲は子供のころから持ち歩いていた子もいた。授業中、先生はその子がバンドリ(ムササビ)をたくさん獲ったことを皆の前で褒めていた」と話した。


 集落に電気が点灯したのは昭和27年。電話の開通は昭和41年12月23日で公衆電話であった。また、この年に秋田県営第一号の萩形ダムが完成した。

 

<八木沢の蔵>

 近世後期、根子のマタギ衆(現北秋田市根子)によって切り開かれた八木沢集落。昭和30年代、20棟ほどの蔵が建ち並ぶ活気ある集落だったが、いまは当時の面影もなく空間のなかに4棟の蔵だけがポツポツと点在するが、この蔵の中にマタギの狩猟用具が収蔵されていた。
 集落は近世後期、盛んにマタギが営まれたと検証される。  

 
  
 
集落に残された「蔵」 
 
 
民 具 
 
 文久三年の建造物とおもわれる。写真右下は杵(きね)、江戸後期のもっとも古い民具と思われる。写真右は「はんじょ」昭和初期のころまで使われたもので「トチ」の木を刳(く)った「大・中・小」からなり、大は直径87㌢・深さ16㌢でとても大きい。30人ぐらいの祝い事に盛り皿としてハンデ(テーブル)に出された。年代は江戸後期期から明治初期のものと思われる。蔵のなかに収蔵されている。※【杵(きね)】近世後期と思われる。この杵は竪杵(たてきね)または手杵(てきね)・兎杵(うさぎきね)とも呼称される。臼(うす)と共に使い、おもに穀物の脱穀や籾すりなどに用いる道具で大きく分けて竪杵(たてきね)と横杵(よこきね)の2種に分類される。棒状で端が太くなっている竪杵(たてきね)は歴史が古く、もともとは千本杵(せんぼんきね)とも呼ばれた。もとは単なる長い棒であったが、中間の握り部分を細く、両端を太く加工し、握りやすく打撃の威力が増す両頭のものに発展した。杵本体と柄が垂直に交わる槌状(つちじょう)の横杵は、打杵(うちきね)ともいい、江戸時代になってから使用されるようになった。柄と本体の比率は地方や時期によって違いがある。杵の材料としては主にカシやヒノキなどが用いられる。 
 
 この集落に生まれ育ったものとして「蔵」には歴史が重く漂うと感ずる。蔵は近世後期、最初に移住した「徳助、三之助、七左衛門」の3人のうちの1人、七左衛門が建てたものである。木造二階建て、クギはいっさい使っておらず、梁や柱・土台はスギやナラ材の巨木で窓は二つ北東と南西側にあるだけ。

 マタギ文化が意匠的、構造的に最も発達していたことを裏付けられる貴重な遺産だと思う。私の伯母(おば)、村田チサ(大正10年生)は「昔から七左衛門の蔵には霜(しも)がおりね~(つかない)」といったものだ」という。いまはこの伝承すらもマタギ文化とともに失われてしまう。

 江戸、明治、昭和と当時の面影を固持するかのように佇む蔵、老朽化は防ぎようがないが蔵も人間と同じ命を持つと思う。先人があって我々がいる。だから集落のマタギ文化を残すことは「蔵も残す」と心にきめている。(佐藤良美) 

 
 
【八木沢番楽】
近世後期、秋田マタギ(現北秋田市根子のマタギ)が八木沢集落に派生、独立の集落として番楽が継承された。番楽は武士舞いが多く勇壮活発で荒っぽいのが特徴で演じる舞いはマタギやその子らであった
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                                                   昭和初期の八木沢番楽

  八木沢番楽は神社の祭礼の時おこなわれてきた。8月14日を幕開きとして、9月の末、稲刈り前には幕納めで舞うものとされ、根子番楽の流れをくむ。根子集落は日本を代表するマタギ集落で源氏、平家その他の落武者によって開創されたと伝えられ、多くの旅マタギを輩出し厳格なマタギの山の掟・戒律は非常に厳しく戒められていた。平氏没後その一族である小池大納言の家臣が離散し、越後の三面、下野の日光、羽後の根子に居住し、その遺臣が伝えたという。近世、根子マタギが八木沢集落にすみつき独立の集落として番楽が継承された。裏表がある12演目・計24演目が演じられマタギが勇壮活発で荒っぽい武士舞いが多いのが特徴の舞。「村人は源平落人の子孫と称し、近世、旅マタギを主とする伝統マタギを継承する根子マタギの番楽を継承していたが、後継者不足などにより1989年ころ、集落のマタギやその子等による八木沢番楽は途絶えた。

【八木沢墓地】 
 
八木沢墓地:昭和30年10月建立 中央は源氏車の紋章 
 
 マタギが渉った<掘内沢>
 
マタギが渉った背に鉄砲を背負った 水が多く渉れないときが何度もあった

姿を消したマタギ集落 八木沢
 掘内沢の源流は出羽丘陵太平山山系から注がれる。なだらかに流れる川を近世、秋田マタギ(阿仁マタギ)が横切っていた。根子集落の佐藤國夫マタギは八木沢に行くのに堀内沢を渉らなければならなかった。沢は密林で、ほとんどが天然杉の巨木に覆われ、冬でも水が多く渉れない時が何度もあった。また、八木沢集落の老婆(大正10年)は「ほりね~だば根子(ねっこ)さいぐのに必ずわだらねばならねがった。橋のね~川、おめえ~のオド(父良蔵マタギ)だばなんけぇも(何回)わだったものだ」といった。集落最後のマタギで父良蔵マタギは「根子さいぐのに川の水が多くて渉れね~時がなんぼ(何回)もあった」。集落の菩提寺は旧荒瀬(阿仁町)にあった。そのため、ご葬儀やご法事の際、八木沢からご住職をお迎えにあがった。そして、ご住職の手をひいてこの川を渉った。
 良蔵マタギはいった「根子さいくどきだば(いくときは)必ず背中さ鉄砲をしょった(背負った)ものだ」と。
 
朝日新聞 2012年6月27日 本社社会部 矢島大輔記者の記事
 
  
  
ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー
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