『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

丹羽氏次(にわうじつぐ)[2/2]

2018-08-31 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
丹羽氏次(にわうじつぐ)[2/2]

〔現代仮名遣い〕にわうじつぐ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1582年6月信長の死後信雄に仕える。その後

信雄の勘気を受け、1583年徳川家康に仕える。

1584年春信雄と秀吉が対立すると、家康の命

で岩崎城を修築し、弟氏重に守らせ、自身は

小牧に出陣し戦功をあげた。のち再び信雄に

仕え、伊勢国に七千石を下される。

1590年小田原の役では信雄に仕える。

小田原の役後、信雄が家康旧領への転封を拒否

して秀吉の怒りを買い、所領を奪われて下野烏

山に配流されると、氏次は再び家康に仕える。

子息を家康に仕えさせようとしたが、秀吉の命

により豊臣秀次に仕えさせた。

1600年関ヶ原の戦いでは家康に属し戦功をあげ、

三河国伊保に一万石を与えられた。

1601年3月死去。



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丹羽氏次(にわうじつぐ)[1/2]

2018-08-30 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
丹羽氏次(にわうじつぐ)[1/2]

〔現代仮名遣い〕にわうじつぐ


勘介。氏勝の子。父氏勝についで信長に仕える。

1582年2月木曾口で、木曾義昌・遠山久兵衛の

    軍勢に、織田長益・織田・織田孫十郎・

    稲葉貞通・梶原景久・塚本小大膳・水野

    忠分・簗田彦四郎・丹羽氏次が合流する。

    敵馬場昌房は深志の城に籠もり、鳥居峠

    の信長方に対陣する。

1582年3月織田信忠が高遠城を攻陥し上諏訪に進

    出すると、木曾口の木曾義昌・遠山久兵衛

    の軍勢に、織田長益・織田・織田孫十郎・

    稲葉貞通・梶原景久・塚本小大膳・水野忠

    分・簗田彦四郎・丹羽氏次たも深志城に軍

    勢をつめる。立てこもっていた馬場昌房は

    降参し織田長益に城を渡し退散する。


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丹羽氏勝(にわうじかつ)

2018-08-29 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
丹羽氏勝(にわうじかつ)

〔現代仮名遣い〕にわうじかつ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


源六・右近。丹羽氏識の子。尾張岩崎城の将。

父についで信長に仕える。

1555年6月信長の弟喜六郎秀孝誤射殺事件の後、

    守山城に籠る。

1568年信長上洛の戦いで、観音寺城を攻撃。

1569年8~10月の伊勢攻略戦に参加。

1570年8~9月の野田・福島の合戦に参戦し「川

    口」を守備。

1570年6月姉川の戦いに参戦。

1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、

    下坂本の香取屋敷を守備。

1577年3月信長の雑賀攻めに参戦し、根来口か

    ら小雑賀・紀伊川の山手に陣取る。

1580年4月信長が伊庭山の御鷹野に出かけたとき、

    丹羽氏勝の普請中の現場から信長の目の

    前に大石を落としてしまう。信長は担当

    の中から年長のものを一人召し出し手討

    ちにする。

1580年8月信長は大坂で佐久間信盛・信栄父子の

    国外退去を命じた後京都へ上り、林秀貞、

    安藤守就・尚就父子、丹羽右近の国外退

    去を命ずる。

1597年11月死去。


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庭田重保(にはたしげやす)[2/2]

2018-08-28 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
庭田重保(にはたしげやす)[2/2]

〔現代仮名遣い〕にわたしげやす

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・

    矢木駿河守・平井越後を使いとして、

    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    を同行させ、安土の信長にお礼を進上

    に参上する。信長方は、宮内卿法印・

    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。一行

    は織田信忠にお礼を述べたが、信長は

    会わなかった。信長は門跡・北の方・下

    間頼竜・下間頼兼・下間仲之に黄金を与

    える注文を下し、使いの衆にも黄金を与

    える。

1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。

    勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    およびその下使い荒屋善左衛門、信長方

    の使いは宮内卿法印・佐久間信盛、大坂

    受け取りの検使を矢部家貞がつとめた。

1582年辞職。

1595年8月死去。



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庭田重保(にはたしげやす)[1/2]

2018-08-27 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
庭田重保(にはたしげやす)[1/2]

〔現代仮名遣い〕にわたしげやす

※下線部は信長公記以外の記事によります。


庭田殿・庭田大納言殿。権中納言重親の子。

庭田氏は宇多源氏。

1529年従五位下。

1555年正四位上・参議。

1558年正三位・権中納言。

1575年従二位・権大納言。


1575年3月信長上洛時、今川氏真を接待する為の

    蹴鞠の会に参加。

1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。

1576年正二位。

1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙(わ

    たまし)に同行。

1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺晴豊・

    庭田重保を勅使として石山本願寺へ送り、

    信長方との講和を命ずる。信長方からは宮

    内卿法印・佐久間信盛が目付けとして添え

    られた。本願寺顕如光佐・北の方・家老衆

    が下問した所、下間頼総・平井越後・矢木

    駿河・井上・藤井藤左衛門らが評定を行い、

    勅定を受けることを決める。顕如光佐は、

    7月20日までに大坂を退出する旨告げ、下間

    仲之・下間頼兼・下間頼竜・北の方・門跡の

    連名で誓紙を提出。信長方青山虎が検使をつ

    とめる。


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庭田重通(にはたしげみち)

2018-08-26 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
庭田重通(にはたしげみち)

〔現代仮名遣い〕にわたしげみち

※下線部は信長公記以外の記事によります。


源宰相中将殿・庭田御方源宰相中将・庭田源

中納言殿。庭田権中納言重保の子。

1549年従五位下。

1572年正四位上・参議。


1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。

1576年12月従三位・権中納言。

1579年辞職。


1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙(わ

    たまし)に同行。

1581年従二位権中納言に還任。


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二条晴良(にでうはるなが)

2018-08-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
二条晴良(にでうはるなが)

〔現代仮名遣い〕にじょうはるなが

※下線部は信長公記以外の記事によります。


二条殿。関白尹房の子。

1536年正五位下・侍従。

1539年従三位・権中納言。

1541年従二位・大納言。

1545年正二位・内大臣。

1546年右大臣。

1547年左大臣。

1548年関白。

1549年従一位。

1553年辞職。

1566年准三后宣下を受け、1568年関白に還任。


1576年4月二条晴良が報恩寺に転居したあとを、

    信長の御座所とした。

1578年辞職。

1579年4月29日没。



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二条昭実(にでうあきざね)

2018-08-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
二条昭実(にでうあきざね)

〔現代仮名遣い〕にじょうあきざね

※下線部は信長公記以外の記事によります。


二条右府殿。藤原氏北家摂関流。左大臣晴良

の二男。

1568年正五位下。

1570年従三位。

1571年権中納言。

1572年権大納言。

1574年正二位。

1577年左近衛大将・内大臣。

1579年1月右大臣。


1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙(わ

    たまし)で近衛前久の次に輿で参る。

1584年左大臣。

1585年関白・従一位。

1586年7月関白を辞す。

1605年准三宮宣下。

1607年関白に還任。氏長者となる。

1619年7月死去。


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日乗上人(にちじょうしゃうにん)

2018-08-23 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
日乗上人(にちじょうしゃうにん)

〔現代仮名遣い〕にちじょうしょうにん

※下線部は信長公記以外の記事によります。


朝山。出雲朝山郷出身。

天文年間末期(1555年ごろ)戦乱で自家滅亡し

たのち上京し、荒廃した内裏の修理費を集めよ

うという念願を上奏し、時の後奈良天皇から日

乗上人の号を与えられたという。1568年織田信

長に起用される。


1569年5月頃に始まる内裏修復の奉行。

同年伊勢で信長から領地を下される。


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西尾吉次(にしをよしつぐ)

2018-08-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
西尾吉次(にしをよしつぐ)

〔現代仮名遣い〕にしおよしつぐ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


小左衛門。

1576年4月の安土山の石垣作りの時の石奉行。

1582年4月信長は西尾吉次に去年黄金50枚で

    用意させておいた(おそらく横須賀城

    米八千俵を、浜松で徳川家康の家臣に配る。

1586年10月秀吉と家康が大坂城で対面したとき、

吉次らが供奉。

1590年小田原の役の時には御右の脇備にあった。

1590年家康に従い関東に入り、武蔵(一説に上総)

に地五千石を賜る。一説に関ヶ原の戦いで家康側に

尽くし美濃一万二千石を領したという。養子忠永が

家督を継ぐ。

1606年死去。


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