丹羽氏次(にわうじつぐ)[2/2]
〔現代仮名遣い〕にわうじつぐ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1582年6月信長の死後信雄に仕える。その後
信雄の勘気を受け、1583年徳川家康に仕える。
1584年春信雄と秀吉が対立すると、家康の命
で岩崎城を修築し、弟氏重に守らせ、自身は
小牧に出陣し戦功をあげた。のち再び信雄に
仕え、伊勢国に七千石を下される。
1590年小田原の役では信雄に仕える。
小田原の役後、信雄が家康旧領への転封を拒否
して秀吉の怒りを買い、所領を奪われて下野烏
山に配流されると、氏次は再び家康に仕える。
子息を家康に仕えさせようとしたが、秀吉の命
により豊臣秀次に仕えさせた。
1600年関ヶ原の戦いでは家康に属し戦功をあげ、
三河国伊保に一万石を与えられた。
1601年3月死去。
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※下線部は信長公記以外の記事によります。
1582年6月信長の死後信雄に仕える。その後
信雄の勘気を受け、1583年徳川家康に仕える。
1584年春信雄と秀吉が対立すると、家康の命
で岩崎城を修築し、弟氏重に守らせ、自身は
小牧に出陣し戦功をあげた。のち再び信雄に
仕え、伊勢国に七千石を下される。
1590年小田原の役では信雄に仕える。
小田原の役後、信雄が家康旧領への転封を拒否
して秀吉の怒りを買い、所領を奪われて下野烏
山に配流されると、氏次は再び家康に仕える。
子息を家康に仕えさせようとしたが、秀吉の命
により豊臣秀次に仕えさせた。
1600年関ヶ原の戦いでは家康に属し戦功をあげ、
三河国伊保に一万石を与えられた。
1601年3月死去。
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