『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

長谷川橋介(はせがははしすけ)

2018-10-17 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
長谷川橋介(はせがははしすけ)

〔現代仮名遣い〕はせがわはしすけ


名は不明。織田信秀葬儀の時は、勘十郎信行の

家臣。

1553年4月三の山・赤塚の戦いの時の、信長方

    の先手あし軽。

1560年5月桶狭間に向かう時の、主従六騎駈け

    (織田信長と小姓衆長谷川橋介・佐脇

    藤八良之・山口飛騨守・加藤弥三郎・

    岩室長門守)の一人。その後信長から

    勘当を受け、駿河の徳川家康を頼る。

1572年12月武田信玄が駿河に進攻してきたとき、

    1562年になくなった岩室以外、身方が

    原で4人(長谷川橋介・佐脇藤八良之・

    山口飛騨守・加藤弥三郎)で討ち死に。


 ※「桶狭間主従六騎駆け」ともてはやされて

  天狗になったのでしょうか。壮絶な最期で

  信長公の恩に報いた形となりました。


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