『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

原政茂(はらまさしげ)[2/2]

2018-12-09 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
原政茂(はらまさしげ)[2/2]

〔現代仮名遣い〕はらまさしげ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1581年3月安土の信長に、「上杉景勝が越中へ

    進軍し小井出の城を攻囲した」と告げ

    られると、信長の命により不破光治・

    前田利家・原政茂・金森長近及び柴田

    勝家の軍勢が現地へ向かう。

1582年3月織田信長の信州入りに同行し、上諏

    訪の陣で信長を警護。

1583年賤ヶ岳の戦いでは越前勝山城主として柴

田勝家に属し、先鋒を勤め奮戦した。戦後前田利

家に属する。

1584年9月徳山秀現とともに能登末森城救援の後

詰として活躍した。

1585年秀吉につかえ伊勢に三万石有したという。

1590年小田原の役の後三河に移封。

1597年末には西三河高橋郡宮口村、北伊勢の内ほ

ぼ村、設楽郡大和田村、わきよ下村、浅井村など

を有した。

1598年秀吉の遺物三池を受領し美濃太田山城に移

った。

1600年関ヶ原の戦いでは西軍に属し、清洲城攻略

を毛利秀元に進言したが、長束正家に反対され実現

しなかった。

1600年7月伊勢長島城に圧力をかけたり、西軍高木

盛兼の高須城を救援するなど活躍したが、西軍が敗

れたため敗走し、10月自刃。



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