夢の翼with皇大26期生のブログ

私と関わる全ての人たちが繋がりあえるように、大学時代の思い出から現在の環境までをまとめて1つのブログにしちゃいました。

伯父の葬儀

2018-01-31 05:16:16 | Weblog
 母の兄が亡くなったので、父の名代として、母の郷里である飛騨高山へ出かけてきました。月曜日の授業を終えてから出る予定だったのですが、通級児童がインフルエンザで出席停止となり、仕事をかなり早く切り上げることができた私は、学校最寄りの駅から電車に乗っていく予定だったものを、自宅へ車を置きに帰ることになりました。このことがとんでもないアクシデントを引き起こすのですが、自分が悪いので何も文句は言えず・・・。
 さて、そのアクシデントを乗り越えて、ワイドビュー飛騨13号に乗り、一路高山へ。名古屋を出る時は15時前ですが、高山への到着は17時過ぎ。しかも、当然ですがすごい積雪。路面は全て除雪されているので問題はなかったのですが、店舗の前などは「カッチカチ」やで~と二の腕を叩きたくなるくらい凍っています。しかも、荷物を減らすために着替えを持たないようにしたため、礼服と革靴で歩いています。立ち寄ったコンビニを出る時に二度も連続で滑って転び、痛い目を見ました。雪に慣れていない地方の人間の典型です。それにしても、御手洗団子も中華そばも食べられない高山の旅は久しぶりです。
 葬儀場に辿り着くと、従兄が出迎えてくれました。伯母に挨拶をする前に通された場所が、何故か、先に到着していた母や叔父たちのいる食堂だったので、夕食を先に摂らせてもらい、その後、故人や伯母とのご対面でした。伯父の介護中に足を悪くして、車椅子生活を余儀なくされた伯母が、ものすごく悲しそうな顔をしていて、何と声を掛けて良いか分からないくらいでしたが、喪主の従兄にも色々と話ができて良かったです。
 亡くなった伯父は母方の長兄で、90歳。大腸癌だったのですが、大往生だと伯母は言います。早くに父(私の祖父)を亡くし、人手に渡りそうなくらいまで落ちぶれた母達の実家を、当時成り立てだった教員の安月給で半分だけ買い戻し、7人の弟や妹を抱え、大変だったことでしょう。母がまだ小学3年生の頃の話です。
 昔の話はイヤと言うほど母から聞いていたのですが、私が就職・結婚した頃は、当然、伯父は定年退職後でしたから、岐阜大学教育学部卒の版画を専門に取り組む図工の校長先生、としか聞かされていなかったのですが、母の記憶などというのは曖昧なもので、退職校長会の先生から弔辞を戴いたら、知っている部分には誤った情報がたくさんあったことに気づかされました。実は、私の、伯父に対する思いは、正直あまり良いものではなかったのです。末の妹である母が祖母を引き取り、1つ上の伯母と共に死ぬまで面倒を見たことをずっと腑に落ちないでいたのです。しかも、1つ上の伯母に至っては病弱にもかかわらず、高山の実家と祖母をを救うために身売りまでして貧困に喘いだのに、その伯母が59で亡くなった時、何一つ優しい言葉もかけず、私と末弟の叔父に後処理を任せて知らぬ顔をしていた伯父でした。良い印象などあるはずがない。教師としては、校長にまでなったのだから、それなりの人だったのだろうと思いますが、家族として、長兄として見た時に、私の見本にはならないと思った人でした。それを言うと母は悲しみますが…。
 しかし、退職校長会会長先生の弔辞を拝聴して、伯父がどんな教育者だったのか、知らなかった部分をたくさん聞かせていただきました。従兄達も教員で、管理職です。ここに至って教育者として語り合ったのは初めてでした。今まで見えていなかったものがたくさん見えてきて、伯父への印象もかなり変わりました。祭壇に輝く天皇陛下から下賜された瑞宝章が伯父の功績を物語ってくれていました。火葬場で釜の中へ消えていく棺を見送りながら、伯父に手を合わせて「伯父さんがどんな先生だったか分かったよ。立派な、素晴らしい先生だったんだねぇ・・・。」と初めて伯父に賛辞を贈ることができました。
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