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北タイ陶磁の謎が解けない・その2

2015-01-16 08:22:39 | 北タイ陶磁
 前回の続きである。2007年、Bangkok大学発行の東南アジア陶磁博物館ニュースレターで、アデレード大学東南アジア陶磁研究センターのMr.Don Heinの“Lao Jars?”と題する寄稿文を目にすることになった。それによると「1990年代初頭に、中程度の大きさで美しい壺が、出所不明として骨董品市場に登場し、タイ北部窯ではないかと云われていた。私(ドン・ハイン氏)は幾つかの理由で、それらの多く、いや全てがラオス産と信じている。多分それらは幾つかの窯で生産されたと思われる。」・・・と寄稿している。
 その根拠として1911年(?)、ドン・ハイン氏はルアンプラバーンに近いメコン川左岸のバン・サンハイの窯址や表層で下写真の陶片を発見した。


 更に「次の年、ルアンプラバーンとファイサーイ間のメコン川沿いに陶磁生産の兆候を探した。その結果、私はルアンプラバーンの上流ムアン・パークべンとウドムサイ県近くの、幾つかの村で似たような壺に注目した。」氏は、これらの壺はバン・サイハイで作られたと思う・・・と記している。そこで示された写真には、本題として掲げる印花文四貝耳壺の文様とは異なる印花文の陶片と、異なる耳の掌形物であった。
 当該ブロガーは、これらを小異とは思っていないが、これを捨ててバン・サンハイとするドン・ハイン氏の説には納得しがたい。

 ドン・ハイン氏の寄稿文に遡る1996年、関千里氏はその著作(東南アジアの古美術P219-P220)で、“ラオスからもたらされた大壺の一群”と題して、次の著述をしておられる。
「1990年のはじめにラオス北部からメコン川を渡り、チェンライ県のチェンコン地域を通過して現れた大壺の一群がある。それらの焼物はチェンマイに運び込まれたが、形状と釉調、そして青磁と褐釉の二色釉の特色が、15世紀頃のタイ北部諸窯の焼物に類似したものであった。
 特に装飾であるが、多種類のデザインで飾られた印花文が壺の口元から頸、そして肩や胴にびっしりと連続して押されている。象や魚であったり、蔓状の植物文であったりする。壺の肩についている耳には、龍や蛙そして貝が付いている。龍や蛙や貝も中国に発するが、農耕民族に縁が深いモチーフではないかと思われる。大壺の一群はラオスの歴史の中に埋もれていたことは、間違いないがラオスで作られた確証はない。」・・・と記されている。
 合わせて冒頭の写真に極似した壺のモノクロ写真を掲げて、上述のごとく説明されており、おそらく日本人としては、初めて紹介されたのであろうと、考えている。情報は現在でも多くはないが、さらに少ない当時において、関氏はラオスで作られた確証はないと記されている。
 また関氏はその著作「ベトナムの皇帝陶磁」で、パーンの青磁大壺は頸部が褐釉で肩から下が青磁の掛けわけ、壺の口元から肩にかけて、象や魚そして花に蔓唐草の印花でびっしりと飾られている・・・と記されている。写真の掲示がないので詳細まではわからないが、冒頭に呈示した写真のような壺ではないかと思われる。当該ブロガーの在チェンマイの友人は、これをサンカンぺーンと云うが、関氏はパーンとする。何が何だか、益々混沌としてきた。


 現在までに当該ブロガーが得ている情報は以上であるが、ホノルル美術館展示の壺とそっくりの壺が、バンコク大学の東南アジア陶磁博物館に展示されているとのことである。当該博物館のHPによるとこの壺(上写真)は、Two-color glazed jar Unidentified kilns、つまり焼成地不詳と紹介されているようだ。



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