印度旅行記INDEX


1987年、1989年、1991年とインドを旅行した記録。
1989年までの記録を1990年に文章にして、
恐らく1994年ごろ1991年分を加筆してフロッピーに保存した。
ここには当時のままの文章を載せている。
ブルーの字は1994年時点の注釈。
日本語で病名や状態を指す言葉に不快感を覚える方がいるかもしれない。
ただ、文章を読めばあの頃に僕がその言葉を選んだ意図が分ると思う。
だから、敢えてそのまま…、1990年の初筆のまま。

【INDEX】
第 1話 インドで出会った日本人たち
第 2話 インドで出会った外国人たち
第 3話 どうしてインドなのだろう
第 4話 あぁ、憧れのインド航路
第 5話 リキシャーマン
第 6話 多様な価値観
第 7話 路上のメッセンジャー
第 8話 GIVE & TAKE(生キテイケル)
第 9話 ビーチゾーリ
第10話 KAYA インドで出逢った女の子 (1)
第11話 KAYA インドで出逢った女の子 (2)
第12話 KAYA インドで出逢った女の子 (3)
第13話 聖なる地・ヴァラナシ (1)
第14話 聖なる地・ヴァラナシ (2)
第15話 聖なる地・ヴァラナシ 火葬(3)
第16話 下世話な話
第17話 POSSIBLE ON THE ROAD?
第18話
このあとも書くことはいっぱいあったはずだが終わってる。
今の感性じゃもう書くことがない。

【おまけ】
新興宗教に嵌っていた女の子に宛てた手紙 from Nirgili Hotel in Patna




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『インドで出会った日本人たち』印度旅行記-その1


1990年4月、
同棲中の僕らの部屋に冨士原くんと水島さんというカップルが遊びに来た。
僕らとはインドのラージギールで出会い、
仏陀が悟りを拓いた地ブッダガヤのブータン王国の寺の宿房で1週間を過ごした。
彼は僕と同い年(当時25歳)の絵描き。
彼女は出版社に勤めていた当時28歳の人。
いろいろなことを考えている人たちだった。
僕らは毎日のようにチベット難民キャンプにあるテント小屋の食堂で
チベタン料理を食べながら何時間も話し込んだのだった。
久しぶりに会った僕らは焼肉をつつきながらビールを飲み、
あのインドの日々のように夜中まで語り合った。
彼らは僕たちがインドに入った1989年10月の1ヶ月あとにバンコクからインドに入り、
やはり1ヶ月遅れて日本へ帰る予定だった。
僕らは帰国してから彼らの連絡を待っていた。
そして、忘れた頃の4月にやっと電話があったのだ。

彼らはインドに取り憑かれ、
ビザを更新しながら3ヶ月も余計にインドに居着いてしまったらしい。
良い話をたくさんしてくれた。
アラビア海に面した街ゴアでは、砂浜近くの干しレンガの小屋を借りて1ヶ月の自炊生活。
電気もガスも水道もない部屋。
彼らが最初にしたことは庭にかまどを造ること。
朝日が昇ると朝食のためにかまどの火を焚く。
魚は目の前のバザール(市場)、米や野菜は街のバザール。
朝食ができる頃にはもう日も高い。
海の砂で鍋を洗い、井戸水で流す。
そうするともう昼だ。
同じことの繰り返しで夜になる。
汲んできた井戸水で体を洗うと一日が終わる。
彼はその繰り返しに追われるだけの毎日に嫌気が差し、
自分が造ったかまどを壊してしまった。

でも、一日経てば腹が減る。

彼はまた黙々とかまどを造り直し、再び自炊を始めた。
2週間も過ぎる頃には手際もよくなって、本を読んだり、
海に出たり、バザールを訪ねる余裕もできた。
ゴアは世界中の旅行者やヒッピーやドロップアウト組の若者たちが長期滞在する街。
彼らの作る料理を食べにやがて多くの若者たちが集まるようになった。
鍋と釜だけの部屋に。
朝市で買ったイカでスルメ干しまで作った。
「生活するってことや健康で人間的な生き方が解ったんだ。
かまどを造れて飯が炊けても、今の日本じゃまったく役に立たないけどね。」
そう言って笑っていた。
すごくいい旅をしてきたと思った。羨ましかった。

インドというのは不思議な、それでいて何かホッとする国。
様々な啓示がある。
その国で出会った旅人も皆素敵だった。


2度目のインド、1989年にネパールで会った太田くんは会社を辞めて無期限の旅に出た。
船で中国に渡り、陸路西へ進みパキスタンへ。
パキスタンからインド、ネパールに入ってきた。
その後、ネパールから再び戻ったインドで金をなくし、おまけに肝炎に罹り帰国。
今は恐らく埼玉で働いている。
もう一人の太田くんとはカルカッタの安宿で会った。
屋上で星を見ながら寝ていた(屋上には縄ベッドが並べられ、飛びきり安い宿代なのだ)。
タイ、シンガポール、マレーシアを旅行していたのだが、
出会う旅人がインド帰りだったりインドを目指していたり…。
何かあると思った。
そして、バンコクの旅行代理店でアテネまでの1年オープンチケットを買って
インドに入ってきたのだ。
村瀬さんはあの広大なインド亜大陸を自転車で旅していた。
彼女の手作りのリュックを背負っていた。
インドのヴァラナシ(ベナレス)からネパール国境まで、
デコボコ道を窓無しバスで夜中に10時間一緒に揺られた。
吐く息も白い明け方の国境で僕らはポカラ行きのバスで、
村瀬さんがカトマンドゥに向け自転車で走り去るのを見送った。
ヴァラナシからネパールへ入る国境越えの方法を教えてくれたのが村瀬さんだった。
僕らはビザも持たずに夜行バスに飛び乗った。
1987年、僕はアタックザック1つ背負って旅をしていた。
ブッダガヤであった同い年の青年はすかすかのデイパックで旅していた。
3年ほどで世界一周の旅をしていると言っていた。
荷物は下着とフィルムと歯ブラシと…そんなもんだった。
高校を卒業して大学進学は敢えてせず、
千葉港で沖仲仕をやって貯めた280万円を持ってアメリカへ飛んだ。
アメリカで働き、その分で買ったバイクで大陸を横断した。
さらにイギリスやオーストラリアで働き、金が貯まれば旅を続け3年間。
僕らが出会ったのは彼があと2ヶ月で日本へ帰るという頃だった。
3年の間に持ち物が減り、シンプルに生きる方法を学んでいった。
「また旅するの?」と聞くと、
「もう旅はいいや。旅は良かったし、答えが見えたよ。
日本に帰ったら手作りの家具でも作りたいな。
それが僕の一生の仕事になればいいよ。」
日本に帰ってしばらくして彼から葉書が届いた。
千葉の生まれた街を去り、岡山県で家具職人としての修行をしている、とあった。
桝井くんという名前だった。
1991年、3度目のインドで会った安斎さんは48歳。
会社が倒産したついでにアテネまでのオープンチケットで日本を飛び出した。
「1年も旅ができて羨ましいですね」と言って励ましてやった。

みんなどうしているだろうね。


(wrote in 1990)

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『インドで出会った外国人たち』印度旅行記-その2

1987年冬、一度目のインドの旅。

大理石の巨大な墓、タージ・マハルで有名なアーグラという街では、
ディーパックロッジという安宿に泊まっていた。
木枠に縄を張ったベッドだけがある部屋。
ある夜、庭にある共同シャワーを浴びて外に出ると、
1人の西洋人の女の子が中庭で空を見上げていた。

インドの夜は灯りがない。だけど信じられないくらいの星が輝いているのだ。
まさに星が降ってくるよう。
それもワッと言う感じで。見上げると目眩がするのだ。
その女の子に声をかける。
「How’s your friend?」
「部屋でギターを弾いているわ。」
僕はブルースハープを持っていた。
早速彼の部屋に訪ねた。
彼はボブ・ディランの"Blowin' in the wind(風に吹かれて)"を弾いてくれた。僕はハープを吹く。
30年近く前、ディランの歌うこのメッセージは
システムに傷ついた若者、
ベトナム反戦を叫ぶ若者、
物質中心の世界に背を向け人間主義に理想を見て世界に散らばって行ったヒッピーたち、
彼らの間に拡がっていった。
やがて多くの有名アーティストのカバーと共に世界中で歌われた。
インドを旅するバックパッカーたちは皆この歌を知っているだろう。

彼は次にストーンズの"Waiting on the friend(友を待つ)"を歌ってくれた。
僕もギターを借りて美空ひばりの「悲しい酒」を弾いたが解らなかったみたい。
ジョン・レノンの"Imagin"を弾く。
想像してみてよ。すべての1人1人が平和な世界に生きていることを…。
君は僕を夢想家だと言うだろう。だけど僕1人じゃないんだよ。
いつか君もそう思って欲しい…やがて世界は一つになるんだ

こうやって違った国の人と1本のギターで一緒に歌うと
ジョンのこのメッセージがよく分かる。
彼は次から次に歌ってくれた。
彼女は彼の傍ら、ベッドに腰をかけて本を読んでいた。
いいカップルだった。彼はカナダ人。彼女はポルトガル人。
2人はギターと本を持って5年も世界を旅し続けていた。
いずれ彼の国カナダに戻り結婚するという。
僕らは最後にストーンズの名曲"Time is on my side(時が僕の見方)"を歌った。


「Time is on my side , Yes it is.」
お休みを言って部屋を出るとき、彼が言う、
「いつか日本でギターを弾くよ」
「東京で?」
「No. On the street.(路上でさ)」
格好よかったよ、ストリートシンガー。

1989年の冬、今の妻と2人、インド(ヴァラナシ)からネパール(ポカラ)へ。
バスで24時間の国境越えをした。
ポカラという村はヒマラヤがパノラマのように見える湖のほとりにある。
そこでステファンというスイスの青年に会った。
そしてポカラからバスで10時間揺られて着いた首都カトマンドゥ。
その街の安宿街で僕らは再会した。茶屋で話した。
彼は結婚していた。職を辞めてインド・ネパールを放浪しているという。
彼女が彼と結婚する前に1人インドを旅したそうだ。
そしてインドはいいよと言う。
それを確かめようと今度は彼1人がインドに来たのだ。

ガンジス上流の街、ヒンドゥ聖地リシケシで会ったスイスの女性は、
もう何度も1人でインドに来ていた。
時刻表片手の旅。
彼女が僕の妻に言った。「あなたはインドに必ず戻ってくるわよ」と。
実際僕らはその2年後、インドに「戻った」。

パトナの駅の待合室で夜行2等列車を待っているときに会ったフランスの女の子。

彼女は自分の軌跡をインドの地図にボールペンで記していた。
見ると彼女の日焼けと同じくらい真っ黒になっていた。
2年もインド・ネパールを旅していた。

ブッダガヤの安食堂で一緒にブルースハープを吹いたイギリスの老俳優。

仏教遺跡のある小さな村サールナートで頭を丸め、
サフラン色の僧衣に身を包み、仏教を学んでいたドイツの女の子。

彼女はチベットからの難民僧たちと一緒にいた。

イスラエルの青年は内戦の続く祖国で反イスラエルの立場、
つまりパレスチナサイドに立った。
そして祖国には帰れなくなった。
国に残してきた彼女に毎日のように宿の屋上で葉書を書いていた。
僕はカジュラーホの宿の屋上で地平線に沈む夕日を見ながらハープを吹いていた。
ディランの「風に吹かれて」を吹いていた。
旅を始めて1ヶ月目。
「How many roads かい?」、そう言って彼が屋上へ上がってきた。
僕は「蛍の光」を吹いた。
「その歌を知ってるよ。イスラエルでは朝ラジオから流れてくるんだ。
始まりの歌だよ。」
「日本ではお終いの歌なんだ。明日ヴァラナシへ行く。」
「じゃあ、ヨギロッジで会おう。」
僕は結局ヨギロッジには泊まらず、彼と再会することもできなかった。

ガンジス川中流のインド最大のヒンドゥ聖地ヴァラナシでは、
南アフリカ生まれのイギリス人と、
中国人の母とオーストラリア人の父親を持つ青年の2人と茶屋で一緒になった。
イギリス人の彼はアパルタイト政策に反対して祖国南アを捨てた。
もう一人の青年は母親が死んで中国を出た。
父親は軍人で彼が生まれたときに既に彼のもとにいなかった、つまりそう言うこと。
インドに永住するつもりだという。
インドと中国は難しい関係で、もう中国には帰ることができないだろう、と。
二度と祖国の地を踏めない2人の青年だった。

他にもたくさんの素敵な旅人がいて、ここには書ききれないよ。

(wrote in 1990)

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『どうしてインドなのだろう』印度旅行記-その3

1987年の年明け、卒業旅行でインドへ飛んだ。

仲間はハワイやヨーロッパへ行ってしまった。
何故インドなんかへ行くんだ、とよく聞かれた。
今でもきっかけはわからない。

大学生活はありきたりの学生のように学校にもあまり行かず、
バイトと麻雀とブランドの服と女の子のことだけだった。
就職はどうしたはずみか金融業界に決まった(3年次までに『優』は5個しかなかったけど)。
でも僕はいつも「何か面白くないナ」と感じていたのだ。
僕が「インド」に最初に出会ったのは、三島由紀夫の『暁の寺』の中だった。
けれど仲間たちと当時流行のカフェバーや雀荘に行くのに忙しかった僕は、
あまりインドのことを気に留めなかった。

大学3年の夏休みが終わって、
友達ではなかったがクラスメートの1人が一人旅から帰ってきた。
普段は無口のあまり友達のいなかった彼は、7月にトルコに飛び、
それからイラン、アフガニスタン、パキスタンを列車、バス、ヒッチハイクで通り抜け、
陸路インドに入り日本に帰ってきたと言っていた。
彼は相変わらず無口で友達も少なかったが、僕は強烈に彼を意識するようになった。

大学時代、
僕は時間があるとバイトで買った中古の軽自動車で1人、日本のあちこちを回っていた。

 17万円で買ったスバルR2、
 後ろにエンジンを載っけていた。
 エアコンなんてないし、
 東名高速を飛ばすと前輪が浮いた。
 2年後に18万円で売れた。

能登半島や神戸の街や…。
眠るのは車の中か、あまりに暑い日は駐車場の車の陰。
身体が汚れると夜中の学校に忍び込み、校庭で素っ裸になって身体を洗った。
ついでに洗濯をして神社の境内の干したり…。
何かをするわけでもなく、できるだけ長く旅行を続けるために1日の出費を切りつめた。
そして「明日はどこへ行こうかなぁ」なんて。
あの頃は何故こんなことをやってるのだろうと思うときもあったが、
今になってみればできない経験で懐かしいよね。
僕の大好きな人たちが住む漁師町、能登半島の先端にある珠洲市は
今、原発建設で分裂してしまった。
都会の人間の利便性と金を儲けたい山師たちのために犠牲になった人たち…。
出会った人やツーリングをしていた人々は元気だろうか。

片道2時間の通学だった僕は本もよく読んだ。
1ヶ月2万円くらいが書籍代に消えた。
無口なクラスメートの話を聞いてからは、
何故か手にする本の中に「インド」という文字が出てくるようになった。
インドには何かあるのかも知れないと思うようになった。
漠然とインドに行きたいと思った。
それが徐々に「行かなくちゃ」という思いに変わっていった。
決定的だったのは、横尾忠則の『インドへ』という紀行文の中、
三島由紀夫が横尾に「インドには、人それぞれに行く時期が自然と訪れる」という場面。

その瞬間だった。

僕はもう一度『豊饒の海・暁の寺』を読み返した。インドに行かなくては…。
就職も決まって卒業の目処も立ったので、僕は躊躇わずインド行きのチケットを買った。

今は、あのインド一人旅が転機だったと思っている。

Bus to CHHATARPUR、チャタプールは僕の地図にも載っていない小さな街だった

あの時インドに出会わなければ、皆と同じスーツを着て、
皆と同じ列車に皆と同じ無表情で乗り込み、
それで僕の一生は終わっていたかもしれないと思う。
高い給料と保証された生活の中で、ぬるま湯に首まで浸かり出られなくなっていただろう。
世界中の旅人にも会えなかっただろう。
サラリーマン生活は2年ほど経験したのだが、それは別に悪いものではなかった。
しかし、その世界で出会えた人よりも、
一晩安宿のドミトリー(大部屋、ベッドだけがたくさんある部屋)で一緒に過ごした旅人や、
街中の食堂で茶を飲みながら話した旅人から、
生きることについてより多くを学んだし、インパクトが強かった。

まして、インドというのは僕にとって特殊な国だった。
一人旅をしていると否応なしに考えさせられてしまう。
インドの旅というのは
「僕は誰なんだろう」、
「僕はどういう風に生きていけばいいんだろう」、
という問いかけが常に聞こえる内面への旅だった。

特等席は、On the Roof

インドは万華鏡世界で、旅をした人はその断面しか見られない。
しかし、求める人にはその人にあった答えを用意してくれるのだと思う。
ひとこと言えるのは、インドを旅したあとには2種類の人間ができるということ。
1つはインド大嫌い人間。
彼は日本の政治家、あるいは官僚にでもなれるだろう。
もう1つは僕のように何度もインドに戻ってしまう人間。
中間の人はいないらしい(観光旅行は別だけど)。
(wrote in 1990)

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『あぁ、憧れのインド航路』印度旅行記-その4


インドの首都ニューデリー空港には夜の10時に着いた。
税関を抜けて外に出るとまとわりつくような熱気。
遂に憧れのインド大地を踏んだ(1987年)。
空港からデリーの街までは数km離れている。
荷物を背負って歩き出すと暗闇から客引きたちがワッと攻めてきて、
僕はインドが始まったんだと実感した。
そのタクシードライバーたちを振り切ってニューデリー行きのバスに乗った。

1人で夜中のインドにほっぽり出されて不安になってきた、
と同時に「よーし、よーし」と燃えてきた。
インドの大きな街はイギリス統治前のオールドシティーと
統治後のニューシティーが必ず背中合わせにある。
ニューシティーは道も整備され、官公庁やオフィス、観光旅行者のホテルが建ち並ぶ。

一歩足を踏み出せばオールドシティー。


そこはまるで…ごった煮の世界。曲がりくねった細い道は迷路のよう。
その両側には間口2間の店がぎっしりと並び、その店の前には屋台や露店。
路上には人はもちろん、犬、牛、羊、豚…ありとあらゆる生き物が人々と対等に、
それ以上に堂々と歩き回っていた。

時々は死体を見ることがある。
さらには死につつある人さえも…。

あたりには香辛料やお香の匂いとヒンディ音楽の洪水。
ヒンディ語の耳障りだけど、どこか音楽的な会話。

ニューデリー駅でバスを降りると、今度はワッと安宿の客引きたち。
僕は彼らをかわしてメインバザールへと歩き出す。
メインバザールは駅前から延びる小道。バザールとは市場のこと。
手に入れたいものは何でも手に入る、不法なものでさえも。
その中には目指す安宿が数百とあるのだ。
そう、ここは安宿街。
世界中の旅人たちが集まる、ほんの1km足らずの路とその両側に拡がる街。
もう夜も遅いというのに街はまだ活気で溢れていた。

僕はボンベイロッジという看板が出ていた宿に入った。
オーナーはターバンを巻いたスィク教徒。
「シングルでいくらだ?」と聞くと「10Rs(当時120円)だ」という。
最低の部屋代だった。
もちろん部屋も最低で、低い天井(本当に低くてまともに立てなかった)と
窓のない部屋にはポツンとベッドが一つあるだけだった。


“これじゃあ昼も夜もワカラナイナ”

疲れていた僕は一晩だけと旅装を解いた。
どの独居房のような部屋で寝袋にくるまり、
遠く聞こえるヒンディ音楽をバックにいつの間にか眠りにつき、
僕のインド第1日目が終わった。

腹が減って目を覚ます。とにかく真っ暗で時間が分らないのだ。
外に出ると、もう街は動いていた。昨日の続きが始まっていた。


メインバザール沿いの食堂に入って、インド本場のカレー(サブジー)を注文。
さすがに辛くて涙が出た。だけど本格的に美味かった。
その頃はまだ生水を飲む勇気はなかったから、コーラを頼んだ。
銘柄はカンパコーラ。
インドは輸入制限のある国で、自国で生産するのが建前なのだ。
マハトマ・ガンディは今もインドに生き続けているのだ。
カンパコーラのロゴはコカ・コーラのそれに良く似ていた。

メインバザールを歩いていると時々物乞いに出くわす。
生まれたばかりの赤ん坊を抱いた老婆は、その手を柄杓のようにして赤ん坊の口へ運ぶ。
「この子に食べ物を」という仕草。
悲しそうな目で見られると動けなくなる。
何故だか原罪意識というものを感じてしまう。
「僕は何故日本に生まれたのだろうか…
この子供は何故インドに生まれたのだろうか…」
金をやるという行為も逃げ去るという行為もできず、視線を宙に漂わせる。
僕は貧乏旅行とはいえ信じられないくらいの金を持っている。
しかし、金を渡すという行為はそれだけの意味じゃない。
僕と彼らの上に精神的な上下関係を作ってしまうだろう。
たった今会ったばかりで、僕は彼らをあまり知らないのに…。
しかも彼らはインド社会の中で生きていける。
良い悪いは別にしてカースト制度とヒンドゥ教、このシステムの中で生きていける。
僕が彼らに金をやることは、そのシステムを壊すことになるだろう。
彼らを物乞いではない、ただの旅行者専門の乞食にしてしまうのだ。
だからと言ってその場から逃げ去るというのも難しい。
何故か罪の意識が生まれてくる。

「金をやれば済むのか? 逃げされば済むのか? 
ドウシテこの人は僕の前にイルノダロウカ?」
僕の頭は空白になりショートしていく。

5歳くらいの1人の男の子が僕の前で立ち止まる。
素っ裸同然のその子の目に見据えられると、僕は何故だか「負けた」と思った。
視線を外した。
その子の目は生きることに必死だった。
金もあるし生活にも困らない。だけど完敗だった。
彼は突然僕の足元に跪くと僕の足の甲に額を打ちつけ始めた。何度も何度も…。
そして「パイサー(金)」と言う。
僕はどうしていいのか分らず立ち尽くすだけだった。

僕の罪のような気がした。

「Who can help me?」と言うと、1人の青年が彼を蹴っ飛ばした。
強烈だった。
僕の一言で彼は蹴られた。
どうしてたった1Rs(当時12円)の金を渡せなかったのだろう。
この勝負、やはり彼の勝ち。
5歳の少年は必死に生きていた。彼は彼のやり方で生きていた。
彼のやり方は旅行者にはズシッ!と響くのだった。
(wrote in 1990)

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『リキシャーマン』印度旅行記-その5


ニューデリー駅からオールドデリーのチャンドニチョーク近く、
泥棒バザールまでリキシャーに乗っていく。
リキシャーの語源は日本の人力車。
自転車の後に座席をつけ、三輪車のように作り替えたもの。
カルカッタでは日本の人力車のように実際に車夫が車を牽いている。
市内交通はバスとタクシーとオートリキシャー(三輪バイクに人を乗せる架装をつけたもの)、
そしてこのリキシャーとなる。


まずは値段交渉から。
ツーリストプライス(旅行者価格)というのがあって、
何にせよ彼らの最初の言い値は相場の3倍ほどだ。
「チャンドニーチョークまでいくら?」
「任せるよ(Up to you.またはAs you like.)。」
こいつはあとでもめるもとだ。
「いくらだか言いなよ。」
「OK、10Rsだ。」
「そいつは高いよ。4Rs。」
「No.No.ババー(旦那様)」
「じゃあ、他のに乗るからいいよ。」
「OK! OK! ジャパーニ。8Rsで行くよ。」
「駄目駄目、4Rs。」
悲しそうな顔をして、「6Rs…。」
そんな感じで延々と1Rs(当時12円)の攻防を続けるのだ。
「じゃあ、5Rsで行ってくれよ。」
彼は座席を示し首を横に傾けた。
交渉成立。
首を横に倒す仕草がインドでは了解の合図
(日本では「わからん。何言ってんの?」って感じの動作)。

リキシャーの座席に座ると、彼は前を向いてペダルを踏んだ。

座席から見るリキシャーマンの背中は、力強いのだけれど寂しくて…やるせなくなる。
値段の交渉中はお互いに「勝負!」という感じで、敵にさえ思えてくるのだが、
こうやって黙々と錆びついた自転車のペダルを踏むリキシャーマンの背中を見ていると
辛くなってしまう。
ボロボロの薄汚れたタオルを首にかけ、穴だらけのTシャツに、
足は千切れたゾーリだったり、裸足だったり…。
炎天下、時折そのタオルで汗をぬぐう。
僕らの国ではこんな風にあからさまな形で人の労働を買うことは少ない。
道は悪いし、チェーンは錆びついている…。
僕が5Rsという金で彼の労働を買っているということが否応なく実感として分かる。
5Rs(当時60円)の持つ重みがズンズンと伝わってくる。
何か耐えられないものがあった。

対向から全財産とも言えるほどの大きな荷物と
太ったインド人夫婦を乗せたリキシャーがやって来る。
リキシャーマンは汗にまみれ疲れきっていた。
しかし、彼はひたむきに正直に、
身体を反らしながら立ち漕ぎでペダルを踏み続けていた。
タクシーやオートリキシャーは贅沢で、僕ら貧乏旅行にはあまり縁がない。
旅の最中何度もリキシャーに乗った。
何度も彼らの労働を直接買った。
何度も値段交渉でケンカをした。
時にはたった1Rsの攻防に疲れることもある。だけど辛抱強く交渉した。
僕は旅行者だったけれど、高い金は払わなかった。
これは彼らに対する礼儀だ。
彼らの生活は厳しいだろう。
だからといって、その時僕を乗せたただ1人を「選ばれた者」にしたくなかったし、
そんな行為は偽善者の自己満足のような気がした。
僕は彼らと対等でいるべきなのだ。
余計な金を払うほど僕は彼らの上にはいない。
彼らは一生懸命生きていた。だから僕も一生懸命やった。

ヒンドゥ教最大の聖地ヴァラナシでランブリッシュという1人のリキシャーマンと話した。

彼は少年の頃からこの地でペダルを踏んでいた。
35歳だというのだが、その年が無意味に思えるほど彼の顔は十分に老いていた。
1日20Rsの収入があればいい方で、
どんなに収入が少なくても親方にリキシャーの借り賃10Rsを払わなくてはならない。
田舎の親に送る金を引くと食事も摂れない日があるという。
夜は道端に停めたリキシャーの座席に毛布にくるまって眠るのだ。
「何年経っても俺はこの街でリキシャーマンをやってるよ。」

よっぽど旅行者は気前がいいのか、独善的なのか、
彼らを見下しているのか知らないが、金払いがいいらしい。
街をただ歩いていたり、列車から降りると、
その日の食い扶持を効率よく稼ぐためにリキシャーマンが集まってくる。
アーグラという街でアーグラ城からタージマハルまで行こうとしたときもそうだった。
リキシャーマンの輪が僕のまわりにできて、
口々に「10Rs !」とか「8Rsでいいよ」とか言っている。
僕も少々疲れていた。
その時輪の外でぼっと立ってこちらをみている痩身の爺さんと目があった。
僕は爺さんのところまで行き、
「タージマハルまでいくら?」と片言のヒンディ語で聞いた。
「ドゥールパイエ(2Rs)」と言う。
爺さんは英語が話せなかったのだろう。
正直な値段だと思った。僕はそれに乗った。
タージマハルまでは延々と続く緩い上り坂。細い杖のような脚に力がこもる。
右のペダルに全体重を乗せ、次は左のペダルに…。
干涸らびたかかとの細い足は今にも折れそうだった。
耐えきれなくなって、僕は自転車を降りて押してやろうとした。
と、その時、爺さんは後を振り返って

「No Problem(大丈夫)」

と言って、ニッと笑った。かっこよかった…。
僕にしてみればたった2Rsを得るために爺さんは最後までその坂を上りきった。
そうなんだ、
爺さんは僕が生まれる前から何万回となく、この坂を上ってきたのだろう。
アーグラ城で客待ちをするということはそういうこと。
爺さんのプロとしてのプライドに対して僕は持っていた煙草を1本渡した。
それは旅の最中に彼らに余計に払った数少ないもののうちの一つだった。
そして、爺さんは1本の煙草を擦り切れた胸のポケットに大切そうにしまってくれた。
あの爺さんは今日もタージマハルに続く坂道を登っているのだろう。

カジュラーホという村を散歩していたときのこと。
村はずれの辻でリキシャーマンに呼び止められた。

嫌な予感がした。彼はつきまとってくるだろう…、何となく警戒した。
彼は僕を手招きした。
そして胸のポケットから1本のインド煙草を差し出した。
そのインド煙草はビティという小さな手作り葉巻で、
決して中流階級以上の者は吸わないという。
僕はそれを受け取り、彼のマッチの火で吸った。

…それだけだった。

僕は自分を恥ずかしく思った。
僕は話したこともない彼を勝手に判断して、面倒だと感じていたのだ。
僕は彼を豊かだと思った。
何も持っていない人の方が僕よりはるかに豊だった。
どうして僕が、彼らの生活を思って余計な金を払うことができるのだろう。
そんなに僕は豊ではないし、偉くもないんだ。
自己満足のために、彼らをその対象にはしたくなかった。

(wrote in 1990)

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『多様な価値観』印度旅行記-その6

僕らは日々の生活を相対的な価値観で生きている。

全てのことがらを、善と悪、美と醜、聖と俗、右と左…、
そんな風に分けて一方を切り捨て、隠し、忌み嫌う。
メジャーとマイナーという基準があって、
誰もがメジャーの枠の中に居たがり、マイナーを追いつめていく。
生きるための基準は他人の目と、その時代の常識だろう。
絶対的な世界に生きることは難しいのだ。

相対的にしか生きられないシステムはいつも誰かを傷つけ、追いつめて行くのだ。
メジャーの枠のさらに内側にはより一層の安心がある。
そこに近づくためには、また1つマイナーを創り出し、追いつめていけばいい。
このシステムの中では自分がメジャーの枠にいないことに気づいた瞬間、
自分自身を傷つけていくのだ。
精神的にもいいわけがない。

常識って何だろう。常識って真理とはイコールでない。
常識はその時代の中での「体制」あるいは「メジャー」の枠組みでしかない。
戦時中は「人(敵)を殺せ!」といい、それが常識だった。
常識から外れれば非国民と呼ばれ、迫害、投獄…。戦争が終われば、今度は。
僕自身を含めた常識の枠の中でしか生きられない人たちはカワイソウだな、と思う。
本当の自分がない人は、常識に寄りかかって生きるしかないのだろう。
たくさんの納得できないこと、そんなことを何故かと聞かれれば、
「そういう時代だ」とか「慣習だ」とかつぶやいて納得したような気になる。
22歳のときにインド社会に出会った。
それまでの生きる基準は常識だけだった。
常識とスクエアな枠の中から世界を見て、他人を判断していた。
自分の絶対の信念もなく、当時花形産業だからとリース業界に就職を求めていた。


インドでは人々は自分の絶対真理の中で生きていた(ように思う)。
あらゆる二元対立がそこにあった。
生も死も、聖も俗も…。
インドでは死は決してマイナスのイメージではなかった。
病気もマイナスではないかも知れない。
死は生の反対概念でしかない。
コインの裏表のように死は死だけでは成り立たない。
誰かが善行をしようと思う。
と、その瞬間にその頭の中には「悪」という価値観が入り込んでいる。

1枚のコインには裏と表がある。
表だけのコインなんて存在しない。
ところが僕らの住む世界(日本)は、まるで表だけで存在するかのように装う。
マイナスのイメージはいつも何処かへ追いやられる。
あるいは存在しないものとされるのだ。
だけどそんな世界はいつまでも存在できない。
僕らの世界には様々な歪みが表出している。

インドでは違った。
表と裏という二元対立を超えて、コインそのものを見ていたような世界だった。
地面にコインをばらまいて、表と裏に散らばった。

ただそれだけ。

コインはコインなんだ。
僕らのように裏返しのコインを表向きにしたり、隠したりする必要なんてどこにある?
そう言っているようだった。
真理を理解するというのは表裏に囚われずに
コインそのものを理解することなんだ、と思った。

インドには不具者がたくさんいる。
失明した人、クル病の人、ライ病で手首や足首のない人、
事故か何かで腰から下をまったく失ってしまった人。
彼らはインドの中で隠された存在だっただろうか。
僕は彼らと目が合うと、いつも何かが負けていると思った。
僕に何かが欠けていると思った。

カルカッタのサダルストリートは安宿街。

マリアホテルの屋上から@サダルストリート、カルカッタ

世界で最も邪悪な都市と言われるカルカッタの、その中でも過酷なストリート。
宿の前には路上生活者や不具者が座り金を乞うていた。
その中の1人の少年(17歳くらい)と親しくなった。
彼には腰から下が全くなかった。
彼は毎朝僕が散歩に出掛けると、路上に手をつき身体を起こして声をかけてくる。
「ハロー、ジャパーニ!」
その声が信じられないくらい明るいのだ。
「僕に何かくれるものはない?」
「何もないよ。」
「じゃあ、煙草を1本くれよ。」
「OK」
これが毎日繰り返された会話。
僕は煙草を差し出し路傍に彼と並んで座り、一服する。
最初の頃は恐ろしかった。
僕の価値観では到底理解できなかった。
しかし、彼と並んで一服する日が重なるに連れ、
簡単なことかも知れないと思うになった。

彼は主役だったのだ。

他人と比べる必要のない世界、インドの寛容さ。
誰もが絶対者で自分のために生きていた。
自分の思いが世界を創っていくのだ。
インドでは誰もが生きていた。
金のない人はそのことを武器に。
目の見えない人はその見えない目を武器に。
天が与えてくれたものが彼の武器だった。
それは決してマイナスではないし、隠すべきことでもないのだろう。
病気という考えは健康という言葉から生まれる。不具者は健常者から。
インドにもそういう言葉は確かにあるが、
それによって自分を規格化しない世界がある。
「何、病気だって? そうか、それはそれでトータルじゃないか」って。


僕は1度目のインド旅の途上、カルカッタで倒れ、死ぬかと思った。
そして、その時にこのことが少しだけ理解できた。
(wrote in 1990)

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『路上のメッセンジャー』印度旅行記-その7

何度も何度も子供たちや不具者や物乞いに道を塞がれ、金を乞われた。
そして、その目を見るたびに、僕は負けていると思った。
どうしてだか判らなかった。


(行きつけの飯屋はこんな感じ、「サブジー、ドゥーチャパティ」)

1度目の旅の終盤、僕はカルカッタの安宿街サダルストリートの奥、
モダーンロッジに泊まっていた。
そのカルカッタでは路上で生まれ路上で死ぬだけの人々や不具者を、
それまで滞在したどの街よりも圧倒的に目にする。
だからカルカッタでの日々は混乱の連続だった。
5歩歩けば混乱にぶつかる。

日本にいるときの価値観では、彼らは同情の対象だった。
しかし、ここで僕はいつも負けていると思っているわけで…。
この混乱は自分自身への懐疑だったのだ。
自分のどこかが間違っているんじゃないのか、って。

KUNGI食堂の子供たち@カジュラーホ

カルカッタを去る4日前、僕は倒れてしまった。
いつ頃からか生水を飲むようになっていた僕は、その宿の水も飲んでいた。
そして、倒れた。
同じ日に2人の旅行者が病院に運ばれたらしい。
40℃近い高熱、下痢と嘔吐でのたうち回った。
赤痢かチフスか…。本当に死んじゃうかも…。
その2週間後、日本に戻れば会社の内定者健康診断が待っている。
運良く内定が出ていた金融業界だったから、「失いたくない」とあの時は思っていた。
僕は1人、宿のベッドで天井を見上げながら不安になっていた。
考えることは健康だった自分のことばかり。
水を飲んだ自分を悔いた。

何も食べられず、ミネラルウォーターを飲んでは吐いて、
苦しみながら3日が過ぎた。
いいことないな、と思っていた。
3日目、僕はフッと諦めてしまった。自分の現状を認めてしまった。
“今僕は病気だ。だけどそれがすべてだ”と。
“宇宙の大きなバランスの中じゃ大した問題じゃない”と。
その時僕は二元対立を超えられたのだと思う。
「常識」が僕に恐怖や不安をもたらしていたのだ。
職を失ったっていいじゃん。
そうしたら金を貯めて、またインドに来よう!
世界中の旅人と話をしよう!

そう思えた。

僕は心が軽くなって、カルカッタの強烈な雑踏の中へ、
人の海の中へと再び入っていった。
気づくと今までの混乱は「Who am I?(僕は誰なのだろう)」という問いかけだったのだ。
その答えが出なくて僕はまごついていた。
インドは僕の着ているもの(常識)を脱がし続け、問いかけ続けていたのだ。

カルカッタの雑踏の中、歩道に1人の男が座り、路上に何かをチョークで書いていた。

彼には両足がなかった。
義足を傍らに英語とヒンディ語とベンガル語(カルカッタの方言)で、こう書いていた。
僕は7年前まで、幸せな家族と健康な体を持っていた。
7年前のバスの事故で、僕は家族と両足と聴力を失った。
僕は生きなくてはならない。金をください。

と。
僕はその場を動けなかった。
すべての混乱が理解へと変わっていった。

そうだ、彼は生きているんだ。生きていることそのもの。
与えられたものが武器だった。
7年前までは幸せな家族と健康な体が…。
そして、それからは義足とカルカッタの街が武器だった。
彼はポジティブだった。
僕にとって彼は路上のメッセンジャーだった。

象皮病で3倍にもふくれあがった脚を見せ、震えながら路上に立つ人。
渋滞の交差点を手だけで渡る少年の手足は異常な角度で曲がっていた。
歩道のカラスと生きる人。
みんなのことが少しだけ理解できた。
彼らは絶対的な世界で生きている。
僕らのように相対的な世界で他人と比較しながら、
スクエアな枠を基準に生きているわけじゃないんだ。
隠された存在じゃない。

僕の路上のメッセンジャーは、このカルカッタでたった1人、
同じやり方で7年間も生きてきたんだ。


そのとき以来、僕は負けているとは思わなくなった。
彼らと僕は同じなんだって漸く思えた。
僕は今まで彼らに同情していた。同情は優位の裏返し。
彼らのように自分の世界を生きるために生キテイル人たちに、
本当の自分がなかった僕がどうして優位に立てるのだろう。

僕らは記号だらけの世界に生きていて、本当の自分を見ることは難しい。
病気で倒れ、死ぬことを思い、次にすべてを認め諦めた時、
僕に僕から『○○○○(僕の本名)』を脱ぎ捨てた自分が見えたのだと思う。
裸の自分は頼りなかったが、肩の荷が下りたという感じ。
世界が優しく見えだした。

宿に戻り体温を測ると37℃になっていた。
3日連続40℃近くで続いた高熱が下がったのだ。
自分の思いが世界を創っていく。自分の見方で世界は見える。
自分の見方でしか世界は見えない。

次の日、まだ下痢と嘔吐は続いていたけど、しっかり飯を食い、
ふらつく身体にアタックザックを背負ってチェックアウト。
夜行列車でパトナーに向かった。
何もない街だったけど気持ちよかった。
3日間ガンジス河を見て過ごした。

アイス売りのオヤジさんが握りしめた派手な色のアイスキャンディが何故か美味くて、
下痢をしていたけどそればかりを食っていた。
自分の身体で実験をしていたような日々だった。何があっても怖くなかった。
下痢だって楽しめるようになった。
だって自分が世界をどう感じられるか、ということなのだから…。
自分が世界を創っていくのだから。
(wrote in 1990)

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