MY LIFE,MY SPIRIT by Masato

今までの人生で感じたこと、自分の考え方を率直に語ります

不便な現代社会

2006-10-12 12:44:56 | Weblog
僕は単純作業が大の苦手だ。頭を使わない作業、創造性のない作業、機械に代われる作業はほとんど意味がないと考えている。機械に出来ることは最大限機械に任せ、人間は人間にしかできないことをやるというのが僕のポリシーである。テクノロジーが発達して世の中は昔に比べて便利になったとは言うものの、僕は生活していく中でいろいろと不便だなと感じることが多い。

仕事では領収書で面倒な思いをしている。仕事で買った物は領収書を取っておく必要があるのだが、いちいち領収書を取っておいて税理士さんに提出しなくてはならない。税理士さんもそれを受け取ってノートに貼り付け、PCに入力したり集計する手間がある。
領収書のデータを店のレジから携帯電話で受信できるようにならないだろうか。デジタルデータだから簡単にメモリーカード経由でPCにコピーして会計ソフトで集計したり、メールで直接税理士さんに直接送れたらいいなと思う。個人レベルでも家計簿をつけるのが簡単になる。

スキャナが普及して紙データをデジタルデータに変換してPCに保存することはできるようになった。だが本をスキャニングする際、いちいちそのページを開いて読み取るのは面倒だ。本を差し込むだけで、全ページを自動的に一気にスキャニングしてくれるスキャナが欲しい。大して重要ではないけれどまた読むかもしれないような本は、データだけPCに残しておけば心おきなく捨てられる。本棚が一杯になることもなく、家のスペースが有効に使えるようになる。

デパートの何階建てかの駐車場や敷地の広い駐車場に車を停めると、帰るときにどこに置いたのか分からなくなる時がある。車のキーに自分の車のある方向を示すコンパスというかGPSのような付属品があったら、車をすぐに探し出せて便利だと思う。

家の中でも不便に感じることが多い。
例えば掃除は単調な作業の繰り返しで最もつまらない家事労働の代表だと思う。2年前に引っ越して部屋が広くなってからは、掃除の大変さにげんなりした。電気掃除機を使えば効率的に掃除できるのは確かだが、それでも人がやらなくてはならない事には変わりない。ホウキが多少進化した程度に過ぎない。
何かいい方法はないものか考えていたところ、アメリカにルンバという掃除ロボットがあり、アメリカではかなり売れているという。日本ではビックカメラで販売しているというので、早速去年購入を決めた。
使ってみたらこれの便利なこと。スイッチを入れるだけで全部掃除してくれる。段差はセンサーが避け、電池の容量がなくなると充電器に戻る。お陰で家で掃除機をかける必要がほとんどなくなった。僕の掃除は出かける前に床の物をちょっと片付けて、掃除ロボットのスイッチを入れるだけだ。帰った時には全部綺麗になってロボットは何事もなかったように充電器に戻っている。便利なことこの上ない。8万円近くしたがそれだけの価値はある。これが本来の掃除機のあり方だと思った。
日本のメーカーでも同じような掃除ロボットを現在開発中らしい。日本メーカーが掃除ロボット市場に参入すれば市場も活性化するだろう。数年先には日本の家庭にも掃除ロボットが普及しているに違いない。将来有望な商品であることには絶対間違いない。

しかしこの掃除ロボットもフロアしか掃除できない。ここまでやってくれるなら家の中全部機械でやって欲しい。トイレやお風呂、机の上も掃除してくれるようなロボットはないのか考えるようになった。

トイレやお風呂は形状の関係で掃除ロボットの開発は難しいだろう。汚れの付かない表面加工された材質のトイレやお風呂はないのかと考えていたら、これは現在お風呂メーカーが開発中だという。将来の商品化が楽しみだ。

机の上の埃の掃除も面倒だが、机にはいろんな物が置いてあるし、それだけのためにロボットを使うのは現実的ではないだろう。机の上の埃まで全部吸い取ってくれるエアコンがあったらいいなと思う。

また2年前に引越しと同時に全自動洗濯乾燥機を入れた。洗濯から乾燥まですべてやってくれるので最初は便利だと思ったのだが、すぐに当たり前になった。最後に洗濯物をたたむ作業が残っていてこれが面倒でしょうがない。乾燥が終わったら綺麗にたたんでくれる洗濯機があったらいいのにと思う。

新しい家では二重サッシになっていて前のアパートよりも断熱効果は高い。でもまだまだだと思う。断熱効果を高めるためにいちいちカーテンを開け閉めするのも面倒だ。
夏の気温の高い時期になると熱を反射し、冬に気温が下がると熱を吸収するようなサッシはないのだろうか。高校時代、暗い所では透明だが、太陽光線に当たるとスモークに変わるサングラスがあったが、スイッチ一つで透明とスモークを切り替えられるサッシができないだろうか。もうカーテンも不要になる。素材の研究が進めば技術的には可能だと思うのだが。これが家庭やオフィスに普及したら冷暖房効率が上がって地球温暖化対策にもいいと思う。

「家の埃を吸い取るエアコン」「洗濯物をたたんでくれる洗濯機」「外気熱吸収反射サッシ」のニーズは高いと思うが、技術的に難しいかもしれない。自分が生きている間に商品化されるかどうかはわからない。次に生まれるときにはあったらいいなと思う。

僕の場合、日常生活のちょっとした不便なことがきっかけでインスピレーションが次々と沸いてくる。まだまだ数え上げたら切りが無い。
でもこんなことを考えているより嫁さんをもらった方が早いかもしれない。


未成熟なIT社会

2006-10-11 15:58:13 | Weblog
先週までで32歳までの僕の自叙伝は終わったが、僕のブログを楽しみにしていて続けて欲しいとの要望があった。
僕も書き足りないこともあるので普通のブログにして続けることにした。毎日はできないが、時々気が向いたらアップするので、玉に覗いて見て欲しい。


僕は典型的なアナログ文系人間だが、今はなぜかIT関係の仕事をしている。技術の詳しいことはわからないが、様々な本を読んでいるのでテクノロジーがどんな方向に進むのかは大体わかる。どの方向に進むのかを判断するのは難しくはない。マニア層ではなく、一般的な人々がそうしたテクノロジーを望むか、それによって恩恵を受けられるか、それが簡単に安くできるかどうかがポイントになる。

現代のテクノロジーで最も変化が激しいのはインターネットや携帯電話関係のテクノロジーだろう。日本全国が光ファイバーで結ばれて、様々な情報が高速に結ばれるようになった。携帯電話でメールやインターネットをし、TVを見たりすることも可能になった。小さい頃は夢物語だったことが現実になった。

しかし僕はまだまだ不便なことが多いなと感じることが多い。
例えば僕の自宅にはCATVを引いてあるのだが、DISCOVERY、NATIONAL GEOGRAPHIC、HISTORY CHANNELLなどの専門チャンネルが一番面白い。
世界、宇宙、歴史、動物、伝記、宗教、医療、科学、テーマは多岐に渡り、内容が深く、濃く、教養を養うのに役立つ。テンポが早くて飽きさせない。次々と面白いテーマが放送させるのでどれを見るか迷ってしまう。
これらのドキュメンタリー専門チャンネルに慣れると、地上波チャンネルによくあるタレントが出てくる番組はだらだらして時間の無駄に感じる。CATVにしてからほとんど地上波は見なくなった。

ところがそれらの専門チャンネルは自宅では見られても、外では見られない。カーナビでも携帯電話のワンセグでも見られない。僕は地上波なんかより専門チャンネルの方を見たいのだ。自宅から一歩出るとこれが不満である。
またいい番組があったことを後になって気付いても、それをもう一度見るにはいつになるかわからない再放送かDVD化を待つしかない。これもネット経由で流してくれればいいのにといつも思う。

過去の番組をインターネット経由で流すことは今の技術で十分可能だ。僕は昔のテニス選手のボルグやコナーズの試合はもう一度見てみたい。見逃したチャンネルも沢山ある。有料でもいいから過去の番組を見たいという人は沢山いるはずで、潜在的なニーズは高い。

テレビ局は過去の膨大なコンテンツを抱えているにも関わらず、その資産を有効に使っていない。有料で配信すれば新しい収入源になるのにもったいない。

ネット経由で過去の番組をストリーム配信やダウンロードができれば、もうわずらわしいレコーダーの操作からも解放される。いちいちDVDを探す必要もない。HDD,DVDレコーダーはあまり売れなくなってメーカーは困るだろうが、それは大した問題ではないだろう。

だがテレビの番組をそのままネットで流すのは著作権の問題や法律的な問題が解決していないのでしばらくは無理だろう。いろんな利害関係を調整するのはかなり大変な作業だろう。

しかし将来的にはテレビでもカーナビでも携帯でも、あらゆる端末であらゆる番組をどこでも見れるように、また過去の番組もすべて見れるよう、あらゆる音楽を聞くことができるようにするべきだろう。それは日本に限らず、世界中のTVや音楽を見たり聞いたりできたらいいと思う。
それが本来のビデオオンデマンドであり、ユビキタス社会ではないだろうか。

まだまだTVの時代の呪縛から離れられない現在、IT化社会といってもまだ過渡期に過ぎない。だが僕が生きている間に実現して欲しいし、実際できるようになると思う。

大体人間の望むことや想像しうることは時間を経て必ず実現していく。本当の自由な情報化社会が到来するのもそれほど遠くないだろう。


前編終了にあたって

2006-10-06 12:40:38 | Weblog
このブログでは僕の中学時代から会社を辞める32歳までの印象に残った出来事を書いてみた。
以前から日経新聞の「私の履歴書」を読んでいた影響で自分の人生もいつか書いてみたいと考えていた。日経新聞に出てくるような偉い人達のような素晴らしい人生ではないが、ちょうど人生の折り返し地点を回ったところなので半生を振り返る意味でもいいかもしれないと考えていた。
また最近流行りのブログに関心があったので、あえて自叙伝風に書いてみた。タイトルにある通り、今までの人生で感じたことや、自分の考え方を率直に書いたつもりだ。

最初から意図したわけではないが、田舎から出てきた純朴な少年が、都会で揉まれながら変わっていくようなストーリーになった。これらの出来事は既に僕の中で昇華されているので、10年後、20年後に書いたとしてもその内容は全く変わらないと思う。2ヶ月以上、全60話に至るまで自分でもよく書いたと思う。

数は少ないが毎日コンスタントにアクセスがあるので友人の皆さんにもよく今までお付き合いいただいたなと思う。実際にブログをやってみて感じたのだが、誰かに読んでもらっているという意識があると自然と力が入る。最近ブログが流行っている理由がわかった。誰かが読んでくれるから続いたのであって、自分一人ではまず続かなかったと思う。

僕は人から「何を考えているのかよくわからない」とよく言われる。同郷で十代の頃から友人の宏満は僕の本質を良くわかっているが、最近知り合った人達からは誤解されているなと感じることも多い。僕が昔から今のキャラクターだと思われているようだが、元々は内向的な性格を環境に合わせて努力しながら変えてきたというのが事実だ。
インターネットの普及で自分の考えが簡単に公開できるのは素晴らしい。せっかくこういうテクノロジーがある時代に生まれたのだから、それを最大限活用すべきだと思う。

この後もフリーのパソコン講師になり、会社を作り、いろんな人と出会い、婚約の失敗、事業の失敗等の事件が続く。自分自身は地味で堅実な性格なつもりなのだが、どうも僕には平凡で安定した人生は許されていないらしい。この後も波乱万丈な人生が続く。

しかしこれからの出来事を書くのは非常に難しい。ここからの10年は時間軸が現在と非常に近くなってくる。このブログを読んでいる友人達も出さざるを得ない。現在進行中の事も多い。書くのにいろんなためらいも出てくる。
普通のブログのように日記風に書くこともできるが、僕の日常の出来事を読んでもつまらないだろうし、僕は何かテーマを深く掘り下げて書きたい。

というわけでとりあえず一度このブログを前編終了という形にしようと思う。続きは必ず書くつもりだが、それは僕の人生が次のステージに入ったときになるだろう。もしかしたら何十年も先になるかもしれない。


今僕は42歳になり、人生の折り返し地点を回ったところだ。普通はこれくらいの年齢になれば、人生の先が大体読めるようになると思う。しかし僕は仕事も結婚もまだ未確定の要素が多く、これからの人生がどうなっていくかは現時点ではほとんどわからない。


だが今回世界でも有数の工業国の日本に生まれ、20世紀から21世紀にかけて様々な経験を積めるのは本当に幸運だと思う。
テクノロジーが発達し、昔では考えられないような便利な時代になった。
単純作業や家事労働の多くを機械に任せ、人間はより高度なことに時間と労力を集中できるようになってきた。
飛行機を使って短時間で世界中を旅し、世界各国の人や文化に触れることができるようになった。
インターネットの発達で瞬時に世界中の情報が得られ、個人でも無料で自分の考えを発信できるようになった。
こうしたテクノロジーはこれから数世紀に渡って益々発達していくだろう。人々の生活はテクノロジーの恩恵を受けてより便利になっていくだろう。

宗教的、思想的にも大きく変わろうとしている。
2000年以上続いた古い宗教が形骸化し、その役割を終えようとしている。それに代わって現代に合わせてリニュアルされたスピリチャリズムが少しずつ人々に広がり始めている。この流れは決して変えられないだろう。
今から200~300年が経過し、24世紀頃になると教会や寺院は衰退して伝統を守る一部の人達だけが続けているような形態となっているだろう。そして多くの人々がスピリチャリズムの思想をごく自然に受け入れているような時代に変わっているに違いない。

現代は科学技術的にも思想的にもダイナミックに変化している。中世期頃までとは比較にならないほどの密度の濃い経験が積めるチャンスだ。今回の人生が終わる日まで思い残すことなく経験を積み、十分に学びたい。そしていつか天国に還る日には、純粋な心を持って還りたい。


いつの日かブログが再開する時には必ず皆さんにお知らせします。
今までの感想があったらぜひコメントお待ちしています。

独立への道

2006-10-05 13:04:28 | Weblog
H社にいた期間はわずか8ヶ月間だったが、この会社の立ち上げに参加したことが僕にとっては人生のターニングポイントとなる出来事だった。毎日が猛烈な忙しさだったが、次々に出てくる問題に対してどう対処すべきなのかを学んだ。そして様々な自営業やフリーの人達と関わったことで、自分の中に潜在的に眠っていた独立心が目覚めることになった。

H社は上田社長の後、Kさんが社長に就いた。Kさんは関連会社にいたときに同じ六本木のビルにいたので面識だけはあるが、その後彼がどのようにH社を経営していったのかはほとんど知らない。
加盟金やロイヤリティーも引き上げられ、開校の基準も厳しくなったと聞いた。人も体制もずいぶん変わっただろう。それでもこの会社の経営は厳しいはずだ。今年になって親会社は株式のほとんどを別の会社に売却したと新聞で読んだ。
やはりあのシステムではなかなか収益は上がらないのだろう。IT講習後は生徒数も激減しているはずだ。あれでもよく10年も持ったと思う。僕がいた頃に設立した100校以上の塾も今ではほとんど残っていない。

だがパソコンの素人にも関わらず、H社を設立した上田さんはさすがだと思う。彼の力で日本中に何百校ものパソコン塾が出来、そこで何十万人の人々がパソコンを学んだ。受講料も安く、主婦や年配者でも近所のパソコン塾で気軽に学ぶことができた。それまで苦手意識のあったパソコンに触れ、多くの人々がパソコンの楽しさ、学ぶことの楽しさを理解していったと思う。
チューター達もパソコンを教えることにやりがいを感じ、塾経営から様々な事を学んだと思う。
もちろん僕もその一人だ。

もちろん塾の全部がいい講師だったわけではないだろう。生徒も全員が満足したわけではないだろう。期待して教室を始めたものの、経営的にうまくいかなくて閉鎖になった塾も多かっただろう。

それでも大きな目で見れば、上田さんの日本のIT普及に果たした役割は大きい。一人の男の大胆な発想と挑戦が何万人もの人達に気軽にパソコンに触れる機会を与えた。H社の初代社長というだけで一万塾構想や上場はできなかったが、上田さんはIT普及に大きく貢献したことは間違いない。僕に同じことをやれといわれても絶対できない。

H社ではやり方がまずかったが、初心者でも気軽に学べるパソコン教室という基本コンセプトは間違ってはいないと思った。主婦も年配者もみんな初めてのパソコンを前に楽しそうに学んでいた。生徒の年配の男性から、こんな素晴らしいパソコン教室をどんどん作って欲しいと感謝の電話をもらったこともある。主婦や年配者でも気軽に学べるパソコン教室の需要は確実にある。人々が望んでいるシステムなら、やり方さえ変えれば必ず成功するはずだ。辞める前はずっとそんなことを考えていた。

だからといって辞めて具体的に何をするのか決まっていたわけではない。
H社にいたときに予備校をやっていたチューターがいて、その人がIBMのフランチャイズになろうか考えているので一緒にやらないかと誘われていた。とりあえずはその人と何かをしようということになっていただけだった。
資金も得意先も生徒も何もなかった。あの時決まっていたのはパソコン教育という仕事をするということと、自分にあったのは情熱だけだった。

1997年春、僕は自営業という全く未知の世界に足を踏み入れることになった。


退社と人生の選択

2006-10-04 13:40:07 | Weblog
部長に辞表を出すと、彼は僕が辞めてうれしそうだった。
僕の退社が決まり、システム部で昼食を兼ねた簡単な送別会をしてくれた。9年も勤めた割には簡素な送別会だったが、ここには4ヶ月しかいなかったし、大きな送別会をやってもらうよりむしろこの方が気楽で良かった。今までの部署に挨拶をすることもせず、ひっそりと辞めていくことにした。

辞める直前、本社で上田さんに会った。僕が辞めるのを聞いて驚いたよと言った。僕が「いろいろ勉強になりました、これからパソコン教育の仕事をやりたいと思います」というと「わかった、がんばれ!」と言ってくれた。

最初はシステム部ではなく、Nさんと同じIT系派遣部門に異動するはずだと聞いていた。それがなぜか直前にシステム部に変更になったのだが、もしIT系派遣部門に異動になっていたら、会社を辞めていなかったかもしれない。その部署なら僕も興味を持ってNさんと一緒に仕事をしていた可能性が高い。日々の業務に埋没されてパソコン教室を開こうという夢はいつの間にか消えていったかもしれない。

だがシステム部に異動になったことで会社に失望して退社が確定的となった。これが契機となって独立心が高まり、結果的には良い方向に向かうのだが、人生は微妙な選択が織り成していくようで面白いものだと思う。

この会社はベンチャー企業だけに変化が激しく、様々な支店や会社で仕事をした。通った場所だけでも「大宮、関内、渋谷、広尾、桜木町、六本木、初台、笹塚、大手町」と9箇所に及ぶ。平均1年に1回移っていることになる。僕にはこれくらいの変化があった方が刺激的で楽しい。

仕事を通して様々なことを学んだ。派遣の仕事では様々な企業を担当した。業界を問わず、大企業から中小企業に至るまで、いろんな会社を見ることができ、視野を広げるのに役に立った。
H社では会社の立ち上げに参加出来た。会社の立ち上げというのはどういうものなのかを実際に体験することができた。
そして生涯で最も好きな女性と出会えた。結果はうまくいかなかったけれど、自分自身が大きく成長できた。

20代中頃から30代始めにかけて、いろんな体験ができて良かったと思う。

1997年3月、9年間勤めた会社を辞めた。

本社での失望

2006-10-03 13:09:40 | Weblog
1996年11月、嫌々ながらも広尾にある本社のシステム部に行った。
システム部はそれまでの営業とは全く違う雰囲気だった。仕事柄裏方の地味な仕事だけに暗い社員が多かった。営業で使い物にならなくて左遷されたような先輩もいた。噂には聞いていたが、システム部長も変わっていた。僕を警戒しているのか、最初から僕とはほとんど会話はなかった。

当時、旧システムから新システムに移行する時期で、システム部には日立の技術者が大勢来て、一日中PCの前に座ってプログラムを組んでいた。
新システムの画面を見たらMS-DOSの時代と同じテキストベースで使いにくい。せっかくWindowsマシンを使っているのになぜGUIにしないのだろう。H社ではブラウザ上でマウスで操作出来る簡単なシステムだったのに、これでは何十億もかけて新システムに移行する意味がない。何百人もの社員が使うのだから最大限簡単でわかりやすいシステムにするのが当然だ。理由を聞いたら社員が慣れていないからとか言っている。
これくらいは本社の若い社員ならすぐに覚えるのに、全くピントがずれている。今からでも修正した方がいいと思ったが、僕が来たときには既に8割以上開発を終えていた。
それにシステム部だというのにメールシステムすらない。H社では当たり前だったから、不便でたまらなかった。将来社内にメールを導入する予定はないのか聞いたら、社員同士でメールで遊ぶようになるからやらないという。
全くシステム部の人間が何を時代遅れなことを言っているのかとあきれ果てた。
上田さんがシステム部の人間は考えが古いと言っていた理由がわかった。

僕は旧システムの大型コンピュータはわからないから、新システムの検証作業ばかりやっていた。単調な仕事の繰り返しでつまらない毎日だった。こんな仕事はバイトにでもやらせればいいのにと思った。

新システム移行中の試験では様々なトラブルが出てきた。プログラムを組むのが人間である以上ミスがあって当たり前である。部長は日立の責任者を呼んで一体どうしてくれるんだと怒鳴り散らしてばかりいた。全く怒鳴っている暇があったら、具体的にこれからどう処理するべきか打ち合わせして実行に移すべきだろう。いい年をして自分のやるべきことを全然わかっていない。

せっかくH社で優秀な人達と仕事をしていたのに、本社に戻ったらまたバカの集まりに逆戻りだ。想定の範囲内とはいえ、やはり本社には失望させられた。
最初の月からシステム部での単調な日々の繰り返しが嫌になった。やはりここでは自分は満足できない。

システム部で単調な仕事をしながら、自分が将来パソコン教室を開く構想に思いをはせた。エクセルでシュミレーションしながら、どんなカリキュラムでいくらでやろうか考える毎日だった。
どうしても自分でパソコン教育の仕事をやりたくてたまらなかった。だからといって今更H社には戻れない。H社に加盟しても自分のやりたいパソコン教室は作れない。世の中に自分の理想とするパソコン教育をやる会社もない。

短い期間だったがH社で上田さんの下で勉強してこの会社での最後の目的は達成した。生涯で最も好きだったTちゃんもいない。もうこの会社には何の未練もなかった。

これ以上貴重な時間を無駄に費やしたくはない。
こうなったらもう自分でやるしかない。
2ヶ月目には会社を辞める決意をした。

不本意な異動

2006-10-02 12:36:36 | Weblog
僕とNさんは個別に社長に呼ばれて異動命令を受けた。
最初はNさんが呼ばれた。Nさんは関連会社への異動で日々の重圧から解き放たれてほっとしたような感じだった。ずっと会社の方針の矛盾に苦しんでいたんだろうから無理もない。

次に僕が呼ばれた。社長からは「H社は赤字会社だし金がない。本社では新システムに移行中で人手が足りないし、システム部のメンバーは考えが古い。新しいシステムの構築に頑張ってほしい」と言われた。
僕は「将来H社に加盟してパソコン塾をやってみたいと考えています」と言うと、「その時が来たら君の出身地の栃木県全部を任せるから、それまではシステム部で頑張って欲しい」と言われた。

僕にとっては不本意な異動だった。会社が多額の赤字を抱えているのはわかっていた。だが自分なりに全力で働いてきたつもりだったから、まさか自分が異動になるとは思っていなかった。パソコン教育事業という仕事もメンバーも大好きだった。
まだまだ手助けしたい塾も沢山あった。自分の代でいくつかの閉鎖の塾を出してしまった。こんな状況でここを去るのは後ろ髪を引かれる思いだった。そしてもっと多くの塾を成功させたかった。
しかし尊敬する社長から直々にそう言われれば断ることはできなかった。

僕たちの代わりの補充はなく、Nさんの後任には部長、僕の後任には総務の女性が就くことになった。
僕とNさんの異動には副社長や部長も反対だった。設立当初からいる運営部と開設部の責任者を同時に異動させるのだから当然だろう。

社長がこの混乱の中、あえて他の役員の反対を押し切って僕たちを一気に異動させたのか、その真意はわからない。
H社は多額の赤字を抱えていたから、人件費削減が目的だったのは確かだ。だが僕たちマネージャー程度の給与では一般社員とそれほど変わらないわけだから、一般社員を2,3名異動させた方が業務への影響は小さくて済んだはずだ。

社長はそれから約1年後に自ら社長を退いた。もしかしたら上田さんはあの時既にH社に見切りをつけていたのではないだろうか。あれほど賢明な人があの時点で会社の将来が読めないはずがない。自分が社長である間に、本社にとって即戦力になる人材を戻したかったのだろうか。

だが僕はシステム部など行きたくはなかった。本来パソコン嫌いな自分がシステムを組むような裏方の仕事が向いているとも思えなかった。第一システム部では上田さんと仕事をすることもまずない。上田さんの下でなければこの会社にいる意味もない。

システム部に異動が決まった時から、もう僕のこの会社での仕事は長くはないような予感がした。