MY LIFE,MY SPIRIT by Masato

今までの人生で感じたこと、自分の考え方を率直に語ります

形骸化する仏教

2006-10-16 18:31:22 | Weblog
10年ほど前、川崎に住んでいた僕の叔母が亡くなったときのこと。
お坊さんが自宅に来てくれて一緒に昼食をとる機会があった。40代位の恰幅の良い話好きなお坊さんでいろんな話をしてくれた。
彼が言うにはかなり厳しいお寺で若い時期に修行をしてきたらしい。当時は厳しい修行でガリガリに痩せていたが、今は檀家で食事をよばれてでっぷり太ってしまったと言っていた。
また彼の実家がお寺だったわけではなく、どうしてもお坊さんになりたくてこの道に進んだという。結局跡継ぎのいないお寺の娘さんの婿養子になる形で今の仕事をしていると言っていた。彼なりに好きでこの道に入り、やりがいを持ってやっているのはいいことだと思う。

しかしその時仏教についていろんなうんちくを語ってくれたのだが、その話を聞いてがっかりした。
例えばお箸を持つときは決して箸の先を相手に向けてはいけない、箸の先で相手を傷つけるという意味になるからだと言う。
一体どこの世界に箸の先で相手を傷つけようとする人間がいるのだろうか。修行したお寺でそう教わったのだろうが、そんな形式的なことよりももっと重要なことがあるだろう。その他いろんな話をしてくれたが、やはり形式的な話ばかりだった。
その有名なお寺でどれほど厳しい修行をしてきたのかは知らないが、このお坊さんは仏教の本質をまるでわかっていない。悪い人ではないと思うが、これでは僧侶としての資格はないと思う。だがこのお坊さんだけでなく、日本中のお坊さんが本質と形式を取り違えているはずだ。

日本の仏教はまずお経が形骸化している。インドで生まれた仏教がチベットを経て中国に渡る際に、サンスクリット語から中国語に訳されたのがお経だ。だが中国から日本に渡る際に、なぜ日本語に訳されないのだろうか。聖書が世界各国でその国の言葉に訳されているのに、なぜお経は日本で漢語のままなのだろうか。
あのお経を読んですぐに意味のわかる日本人が一体どれだけいるのか。お経を学ぶためになぜわざわざ漢語を勉強しなければならないのか。最初からわかりやすい日本語で書いてあればそんな労力は必要ない。わかりやすければ多くの人々に仏教の思想を理解してもらえるはずだ。どうしてお経の日本語化が行われないのか不思議である。

葬儀ではちんぷんかんぷんの呪文のようなお経を延々と何十分も正座しながら聞かされる。こっちは足がしびれて早く終わらないかとばかり考えている。
これが誰にもわかる日本語で読んでもらえれば、その話を聞きながら救われる遺族も多いだろう。或いは形式的なお経は数分程度で切り上げ、その後遺族に向かって仏教の教えをわかりやすく語ってもいいだろう。

「悲しんでいらっしゃる遺族の皆さん、亡くなったからといって故人がいなくなるわけではありません。人は誰でもいつかは死んで肉体は滅びます。しかし人間は永遠の生命を持っています。魂の存在になって天国に還ります。みなさんもいつか故人と会える日がきっとくるでしょう」

こう語ってあげればどれほど遺族の悲しみが癒されるだろうか。だがそんなことをしている僧侶は少ないだろう。

それどころか戒名にランクをつけて売るなど、全く聖職者にあるまじき行為だと思う。値段の高い戒名をつけたところで故人が救われるわけでも天国に行けるわけでもない。僕は死んでも戒名などいらない。亡くなった後どの世界に還るかは生前のその人の想いと行いによってすべて決まる。これでは葬式仏教と言われても仕方ないだろう。日本の仏教の形骸化には目を覆うばかりだ。


日本には仏教系宗教団体が沢山あるが、どの団体もそれぞれなんとか教の教えが最高だとか、これのみが真理だとか主張して他を一切認めない。キリスト教をはじめとする他宗を非難するのはもちろん、同じ仏教系宗教団体同士でも非難し合っているような有様だ。近親憎悪なのだろうが、考え方が偏狭で、柔軟性と寛容性がまるでない。愚かな人達だなと思う。
全く仏陀の説いた寛容の教えは一体どこに行ったのだろうか。他宗の教えでもそれが良いものであれば柔軟に受け入れればいいと思う。

ビジネスにおいては他社がやっているよいことはどんどん真似をして当然だ。そうした競争が結果として消費者に利益をもたらす。だめな会社はつぶれて淘汰されていく。宗教においてはそうした健全な競争や淘汰の原理が働かないのが問題だ。それどこか時間が経てば経つほど儀式ばかりを重視するようになって形骸化が進んでいく。これでは宗教離れが進むのは当然だろう。

その昔インドで釈迦の説いた偉大な教えもさすがに2500年の歳月が経つと形骸化は免れない。現代の仏教は完全に末法の時代に入り、その役割を終えつつあるのだろう。

宗教とは形ではない。箸の向きでも袈裟を着ることでもお経を棒読みすることでもない。ましてや戒名でお金を取ることでも他宗を非難することでもない。

宗教とは人間の心を科学し、探求する学問である。そして人々に正しい生き方を教え、人々の心を救うのが宗教の役割だと思う。


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