経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  石橋湛山(一部付加)

2020-06-03 15:32:51 | Weblog
 経済人列伝   石橋湛山(一部付加)

 石橋湛山の名を知っておられる人は60歳以上の人だけでしょう。彼は昭和31年(1956)に首相になりました。わずか2ヶ月後に辞任します。病気が原因ですが、その潔さは当時の評判でした。私が彼に関して知っていた事はそのくらいでした。最近、なぜ戦後日本から大量の餓死者を出さなかったのかと、考え、また石橋湛山が当時の蔵相である事を知った時、この人物の財政政策に興味が出てきました。
 終戦直後、日本の経済は崩壊します。あるいはそう見えました。この時の財政政策の基本は復興金融金庫(通称フッキン)と傾斜生産方式です。この政策のおかげで戦後猛烈なインフレになります。ところでもしインフレにならなかった(あるいは、しなかったら)どうなっていたでしょうか?私は日本の経済は崩壊し、予想通り1000万人の餓死者がでたのではないかと、思います。インフレになる(する)、と、企業は物を作ります。ともかく作れば売れる、儲かる、となると、物はどんどん作られるでしょう。企業は生き残るために、そこいらじゅうをさがして資源をかき集めて、生産します。眠っていた生産力を復活させます。前大戦でどのくらい日本の工業力が破壊されたかは、人により評価は違います。だからかなりの生産力が遊休状態にあったのかも知れません。復活金融公庫から債権を出させそれを日銀引き受けにして通貨量を増大させて、生産を賦活する方法をとった財政家が石橋湛山です。
 石橋湛山(幼名省三)は明治17年(1884年)、東京に生まれます。父親は後に日蓮宗身延山久遠寺81代法主になった杉田湛誓です。湛山は当時の仏家の習慣に従い、母方の石橋姓を名乗ります。やがて同じ日蓮宗の住職望月日謙の元に預けられ、修業させられます。
 早稲田大学に入学、文学部で哲学を専攻します。彼は大学でクラ-ク博士(札幌農大)の教えやプラグマティズムに興味を持ちます。島田抱月の主宰する早稲田文学にも投稿しています。こういう影響で彼はリベラリストでした。リベラリズムの定義は難しいのですが、ここでは省きます。彼の方向は政治と文学の統合にあったと、言いますから、遠大な抱負を抱いたものです。この間兵営に入隊します。社会主義者と間違われていたらしく、上官からたいそう丁寧な取り扱いを受けたというエピソ-ドがあります。
 1911年27歳、東洋経済新報社に入社、言論人としてのスタ-トを切ります。新報社は「東洋時論」という雑誌を発行しており、湛山はその編集に従事します。当時でだいたい3000-5000部売れていたようです。以後1945年の終戦まで、彼はこの会社に勤めています。1925年、41歳主幹・代表取締役、つまり最高責任者になります。鎌倉町会議員になり、経済倶楽部を作り経済学的思考の普及に努めます。東洋経済新報社は現在も、多くの経済学書を出しており、この分野の出版では一方の雄です。新報社からは、後に高橋亀吉、小浜利得など在野のエコノミストが出ています。私もこの出版社の本は100冊以上読みました。経済に関心を示す者にとって、ここの本は避けられません。そういう会社です。
 前後して湛山は経済学を独学し始めます。セリグマンやミルの本から入ったそうです。以下湛山の言論人としての主張を列記してみましょう。彼の意見は明白で書いたものが残っているので整理し理解しやすいのです。
移民不要論、植民地不要論。当時日本は貧乏国だから移民政策がとられていました。湛山はこれに反対します。論旨は生産力を育て、貿易を活発にすれば、財貨は増え、国は豊かになる、です。貿易して相互に豊になれば植民地は要らないと彼は言います。
ソ連の革命への肯定。リベラリストとしては当然かも知れません。多くの知識人、特に自由主義者はこの革命にロマンを抱き、またソ連の国家管理経済は不況に悩む国からはある種の憧れをもって見られていました。
ドイツ戦後処理への反対論。周知のように第一次大戦後の連合国によるドイツへの賠償請求は過酷でした。湛山は反対します。この点ケインズも同様でした。
護憲運動。
普選運動。財産による差別のない普通選挙実施を要求します。湛山はこの運動の急先鋒でした。普選運動が始まった当時、日本の人口の3%が投票権を持っていました。
軍備撤廃論。
日英同盟の破棄提唱と日米協調。
新平価解禁論。井上蔵相が旧平価(1弗2円)で金解禁をしたのに対して、実際のレイトである、100円=約40ドル、のレイトで解禁しようという事です。日本とイギリスは旧平価でフランス・イタリアは新平価で金を解禁しています。結果は既に述べたとおりです。
満州国建国反対。植民地不要論から出てくる当然の結論です。かれは広大な中国に先進国の資産と企業力(技術と考えてもいいでしょう)を導入して、中国を開発し、共に豊になろう、と主張します。この主張は現在実現されつつあると言えましょう。
大東亜共栄圏批判。ともかく封鎖的経済圏はいけないと言います。
日独伊三国同盟反対。湛山の基本的志向は日米協調です。当時の軍部はソ連を目して、同盟を結んだのこうなったのでしょうが、つまらない同盟を結んだものです。
小日本主義。大日本主義に対してこういいます。日本は領土を広げる必要はない、満州などに綿々とせず、古来からの国土の中で、産業を振興して貿易を増大させれば、結局それの方が、得だ、という事です。現在そうなっています。
大戦中湛山は軍部や東条首相から目をつけられていました。会社を田舎に疎開させ細々と経営するうちに終戦を迎えます。敗戦に際して、湛山は「前途洋洋」と言いました。この予言も当たっています。
 昭和21年(1946)衆議院選挙に立候補し落選します。総選挙直後第一次吉田内閣ができます。5月、吉田茂に乞われて、蔵相に就任します。言論人から蔵相になったのも嚆矢ですが、湛山はその時議席をもっていませんでした。蔵相としての湛山の方針は、戦後補償打ち切り、復活金融金庫による債権発行、傾斜生産方式、終戦処理費でした。戦後補償打ち切りとは、戦争に協力した企業が爆撃等で蒙った被害を政府が補償する事です。これを打ち切る事はGHQの意向でもありました。企業や財閥への援助を湛山は打ち切ります。これは彼の、積極経済と経済的自由主義に基づくものです。経済活動はなるべく自由にさせておいた方がいい、政府の援助は有害という発想です。終戦処理は、米軍による勝手な日本の予算消費をやめさせる事です。占領軍の威光を着て、末端の米軍将校までが勝手な建築などに予算を使っていました。日本の国費を用いて、駐留米軍の世話までする必要はないとして、湛山はこの方面の予算を大幅に削ります。これで彼は米軍・GHQににらまれました。当時この終戦処理費は全予算の36%に及びました。米軍としては賠償金のつもりだったのでしょう。極端な一例を挙げます。駐留軍用の野菜を栽培するプ-ル建設が行われていました。日本の野菜は糞尿を肥料とするので汚くて食べられない、とかの理由です。当時の日本人1人の一日分配給米の量は300g弱、一食は軽く茶碗にもって一杯でした。
 傾斜生産方式は、予算(外貨の場合はドル)を重点産業に特に篤く配分する事です。重点産業は石炭と鉄でした。石炭を増産し、列車を動かし、また石炭で鉄を作り、鉄で石炭採掘用の機械を作る、という按配です。最も基礎的な産業に徹底的に投資する、という作戦です。復活金融金庫を通じて債権(復金債)を発券し、それを日銀引き受けにする、言ってみれば新規の貨幣増刷です。
 湛山は、財閥にも米軍にも予算の浪費をやめてもらい、少ない予算と資源を徹底的に基礎産業に投資する。そして復金債でもって企業活動がやりやすいように、経済をインフレ気味にもって行きました。どう放っておいてもインフレは必至です。そうならインフレの波にのって増産すれば良い、とまで考えたのかも知れません。ただこの方向で経済を運営すれば、産業の活動力は最大限引き出せます。そしてインフレは資産移転を伴います。得をするのは、企業と労働者です。産業の基幹部分を優遇しようと考えたのかも知れません。
 GHQの方針はインフレを抑える事に重点が置かれていました。ここでGHQと湛山の方針は対立します。湛山と吉田茂の仲もおかしくなり始めていました。昭和22年(1947)5月湛山はGHQにより公職追放の処分を受け、大臣と議員の職を同時に失います。湛山は戦前の言動に自信をもっていたので、寝耳に水でした。以後の湛山の政治活動で興味を引くのは、吉田政権後できた鳩山政権の後継のイスを巡り、石橋石井の2・3位連合を組み、岸信介に逆転勝利して、首相に就任した事です。しかしこの政権は彼を襲った病魔のために、2ヶ月で終わりになります。
 経済あるいは財政の運営は、拡大か引き締めかのどちらかです。要は状況判断しだいで、どちらが正しい・間違っているというような問題ではありません。戦後1000万人餓死説が出た頃、インフレの波に乗って経済を拡大し、生産力の基礎を造った湛山の財政があったからこそ、我々は生き残り、また以後の経済政策も可能であったのではないのかと、考えています。湛山の思考がすべて首尾一貫しているとは言えませんが、日米独三国の経済提携、ヤルタ・カイロ・ポツダム宣言破棄、ドッジライン廃止、などなど常識に捉われない大胆な発想が興味を引きます。湛山の経済政策は、経済重視、生産第一主義、交易による相互繁栄、従って軍備不要、そしてなによりも楽天主義に特徴があります。1973年(昭和48年)死去 享年88歳

  参考文献
   石橋湛山    中央公論
   昭和経済史   日経文庫

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  日本史短評 大田南畝

2020-06-03 10:35:08 | Weblog

    日本史短評 大田南畝

ともかく文名、異名の多い人です。1749年江戸に御徒(下級幕臣)の子として生れ、幼名を直次郎と言います。歴史に残る名前「南畝」は本名なのか文号なのか解りません。ともかく狂詩、狂歌、狂文を創始し開発した人ですから文号は多彩です。ここでは「南畝」と、狂歌の作者名「四方赤良(よものあから)」、狂歌を辞めた後大阪に出張し詩文を請われた時名乗った「蜀山人」の三つを挙げておきます。
 15歳内山賀邸に入門します。超優秀でした。神童と言ってもいいでしょう。この塾で、内藤新宿で煙草屋を営みかたわら文学にいそしむ平秩東作と知り合います。東作とは親子ほど年齢差がありましたが、東作は南畝にほれ込み、詩文の友を紹介します。特に荻生徂徠流の影響が強かったようです。
 19歳、狂詩集「寝惚(ねぼけ)先生文集」を出版します。この「寝惚先生」も南畝の筆名の一つです。この作品の筆名には他にふざけた名前もあります。狂詩から狂歌に進みます。唐衣橘州などと狂歌の会を作ります。南畝はすでに「寝ぼけ先生」で有名でした。ここで住所の関係もあり、町人仲間の詩人俳人と交際を持ちます。南畝の人気が高かったのも、武士と町人の平等な交際からくる作風ゆえでした。一般にこの時代の文学芸術は武士と町人の間の活発な交流ゆえに人気が高かったのです。こうして狂歌はブ-ムになります。
狂歌は鎌倉時代初期ころからありました。狂歌・川柳では、和歌・連歌・俳句などの作成に必須とされていた季語を省きます。和歌連歌俳句は基本的に、詠みあい、掛けあいの文学です。詠みあい・掛け合いは言葉の交流であり、言葉の交流は言語に伴う必然的属性ゆえにそこにはエロスの感情が胚胎します。だから「季語」でもってこの感情を抑えたのです。狂歌・川柳では詠みあいは薄れます。ですから作品は季語から解放されます。こうして狂歌・川柳にはエロスに代わり「洒落・滑稽」の精神が生まれます。狂歌、狂詩、狂文など「狂」と名がつく作品に共通の傾向は、「洒落、冗談、ふざけ、滑稽」です。これが田沼時代の風潮の典型です。南畝の作品を一つ挙げておきましょう。
 とびつかれ手を取り合いの三味線は、こまを早めて犬の遠吠え
   27歳、黄表紙、洒落本などの戯作に進出し、「甲駅新話」、「評判茶臼芸」「世説新語茶」、「鯛の味噌津」、「深川新語」などの作品を出します。すべての作品において筆名は異なります。「世説新語」では深川、山下、音羽、谷中などの二流三流の娼婦を扱っています。「深川新語」も同様です。また歌舞伎役者の多くは狂歌を作りました。このような身分に囚われない作風が、南畝の人気のゆえんでもあります。南畝は戯作興隆の推進力になります。
南畝38歳、「狂歌新玉集」と黄表紙「手練いつわりなし」を出版しますが、この年をもって南畝は狂歌・戯作の世界から手を引き、実直な幕府役人の生涯を歩み始めます。理由は田沼意次の失脚により、田沼政権の官僚であった土山宗次郎と南畝などが交流していたからです。南畝は代わった松平定信政権の監視警戒を恐れました。時代は前後しますが、筆禍事件で処罰された文人はかなりいます。山東京伝、式亭三馬、為永春水、恋川春町、柳亭種彦などです。寛政の改革で、武士が歌舞伎を見る事は禁止されました。
南畝は44歳幕府の試験を受け落第します。理由はワイロを使わなかったからだと言われます。南畝は漢詩文の世界でも有名で優秀でした。昇進はその才能に比すれば、遅遅たるものでした。51歳大阪の銅座に出役として出向します。仕事は重要で繁忙でしたが持ち前の文才で手際よくこなします。あまりにも潔癖すぎる(ワイロは一切受け付けない)と言われています。大阪では南畝の文名を慕った人たちから書の揮毫を頼まれます。狂歌を印象されないように、この時「蜀山人」に筆名を用います。住吉で友人と出会う約束をした時、茶店の柱に
住吉のまつべきものを浦波の、立ちかえりしぞしづ心なき
と書き止めたのを、ある富豪が聴き知り、柱を買い取ろうとしたところ、茶店の主人はそれを断り、柱に布を巻き有料で見せたといわれます。
次に大阪へ出向いた時、上田秋成と会合しお互い満足しあっております。南畝と秋成では作風も人柄も異なりますが、息はあいました。長崎への出張も命じられています。ちょうどロシア使節レザノフが国交を求めて長崎へきた時でした。大阪や長崎に行かされたという事は南畝の才能がそれなりに認められていたからでしょう。また南畝は定信が老中を辞めてからしばらくしてまた適当に狂歌を作り始めています。
玉川巡視を終えて幕府からご褒美を頂いた時の歌が
 衣食住もち酒醤油炭たき木、なに不足なき年の暮れかな
  です。次の歌は75歳の時歌った歌、辞世でしょう。
    生きすぎて七十五年喰いつぶす、かぎり知られぬ天地の恩
 蘭学者や太田南畝の生涯を見ていると荻生徂徠(その先人伊藤仁斎も含む)の影響が強いようです。そして寛政異学の禁で標的にされたのは徂徠学派です。理由は三つあります。まず徂徠は朱子学を憫笑しています。次に徂徠の学問には封建制度否定の契機が多く含まれています。この事に関しては後述します。三つめは、徂徠は闊達な人で文学遊芸を愛し、その門下からは多くの詩人歌人が出ていることです。本居宣長などはその一例です。彼は京都遊学中徂徠学に触れてその影響を蒙り、和歌を愛し、源氏物語に強い関心を抱き、遊学中は試作歌作そして恋愛に興じています。徂徠の学風は定信から見れば危険であったのでしょう。

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