白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(44) 代役・休演の話

2016-04-14 08:58:25 | 思い出


長くこの仕事をやっていると病気休演、その代役の話や公演そのものがなくなったことが多々ある。
思い出すまま書き綴ってみよう


昭和58年 梅コマ「魔術と私」


ブローウエイでヒットしてたダグ・ヘニングのマジックショウの日本版

コメディアン役で起用した茶川一郎 こわもての男に無理やり髭を剃られる気の弱い男役
淀川近くの倉庫を借りて一か月間マジックの稽古を重ね 舞台稽古もちかくなった頃 
弟子より電話が入った。
「先生が女を刺して逮捕された」と・・・急遽原哲男を代役に立て初日をあけたが
髭剃り中に消えてしまうネタはうまくいったが(契約上タネはあかせない)・・・
代役が一日の稽古で出来るマジックなど見る人なぞはいない。 
 実際 大赤字公演となった。


昭和62年明治座 美空ひばり「お夏清十郎」

東宝作品であるにも関わらず私をスタッフに推薦して貰って張り切って明治座に乗り込んだ。 
制作は明治座は川口厚(松太郎さんの息子さん)、東宝は黒田耕治であった。
さて4月22日顔合わせが済み立稽古はご本人抜きで始まった。
だれも知らなかったがその間ひばりさんは九州済生会病院に行っていた。、
そこでドクターストップがかかり公演は中止となった。
我々も連日東宝重役室に日参して代案の検討にはいったが森繁山田の狐狸狐狸でもOKが出ない。
川口厚ちゃんはこまりに困って友人の三浦友和に頼み込んで山口百恵を引っ張りだそうとした。
が、決まる前に杉良太郎が意気に感じて御園座から駆けつけることになった。
よくわからないが明治座制作のゴタゴタに巻き込まれた感がする。
このあと制作は立役者のH常務が牛耳ることになる。
我々はギャラを半額だけ貰った 
すでに買っていた明治座~新宿の一か月の定期代も払ってくれた。


平成7年 関電ミュージカル「宝島」

ミュージカルを得意とする松竹芸能が関電から請負い制作した作品 山田雅人主演
私が演出 後宝塚初の女性演出家となる植田景子の脚本
原発の近所の子供たちだけ相手の作品で結局、阪神大震災で中止となった。
ちなみにこのときもギャラは半額もらった。

最近知ったがこの公演は現在もおこなっているらしい。



平成9年 中座正月公演「聖まり子 愛・情・心・女を謳う」



成り立ちがさっぱりわからない公演で前年の年末公演の成功で気をよくした松竹が再び取り上げた作品、
貸館料の補償金として一億円預けときます、と言われ「うちの金庫には入りません」と断った支配人U、
こちらは稽古中の御車代とご祝儀で軽く一か月分のギャラを越えた額を貰っていたから中止になっても痛くもない。
中日の祝儀がえらい分厚いなと思ったら旧札ばかりだったのでおかしいなと思った矢先、
聖まり子の旦那が脱税指南か何かで逮捕された。そのすぐあと公演は中止となった

構成・演出の中原薫が他人の大枚な金をつかって売れない歌手を座長にでっち上げるという壮大な実験を企てた それがもう少しで成功するはずだった
いわゆる文化人と称する人々(野坂昭如 藤本義一)のあわてふためきぶりが面白かった。
特に野坂は文春の連載コラムで聖を称えまくった。
この公演は松竹では記録上なかったことになっている


平成13年名鉄ホール「忠治?といわれた男」「花火の大輪」
白鷺だより(13)参照


平成15年 名鉄ホール「とんてんかん とんちんかん」

芦屋雁之助の2年半ぶりの復帰作、
京都を舞台にした幕末もので演出は私に全部まかせてくれて役者一本で取り組んだ作品、
ところが楽日3日前に高血圧性心不全で倒れ 大阪に帰っていた私に連絡が入った.
 急遽これも病気で休んでいた花紀京さんに代役をお願いして、打ち合わせをしながら一緒に名古屋に行くことになった。
ところがその電車に大村崑さんが乗ってこられ「これから雁ちゃんの応援にいくねん、頑張っているときいたもので」という。
「それでどうやねん」と聞かれ返事に困った。代役は崑さんでも良かったのである。
ほんまの話をしたら崑さんは怒るだろう「なんでわしに相談してくれなかったんや」と。
こちらも雁さんと崑ちゃんの二人の仲を気にして連絡しなかったのだ。
聞いていないがその日舞台を見た崑さんの気持ちはいかほどであったろう・・・
それでも楽日に花紀さんから「代役できて良かった、うれしかった」と言って貰えてよかったと思っている。

実際この後すぐ自宅で入浴中「低酸素脳症」で倒れ事実上脳死状態が続いた。
そして平成27年8月肺炎により死去 享年78歳



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