白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(1)梅田地下鉄火事で思い出した

2016-03-26 17:34:28 | 思い出
梅田地下鉄火事
 また一つ思い出の場所が消えた。
2012年2月22日午前9時ころ地下鉄梅田駅は白煙に包まれ地下鉄は停車中止になった。
燃えたのは地下鉄掃除の道具入れであった。


私は昭和46年から半年ほどこの仕事をやっていた。
関学全学バリケードの末期いよいよ官憲を導入して44年6月封鎖解除(逮捕歴のある私はバリケードに残らず初犯の人間だけが残って逮捕された)となり、今までバリケード住まいの身の上とはいえ一応置いてあった東三国の三帖半(家賃3500円)のアパートを家賃未納で追い出され大学の方は一応休学ということにして、京都の彼女の下宿に転がり込んだ。北区紫野大徳寺にあった下宿は女子専門の下宿であり家主には内緒の生活であったが たまたま近所の下宿が火事となって荷物を運び出すことになり家主にばれた。その活躍ぶりで やはり男性がいた方がいいと言ってもらったが結局宝ヶ池の近所の下宿に替わることになった。この下宿から北大路通りにあった中華料理屋に夕方から深夜までアルバイト、昼間は彼女のレポート書き(その大学もバリケードストになりレポート提出だけで進級、単位取得ができた)、や古本屋をめぐって資料を集め、大学図書館に入りびたっての卒論書きに追われた。これが好評で彼女と同じ下宿の女子大生らにも頼まれていくつもの卒論を書いていた。昭和47年の小説現代新人賞を受け、直木賞候補にもなった有明夏夫の「FL無宿のテーマ」には卒論代筆業の男が出てくるが私ではない。

45年3月彼女は無事卒業、大阪淀屋橋のミズノ本店に就職が決まり 二人して東大阪の瓢箪山と言うところの文化住宅に引っ越した。近所にちょうど出来たばかりのダイエーがあり、そこの精肉部でアルバイトをしながらヒモ生活、そこから吹田の文化住宅に引っ越したが彼女は一年でミズノを辞めてしまって田舎の上野に帰ってしまった。
住む場所を心配してくれた仲間が探してきてくれた仕事が地下鉄掃除であった。
安いバイト料であったが寝るところはあるし(ただし吹田の文化は彼女が前払いしてくれていて半年はいけた)と拾った金品(面白い程落ちていた、万博の頃はこんなものじゃなかったと聞いた)はそのまま頂けるとあって相当の収入になった。昼間はボチボチ行き始めたゼミに顔を出し、最終電車までにホームに入り一応ゴミ掃除(いまでは考えられないがタバコのゴミの量は大変なものであった)、終電が過ぎたらホームの水洗い(ホースで線路に落とす)、あと線路に降りてゴミ掃除、ごみ箱から集めた新聞紙、週刊誌の整理が済んだら始発まで休憩所で仮眠、今回燃えたのはその仮眠所である。集めた新聞紙が従業員のタバコの火で燃えたのである。現代ともう代が変わっているかもしれぬが、人のいいおじさんとおばさんが責任者として普段は昼間の掃除はしていた。月に一回やってくる交通局の役人には異常にペコペコしてたまには金を渡していた。その代わり集めた新聞や週刊誌の処分は目を瞑ってもらっていた。部屋に集めた新聞紙、週刊誌は我々がまとめて置いておき、日に何回も業者が回収に来ていた。その売上げは丸儲けというわけである。週刊誌は綺麗なものはもしかして売店に引き取らせてまた売りに出していたのかも知れない。

というわけで仕事が済むと先住者が置いて行ったラジオを聞きながらか片づけながらあらゆる種類の週刊誌や新聞を読むことが出来た。
成田闘争、沖縄返還 マクドナルドが出来た 江夏の九連続三振・・・今回火を出した人のようにタバコは牛乳瓶に入れて火を消しながら(タバコは人の吸いさしを我慢すればいくらでもあった、それ専門のパイプを用意していた)

もしかしたらあのころが人生で一番勉強が出来た時期かもしれぬ。


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