白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(87) 嵐徳三郎のこと

2016-06-10 07:19:07 | 人物
            嵐徳三郎のこと

蜷川の追悼番組で今年の一月コクーンでやった「元禄港歌」を見た 
深夜12:50スタートだが頑張って起きて見た
今回のメンバーは猿之助(糸栄)、宮沢りえ(初音)、鈴木杏(歌春) 段田安則(信助) 
高橋一生(万次郎) 新橋耐子(お浜) 市川猿也(平兵衛)

猿之助の糸栄がなかなか良かった 
しかし この役は初演の嵐徳三郎が良かった 
ちなみに初演のキャストは役順に 徳三郎 大地喜和子 市原悦子 平幹 菅野菜保之 山岡久乃 金田龍之介だ

そのころ歌舞伎の世界で大きな舞台にも成果を上げているにも関わらず 
徳三郎にはずっと「歌舞伎界の孤児」というレッテルが貼られていた 
私がいた梅コマにも何本か特に歌舞伎物のお芝居に出てもらった 
(昭和51年「花の吉原百人斬り」昭和52年「西鶴一代女」など) 
平行して渋谷ジャンジャンや梅田オレンジルームなどで実験歌舞伎公演に出ていたが
思うような芝居に出会わないのでイライラしていたのも事実である
コマでの公演中 オレンジルームの公演はよく招待してもらった

大阪、日本橋の近くにあった谷口歯科が彼の終生のタニマチだった 
この院長は関西俳優協議会の応援もやってくれていて その一室を協議会用に開放してくれていた 
遊びに行くと中座の芝居の合間であろうか 隅っこで徳三郎が御贔屓筋へ案内状を書

 彼と同じ頃日大芸術学部にいてた後のチャンバラトリオの山根さんの思い出話によると
同じ芸術学部の歌舞伎研究会の砂塚秀夫から とある有名歌舞伎役者の息子の家庭教師のバイトが回ってきた 
行ってみるとその役者にしこたま酒を飲まされお尻を犯されたという
このエピソードでも判るように学士俳優なるものは 如何に綺麗ごとを並べようが 幹部俳優への若い男の供給先であった
彼は日大芸術学部での同級生だった赤江爆の小説「獣林寺妖変」の努のモデルであろうが 
学士俳優「大谷ひとえ」の苦労は他人には言い尽くせないほど辛いものであったろう 



徳三郎は昭和54年2月に蜷川の「近松心中物語」を観て「これぞやりたい芝居だ」と直接手紙を送る
 その結果 翌年2月日生の「NINAGAWAマクベス」の魔女1役に抜擢 好評を得る
「歌舞伎の人間は割と魔界の役をやるのに抵抗はありませんが 
新劇の人は魔女とは何かということをコンコンと説明を求めるのです 
改めて歌舞伎の奥深さを教えられました」 
続いて帝劇で「元禄港歌」に出演 
「ただ一人の女形であるにもかかわらず いや女形であればこそ生身の女である以上に 母のあわれを映し出した」
とこれまた好評 

王女メディアの代役に決まったエピソードが面白い 制作の中根さんの文章を紹介する

「王女メディア」のロンドン公演を目前にして平幹二朗さんが出演を取りやめたとき
僕は高松にいた徳さんに電話を入れて代役を口説いた その時も徳さんは泣きべそをかき
やれ「昔のように声がもう出まへん」とか「もう五年早く言ってくれれば」(*)とか
「ロンドンなんてそんなところで自信は・・・」などとグズグズ言ってなかなかOKしなかった
僕は条理を尽くし情に訴え懇願し口説きに口説いたがウンと言わない 
押し問答は20分も続いたろうか ついに苛立って僕は叫んだ 「分かったよ 徳さん やりたくないのよね!」
一瞬の沈黙の後 ガラリと変わった明るい声がした「そらまあ ほんまいうたらシメタ思いますわ」
僕は椅子からズッコケて落ち「王女メディアは嵐徳三郎主演とロンドンに通知するから」と一方的に電話を切った

それは1987年のことだったが亡くなる直前の98年まで徳さんは世界中でメディアを演じ続けた

(*)これは本音だろう 昭和57年彼は芦屋ルナホールで「王女メディア」の一人舞台を上演した(50歳)



赤江瀑(2012年死亡時に書いた僕の追悼文)

 赤江瀑が死んだ 6月8日のことである。発見されたのは翌日であった。79歳。
生まれ故郷の下関でその道の人が多くはそうであるように一人(?)で死んだ・・
彼の「獣林寺妖変」を読んだ時まさかその魔の世界へ自分も落ち込むとは知らず、
またその登場人物とも一緒に仕事をするとは思わなかった。
学士役者の大谷ひとえ,が入り込んだ魔界は今もある。
赤江が小説の世界に迷い込んだのも松竹の懸賞台本が最終選考に残ったことが自信になったからである。
その台本は「金環食の影飾り」という作品のモチーフにされ主人公が書いた作品として同作品の巻末で読むことが出来る。
「大内殿闇路」という歌舞伎台本である。


嵐徳三郎(1933~2000)

上方歌舞伎役者 屋号葉村屋 香川県生まれ 本名 横田一郎
日大芸術学部在学中 学士俳優第一号の一人として 大谷ひとえの名で初舞台(中座)
この頃上方歌舞伎は凋落の一途をたどっていたが その中にあって有望な若手俳優として力をつけ
昭和46年 七代目嵐徳三郎を襲名するが 
学士俳優ということで梨園の中には舞台を共にすることも断り続ける幹部俳優もいた 
その中で逆に様々な挑戦もすることが出来(蜷川作品など) 芸域を広げていった 
昭和62年平幹二郎の代役で出演した「王女メディア」は国内はもちろん海外でも高評価された 
平成12年公演中病気で入院 そこで病気を苦にして自殺という報道がなされて大騒ぎとなった

なお昭和41年10月新歌舞伎座で当時売り出し中の舟木一夫公演が行われた
白塗りに抵抗感があった舟木の顔を作ったのは仕出しの女形 大谷ひと江だった

参考資料

学士俳優について

1956年 松竹が学生歌舞伎から俳優を採用した 関西歌舞伎へ入る
屋号は若竹屋

日大卒 1   大谷 正弥(1956-1963)
        坂東竹之助(1963~1966)
    2   大谷 ひと江(1956~1971)
        嵐徳三郎(1971~2000)
    3   大谷 山三郎(1956~1970)
        中村芦鴈(1970~1977)
        市川箱登羅(1977~2010)
   4    大谷 田文次(1956~1963)
        箕川延禄(1963~1969)
   5    大谷 妹尾(1956~1972)
        中村喜鴈 (1972~1973)
早大卒 大谷 橋十郎
学習院大 三堀俊治(渡米のため 辞退)

橋十郎は「学士俳優脱退第一号」として騒がれる
原因は同期の大谷妹尾と共に 松竹家庭劇への移籍を命じられたため
その後TVスターとして名前を秋葉浩介として活躍する(琴姫七変化、噂の錦四郎など)が
 松竹サイドから芸能界に戻らない約束だったとクレームが入り干される


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