白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(214)「ウィ・ムッシュ」かまやつひろし

2017-03-03 12:00:58 | 人物
「ウィ・ムッシュ」 かまやつ ひろし

 3月1日ムッシュかまやつことかまやつひろし(釜萢弘)が膵癌で亡くなった 78歳だった 
昨年肝臓がんを公表 いとこである森山良子の家に身を寄せ通院しながら治療を受けていた
彼をさす「ムッシュ」は会話の相槌にかならず「ウイ・ムッシュ」というのが名付け理由だ 
彼が日本のポップス界に多大な影響を与えて来たのは事実で それを語るには父親であるデューブ釜萢のことから始めなければならない

1911年 父親であるデユーブ釜萢は現地で洋服店(洋服の仕立て屋)を営む両親のもとロスアンゼルスで日系二世として生まれた 
そこで音楽に親しみギターやバンジョーなどの楽器を習得
1929年のウオール街大暴落の始まったアメリカ大恐慌のおかげで日系人には仕事がなかったため来日 日米間の客船のバンドで演奏するようになった その頃同じく日系二世で日本に渡ってジャズをやっていたトランぺッターの森山久(森山良子の父)と親しくなり釜萢が結婚した日本人女性(浅田恭子)の妹(浅田順子)と森山が一緒になって「義兄弟」となる 
終戦直前には車の運転要員として日本軍人として召集 中国戦線に渡ったが無事帰還
 
終戦直後には森山久と共に「ニューパシフィックバンド」(ボーカルに石井好子)に入って連合国軍の将校クラブやキャンプで演奏活動 
1950年日本初のジャズの専門学校「日本ジャズ学校」を設立 
ミッキー・カーチス 平尾昌晃 弘田三枝子 ペギー葉山 日野皓正らを育てる 
また「デユープ釜萢とブルーリボン」などのグループとしても活躍

生涯日本語は殆どしゃべらなかったという

また息子ひろしが所属したスパイダースの名付け親でもあった
「蜘蛛の巣のように世界を席巻する」という思いが由来であった

釜萢という名字は推定で全国に90世帯しかなく 一番多い県は青森です

さてそんな日本ジャズ界の草分け的存在であったデユープ釜萢の長男に生まれた弘は青山学院在学中よりカントリー&ウエスタンの学生バンドを結成 米軍キャンプを中心に活動
ミッキー・カーチスらとともにロカビリーもこなし 色んなバンドのゲストとして日劇ウエスタンカーニバルに出演 
またかまやつヒロシ名義でテイチクから多数のレコードをだしている(1960~1961)

やがてスパイダースにゲストボーカルとして参加した後 正式メンバーとしてボーカル及びリズムギターを担当 
代表曲でもある「あの頃君は若かった」「いつまでもどこまでも」「バン・バン・バン」「ノーノーボーイ」「フリフリ」「なんとなくなんとなく」などを作曲

バンバンバン

とぼけた顔してババンバン 
バンバン ババババ ババンバン
あいつにゃとってもかなわない
バンバン ババババ ババンバン
遊び上手な バンバンバン
にくい男さ バンバンバン
バンバン ババババ ババンバン
バンバン ババババ ババンバン

ザ・スパイダース(1961~1970)
スイングウエストのドラムだった田辺昭知が結成したグループサウンドのバンド
リバプール・サウンドの影響をもろに受ける一方 堺正章 井上順 かまやつひろしの三人が繰り広げる軽妙なやり取りで コミカルな要素が強い人気グループであった
1966年「夕陽が泣いている」が大ヒットしたが1967年ブルーコメッツが出した「ブルーシャトウ」が超ヒットして さらにザ・タイガース ザ・カーナビーツ ザ・ジャガーズなどが次々と台頭してきて世にいうGS時代に突入していき比較的年齢層が高いスパイダースは徐々に窮地に立たされる やがて堺が出たドラマ「時間ですよ」の大ヒットで
堺、井上のスケジュールが過密となってやがて解散につながった
メンバーは田辺昭知 加藤允 かまやつひろし 大野克夫 井上孝之 井上順 堺正章 

スパイダース以降 
我が良き友よ  下駄を鳴らして奴が来る 腰に手ぬぐいぶら下げて

あんまり気に入らなかったようである そしてこんな曲が歌えるかとB面を好きなようにやらせてくれということで作った曲がこれだ

ゴロワーズを吸ったことがあるかい

ゴロワーズというタバコを吸ったことはあるかい
ほらジャン・ギャバンがシネマの中で吸ってるやつさ
ヨレヨレのレインコートのエリを立てて
短くなるまで 奴は吸うのさ
そうさ短くなるまで吸わなきゃダメだ
短くなるまで吸えば吸うほど
君はサンジェルマン通りの近くを
歩いているだろう
(発表当時は散々だったが再評価され代表曲の一つになった)

どうにかなるさ

今夜の夜汽車で 旅立つ俺だよ
あてなどないけど どうにかなるさ
有り金はたいて 切符を買ったよ
これからどうしよう どうにかなるさ
見慣れた町の明かり 行くなと叫ぶ
けれども同じ 暮らしに疲れて
どこかへ行きたい どうにかなるさ

(この曲は作詞の山上路夫がスランプで詞が出なくなって仕方なく協力者のアイデアを生かして書いたもので 僕はその作詞者(役者)からいきさつを聞いた)

またユーミンをプロデュースしたことでも知られている

松任谷由美
風のように生きる「おしゃれ」をいつも教えてくれました
私もいつか風のように消えてムッシュのいるところに行きたい