夏目漱石の『草枕』を読む。章ごとに気付いたことを書いていく。今回は「一」。
『草枕』の冒頭を引用する。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
多くの人が知っている文である。この小説の語り手は画工である。この画工は「人の世が住みにくい」ので、引っ越したくなるがどこへ越しても結局は同じように住みにくく、住みにくさから逃れるために詩や画ができるのだという。ここで見逃してはいけないのは、結局はどこもが住みにくいということである。引っ越し(これは旅も含めていいのだろう)は、一時の気休めにしかならないのだ。
ではなぜこの世は住みにくいのだろうか。
世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
画工の答えは逆説的である。住みよい世を求めるからこそ、住みにくいというのだ。「住みよい世を求める」とは、具体的には漱石の小説で定番のように出てくる金や恋愛ということになろう。つまり人間の苦しみは人間の欲から生まれるのだ。しかしそれは人間の「本質」と言っていい。だからこそ「住みにくい」場所から逃れることはできないのだ。そしてこの「住みにくさ」の苦しみを少しでも楽にしてくれるものとして画や詩があるのだと言うのである。
画や詩が住みにくさから逃れるためには、画工や詩人が世に同化してしまってはいけない。同化してしまえば、世の中の人間と同じように住みにくさを知らず知らずに受け入れるしかなくなってしまうからだ。だから画家や詩人は「非人情」に徹する必要がある。「余裕のある第三者の地位」に立たなければならないのである。
この画工の論理はわかりやすい。問題はそう簡単に非人情に徹することはできないということである。そのことをこの時点の画工が気付いていたかは疑問である。
茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。
第一章の末尾の記述である。自分が「純客観」できるようになると、画の中に入ることができると言っている。非人情に徹すれば画の中に入っていける。
漱石は「写生文」を提唱していた。「写生文」とは「言文一致体」に対して用いられた言葉である。写生するように書く文である。当然、語り手が視点となり、その語り手は物語の世界の中にいることが普通になる。「言文一致体」はもっとアバウトなものであり、特に文末を「た」にすることによって書かれた口語体の文である。写生文は画中に語り手がいる。つまり画の中に入っていけるのである。その後、「写生文」は支持を失っていく。なぜかというとプロットが作れないからである。もう少しわかりやすく言うと、出来事の順にしか書けないのである。これは作家にとって厳しい。
初期の漱石は「写生文」と格闘して、口語体の文章を書こうとした。それは後の世に残りはしなかったし、漱石自身も軌道修正したように思われる。しかし『吾輩は猫である』や『草枕』などの名作も残した。