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とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石の『草枕』を読む。1

2024-03-21 17:46:59 | 夏目漱石
 夏目漱石の『草枕』を読む。章ごとに気付いたことを書いていく。今回は「一」。

『草枕』の冒頭を引用する。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 多くの人が知っている文である。この小説の語り手は画工である。この画工は「人の世が住みにくい」ので、引っ越したくなるがどこへ越しても結局は同じように住みにくく、住みにくさから逃れるために詩や画ができるのだという。ここで見逃してはいけないのは、結局はどこもが住みにくいということである。引っ越し(これは旅も含めていいのだろう)は、一時の気休めにしかならないのだ。
 ではなぜこの世は住みにくいのだろうか。

 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……

 画工の答えは逆説的である。住みよい世を求めるからこそ、住みにくいというのだ。「住みよい世を求める」とは、具体的には漱石の小説で定番のように出てくる金や恋愛ということになろう。つまり人間の苦しみは人間の欲から生まれるのだ。しかしそれは人間の「本質」と言っていい。だからこそ「住みにくい」場所から逃れることはできないのだ。そしてこの「住みにくさ」の苦しみを少しでも楽にしてくれるものとして画や詩があるのだと言うのである。
画や詩が住みにくさから逃れるためには、画工や詩人が世に同化してしまってはいけない。同化してしまえば、世の中の人間と同じように住みにくさを知らず知らずに受け入れるしかなくなってしまうからだ。だから画家や詩人は「非人情」に徹する必要がある。「余裕のある第三者の地位」に立たなければならないのである。
 この画工の論理はわかりやすい。問題はそう簡単に非人情に徹することはできないということである。そのことをこの時点の画工が気付いていたかは疑問である。

 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。

 第一章の末尾の記述である。自分が「純客観」できるようになると、画の中に入ることができると言っている。非人情に徹すれば画の中に入っていける。

 漱石は「写生文」を提唱していた。「写生文」とは「言文一致体」に対して用いられた言葉である。写生するように書く文である。当然、語り手が視点となり、その語り手は物語の世界の中にいることが普通になる。「言文一致体」はもっとアバウトなものであり、特に文末を「た」にすることによって書かれた口語体の文である。写生文は画中に語り手がいる。つまり画の中に入っていけるのである。その後、「写生文」は支持を失っていく。なぜかというとプロットが作れないからである。もう少しわかりやすく言うと、出来事の順にしか書けないのである。これは作家にとって厳しい。

 初期の漱石は「写生文」と格闘して、口語体の文章を書こうとした。それは後の世に残りはしなかったし、漱石自身も軌道修正したように思われる。しかし『吾輩は猫である』や『草枕』などの名作も残した。
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政治家はいらないのでは?

2024-03-19 17:29:48 | 政治
 政治家は本当に国のことを考えているのだろうか。裏金問題を見ていると、どうひいき目に見ても選挙に勝つことしか考えていない。選挙に勝つために領収書の必要のない金が必要になり、だから裏金が必要になる。選挙に勝ち続ける自民党はそうやって当選者を増やしてきたのだ。自民党は否定するだろうが、そう疑われてもしょうがないのである。

 彼らの理屈は「政治は金がかかる」である。しかし違う。「選挙に金がかかる」のだ。私設秘書をたくさん雇って選挙民の陳情を処理したり、後援会組織の拡大をねらったり、さまざまな選挙対策を金の力でやっている。ルール上認められているからいいと反論するのだろうが、こういうことばかりするから、本当に政治を志す若者は政治家になれず、二世議員だらけになってしまうのだ。

 お坊ちゃま議員は態度だけはでかいけれども、「先生」と呼ばれて浮かれているだけなのだ。世耕議員のことである。これでは日本の政治は悪くなる一方であろう。

 それでもなんとかやっていられるのは、優秀な官僚がいるからだ。逆に政治家がいないほうがもっとまともな行政になるにちがいない。

 とりあえず岸田首相が今行うべきことは解散総選挙である。いらない議員を一回選挙でおとすのが一番いい。
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ショーン・ホームズ演出舞台『リア王』を見ました

2024-03-15 17:31:50 | 演劇
ショーン・ホームズが演出、段田安則が主演を務める『リア王』を見ました。斬新な演出で、緊張感が持続する舞台でした。

幕が上がると白い背景、舞台の上には蛍光灯が点灯し、不思議な現代的な空間が現れ意表をつく幕開きとなりました。登場人物も現代的な衣装を着ています。人物の区別がつきやすく、大げさな歴史性が捨象されているために、セリフの意味がストレートに伝わってきます。人物関係もわかりやすくなっているような気がします。おそらく後半のごちゃごちゃした箇所が省略されていたので、すっきりしているのではないかと思われます。

いろいろな考え方はあると思いますが、私はシェークスピア作品をそのままの形で、現代に、しかも日本で上演するのは無理があるように思います。とくに『リア王』はあまり上演されることがなく、観客も準備ができていません。ある程度、台本に手を入れるのはいいことなのではないかと思います。そのおかげで内容に無理なく入っていくことができたような気がします。

私が小学生か中学生の時、国語の教科書に『リア王』が載っていました。もちろんごく一部です。三姉妹のリア王に対する愛を語る部分です。私はその時とても違和感を覚えました。コーディリアがなぜリア王への愛を語らなかったのか、それが逆に偽善のように感じたのです。教科書の意図は、嘘はいけないというものだったのかもしれませんが、そんなに単純なものではないと子どもながらに考え込んでしまったことを記憶しています。

コーディリアがリア王を愛していたことは確かだし、それを何も飾らぬ言葉で語ってもよかったのではないかと思ったのです。それができなかったがためにリア王の人生は狂い、一族の運命が破滅に到るのです。コーディリアがすべての原因だったということになるのです。この理不尽な展開が子どもの私には理解できなかったのです。しかし今回あらためて見てみると、こういう不条理こそが人生そのものなのだと感じました。年をとるということはこういうことを受け入れるということなんだなと不思議な気持ちになりました。

それにしても、昔は演劇がちゃんと教材になっていたことが今考えれば驚きです。ほかにも『ジュリアス・シーザー』のアントニーの演説も授業で学びました。教科書にあったのです。昔は余裕があったのですね。演劇は表現を学ぶいい教材です。国語教育に積極的に取り入れることを期待します。

主な出演者は段田安則、小池徹平、上白石萌歌、江口のりこ、田畑智子、玉置玲央、入野自由、前原滉、高橋克実、浅野和之。実力者ぞろいの大作でした。
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KERA CROSS「骨と軽蔑」を見ました。

2024-03-14 19:06:28 | 演劇
KERA作品をさまざまな演出家の手で立ち上げる「KERA CROSS」。そのラストをKERA自身が演出するので、KERAMAPと何が違うんだろうと疑問には感じるものの、まあそんな細かいことはどうでもよく、すごい役者が勢ぞろいして楽しみにしていた「骨と軽蔑」を見ました。やっぱりすごい舞台でした。

内戦が続くある国が舞台です。会社経営をしているその町のお金持ち家族と、その関係者が登場人物です。ただしその家族の主は途中で死んでしまい、結局舞台には現れません。その家族の娘に小説家の姉がいます。その姉と妹の仲が悪い。常に喧嘩しています。お互いに相手が先に悪いことをしたからいけないんだと主張して、常に水掛け論になってしまいます。この関係が戦争が頻繁に起こる現在の国際状況と重なります。

この芝居の特色は「異化」が頻繁に起きるということです。登場人物が観客に語りかけ、これはとある国の昔の話なんだよと現実とは違うことを意識させます。頻繁にそういう「異化」が行われることによって、この「異化」がなんのために行われているのかを意識させます。その結果、観客は現実の今の社会状況を意識するようになるのだと思います。

ウクライナの戦争にしても、ガザ地区の戦争にしても、それぞれはそれぞれの言い分はあります。しかし、戦争で苦しんでいるのは一般の住民です。それが見えてこないぬるま湯の日本の言論状況をこの芝居は痛烈に批判しています。

最後に姉と妹がどちらも死ぬであろうことが示唆されます。異化を繰り返しながら、観客は現実社会に同化していきます。そしてみずからがその当事者であることに気付くように仕掛けられています。その手際に感服するばかりです。

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東日本大震災の記憶

2024-03-11 17:34:11 | 社会
 13年前の今日、東日本大震災だった。

 高校入試の採点の日だった。突然大きく揺れ始めた。最初は冷静だった。大きな揺れも何度か経験していたので、しばらくすれば止むだろうと思って状況を見ていた。しかし揺れが収まらない。これは普通ではないと思い始めた。入試の採点をしているわけだから、まずは対応を考えなければならない。おそらくすぐに答案をすべてしまって、試験の本部にあずけ、外に出た。

 外はみぞれまじりの雪だった。かなり寒かったことを記憶している。異常事態であったので採点の処理などは落ち着いてからとなり、まもなく解散となった。採点日だったので生徒がいなかったのが幸いだった。生徒がいたら、全員を返すまで家に帰れなかった。多くの学校がそうだったと聞く。

 とは言え、そこからが大変だった。自動車で帰宅したのであるが、すでに停電しており、信号機がついていないのである。大通りに入ることがなかなかできない。しかも暗くなってきたので、恐怖の運転だった。

 帰ってからも当然停電である。暗くてよく見えない。家には猫がいたので心配だったが、無事であった。ただ、本棚が倒れかけていたり、棚からさまざまなものがおちていたりした。

 買い物も困った。その後ガソリンがなかなか購入できなかったことも困った。余震も頻繁だった。しかし何と言っても、原発事故の恐怖が一番印象に残っている。

 そんな困難や恐怖も今はほとんど忘れかけている。しかし時々は思い出す必要がある。忘れてゐはいけないものがある。

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