とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「羅生門」②〔指導書の記載について〕

2019-01-12 14:13:00 | 国語
 実践紹介に入る前に、「羅生門」の指導書の記載について少し述べたい。指導書というのは教員の「虎の巻」であるが、実際には指導書をよく読んでから事業をしている教師はすくない。それなりの経験のある教員ならばほとんど指導書を見ないし、指導書をよく読む教師も参考にするだけで、そのまま教えることはほとんどない。

 しかし、指導書は学習指導要領にしたがって解説してあるものなので、本来ならばよく読み、その趣旨に従って授業を行っていくべきはずなのだろう。だから指導書を無視するのはあってはならないはずである。このあたりも国語教育が破綻していることの証拠であろう。指導書があろうと自分の従来のやり方を変えない教師と、どうせやらないのだから、実践的ではない解説をする指導書、どっちもどっちである。

 さて、その指導書の中の「教材のねらい」という項目にはおおよそ次のように記載されてある。

 ①「小説をよむことは楽しいということを、それぞれの生徒が実感すること」

 このことについてさらに次のように説明する。

 「本来小説は、生徒一人一人が、自分の感性や想像力をいっぱいにはたらかせて、いろいろなろな感想をもちながら、自由に読み進めることが大切である。(中略)『羅生門』の物語を生徒が不審に思い、こだわり、疑問をもつところから読みが始まる。」

 近年の国語教育は解釈を強制しない。しかし果たして「自由に読み進める」ということがどういうことなのか、実は明確になっていない。どこまでの「自由」が許されるのか。根本的な視座が定着しなければ、授業が成り立たないのではないか。

 ②「自立や自我の形成に関係した問題を掘り下げる」

 ①と逆行するような記載である。混乱が生まれる。
 
 ③「小説としての表現技法の学習」
 
 このことについてさらに次のように説明する。

 「場面、構成、登場人物の行動・性格・心情、語り手の視点、文体、レトリックなど読みの基本的要素の学習が可能である。」

 「登場人物の行動・性格・心情」は「表現技法」なのか。整理されていない。

 ④「学習集団としての読み」

 おそらくこれを読んで何なのかよくわからないというのが、多くの人の感想であろう。結局この教材で何をしたいのかが、明確なものがない。

 そもそもこの指導書を読んで、教師は何をしたらいいのかはわかることはない。これでは「国語」という教科が、教科として成立していないといわれてもしょうがないし、実際、教科として近代社会の教育とは言えないであろう。よくもここまでこんなことがまかり通っていたものだ。
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