
焼きものたちの沈黙──プールサイドの陶器パネルに寄せて
その宿のプールサイドは、ただ静かだった。
水音と鳥の声が交互に響いてくるだけで、他に音はなかった。
私はそこにいた。ただ、昼の陰影のなかに沈みこむようにして。
ふと顔を上げると、壁に貼られたパネルが目に入った。
幾何学模様、草花の意匠、アラベスク、円と曲線、そして翡翠と青の色彩。
その全てが、“焼かれた記憶”のように並んでいた。
これは装飾ではない。
これは、語らぬ陶器たちが沈黙のなかで交わす会話だと思った。
■ 焼きものは、黙っているから美しい
パネルは陶器だった。しかも、均一ではない。
釉薬の濃淡、線のゆらぎ、欠けた端、わずかに歪んだ角。
それぞれが完璧ではなく、ちいさな異なる“魂”をもっていた。
あるタイルは濃い青緑に波紋が走っている。
あるものは砂岩色に近い素焼きの地肌に、アジア風の文様が刻まれていた。
曲線のタイルは月を思わせ、並べられた円はどこか音楽を連想させた。
私はそれを、しばらく見ていた。
まるで時間の凍った楽譜を読むように。
■ 旅の一枚の“無言の証人”
世界を旅して撮りためた数万枚の写真の中には、たしかに“人”の気配が濃いものが多い。
けれどこの一枚、プールサイドの壁に貼られた陶器パネルの写真だけは、誰の声も入っていない。
ただ、光と時間と沈黙がそこにある。
何枚かのタイルには、明らかにイスラム圏の幾何学模様があった。
またいくつかはバリの装飾文様に近い。
つまりこのパネルは、**さまざまな文化の断片が混ざり合った“地層”**のようだった。
もしかすると、これはこの島の縮図なのかもしれない。
旅人が持ち込み、職人が焼き、誰かが並べて貼った。
すべての背景が剥ぎ取られたあと、残るのは“色とかたち”だけ。
けれどその無言の組み合わせにこそ、人の気配がにじんでいる。
■ 水と火、そして記憶
陶器は土と火の産物であり、プールは水の場。
火と水が静かに出会う場所で、私はただ一人、光の角度を確かめながらシャッターを切った。
それは旅の記録というよりも、祈りに近い何かだった。
この一枚には、誰も写っていない。
けれど、焼きものたちが確かに「ここにいた」と語っている。
写真とは、時に記憶を閉じ込めるものではなく、
無音のまま残された“場所の声”を聴き取る行為なのかもしれない。
太陽の欠片──サヌール、テーブルのうえの宇宙
旅の途中で、ふいに時間が止まる瞬間がある。
それは必ずしも壮大な景色でも、歴史的な建築でもない。
ときにそれは、カフェの片隅、誰も気づかないテーブルの表面だったりする。
サヌールのタンブリンガン通り。
観光客も地元の人も行き交う、ごく普通の通りだ。
その途中にあったカフェで私は一杯のアイスコーヒーを頼み、ふと視線を落とした。
──そこに、太陽があった。
いや、正確には、木の年輪のような円形を中心に、
何十もの彩色された放射線が伸びていた。
それはあまりにも見事に、まるで宇宙から見た神の目のようだった。
■ 描かれたのではない、削られ、染み込み、焼きつけられたもの
この“太陽”は、誰かが意図して描いたものではなかったかもしれない。
古びた木のテーブルの表面に、年月とともに絵の具、オイル、食事、汗、雨…
すべてが沈殿し、乾き、砕け、また染み込み、かたちになったものだ。
色は燃えるような赤から、苔のような緑へと微妙に変化し、
その合間に煤のような黒と光る金属色が覗いていた。
私は写真を撮った。
というよりも、それに見とれて動けなかったのだ。
■ それは“意匠”ではなく、“痕跡”だった
このテーブルは、誰かの記憶の堆積だった。
幾人もの手、指、肘、そして会話の温度。
カップが置かれ、ノートが開かれ、煙草の灰がこぼれ、
ときに雨が吹き込み、子どものアイスが滴っただろう。
それらが、時間という火で焼かれて、ひとつの図像になった。
この放射模様は、ただのデザインではない。
生活の熱が染みついた、“暮らしの曼荼羅”だった。
■ 世界には「読まれない芸術」がある
このテーブルの模様は、誰かのために描かれたものではない。
美術館にも置かれないし、誰もそれを見に来るわけではない。
でも、それは間違いなく私の“旅の宝石”のひとつになった。
読まれない物語、語られない祈り、見過ごされた芸術──
旅とはそうしたものにたまたま遭遇してしまう奇跡なのだ。
私はカフェを出る前に、もう一度手をその模様の上に置いてみた。
熱はなかった。だが、記憶のような温度が、掌に広がった。

角の神、グラフィティの舞──サヌール、路地の壁にて
旅のなかで、心に残るものは地図には載っていない。
それはたいてい、通りすがりの何かだ。
誰かの目に留まることなく、風にさらされている“無名の芸術”。
サヌールの宿に向かう途中の、小さな路地の角。
そこに、それはあった。壁に描かれた神の舞。
モノクロームで描かれたバリ舞踊のダンサーの背後から、
鮮やかな青と黄のグラフィティが炎のように吹き上がっている。
手の構え、目線、扇子の動き。すべてがさりげなく上手い。
けれど、誰も足を止めていない。
この角を曲がる人々は、スマホか地図か日差しの強さを気にしていて、
この絵の存在を意識していない。
──でも、私は立ち止まった。
■ グラフィティと神の同居
この絵は、単なる落書きではない。
それどころか、**現代の路上に降りた“都市の神殿”**のようだった。
グラフィティの下地には、バリ舞踊の女神がモノクロで描かれている。
写実的でありながら、どこか聖像画のような“眼”をしていた。
その上に重ねられた、青と黄のうねる線。
アラベスクにも見えるし、書のようでもある。
まるで舞の動きが、色になって現れたようなデザイン。
偶然の配置ではなく、呼応している。
それがわかる人にはわかるように描かれている。
■ “市場の路地”という舞台装置
右手の赤い壁が、まるで背景幕のようにこの絵を際立たせていた。
上部の看板には小さく「Rurung PASAR(市場小路)」とある。
なるほど、舞はこの路地のために捧げられたものだったのか。
この絵を描いたのは誰か、何のためか、知るすべはない。
けれど、この場所に立ってみると、確かに風が一瞬止まるのを感じた。
色と線と、静止した身体のポーズだけで、空気が変わった。
■ 描かれたものは消える運命にある
この絵も、いずれ誰かに塗りつぶされるかもしれない。
壁ごと壊されるかもしれない。
それでも、この瞬間、私にはしっかり見えた。
サヌールの朝の光、壁のひび割れ、
レンガの角にたまる影、そして
絵のなかの神が、こちらを向いたその眼差し。
地図には載らない、けれど心に刻まれる場所。
それが旅における“聖地”の条件だとしたら、
この角は、私だけの小さな“聖地”だった。
You are my Sunshine──サヌール南端の午後
旅の最後の日、サヌール南端の宿の近くでふらりと入った小さなカフェ。
汗ばむ陽射しの下、コーヒーを一杯だけ飲もうと立ち寄ったつもりだった。
店内の壁にかけられていたのは、一枚の小さな陶板。
黒地に、二輪のひまわり。
そして白い筆記体で書かれていた言葉──
"You are my Sunshine."
月並みといえばそうかもしれない。
けれど、旅の終わりにこの言葉に出会うと、
なにか、見えない手にそっと背中を押されたような気持ちになる。
「太陽」と呼ぶ相手が、すぐ近くにいるとは限らない。
むしろ、もう会えない人、あるいは思い出そのものに、
この言葉をそっと向けることがある。
旅のあいだ、何度も思い出した顔。
連絡は取らないままにしてある名前。
自分のなかにだけ咲き続けている“ひまわり”のような存在。
■ すべてが言葉に置き換わるわけではない
バリの光は強く、影も深い。
この小さな陶板は、どこか手づくり感があり、
釉薬の光沢の向こうに、少しだけ歪んだ筆致が見えた。
完璧じゃない。でも、それがよかった。
人生もまた、どこか歪んだ陶板のようなものかもしれない。
日々のなかで、誰かが自分を太陽だと思ってくれる瞬間があったとしたら。
あるいは、誰かの太陽を一瞬でも感じることができたなら。
旅は終わる。でも、“光”の記憶だけは、肌の奥に焼きついて残るのだ。

