ノンフィクション「あんぽん」を読んで違和感を感じた。その原因を物語という補助線を使って考えてみた。
孫正義氏の実像は父親の三憲の特異性や親族の血と骨のようなインタビュー的事実をいくら積み上げても真実には迫れない、そう思った。人々へのインタビューには誤差がある、それが言葉で拡大される。言葉で普遍化されるのではなく俗化される、つまり人々の先入感にあったステレオタイプ化を免れないのだ。言葉にはもともと俗化の本質が潜んでいる。それらの言葉の構築物は元の真実をおおきく歪めている。美は主観や固有に存在するので普遍化した途端に元の美や真実は散逸する。むしろそうした「事実」を切り捨てること、つまり虚構で真実は表現されると思った。
科学とくに物理学では数学という言葉で表現しようとする。日常言葉では表現し切れないのだ。数学という虚構で真実に迫ろうとしている。(数学でさえも根源的矛盾に抗しきれていのが現実だ)人間の感情を表現するにも言葉は便利だが俗化する、つまりノンフィクションで真実をのべるには誤差が大きすぎて固有の感動や至高性、美などを表現するにはほど遠いことになる。
物理学で数学という虚構を使うようにフィクションつまり物語や小説と言う虚構を作り出したといえる。数学と物語は共通の土台に、つまり人の持っている真実追求の共通のセンスの上に立つ双子の建物のようなものだ。法もおなじだ、法律という虚構で真実に迫ろうとしている。虚構はうそでもあるが、真実をあらわす両刃の剣でもある。
ノンフィクション「あんぽん」を読んで違和感を感じ、そこから人は何故小説や物語を求めるのかのささやかな回答を試みた。つまり物語とは昨今の一部に見られる覗き見趣味的メディアのふるう一方的力に対するへの唯一の対抗手段でもあると。