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まさおレポート

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滝壺の巫女──ウブド近郊、午後の光と水 文字数:15870

2024-08-13 | バリ スペシャル

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滝壺の巫女──ウブド近郊、午後の光と水

轟音だけが世界を支配している。
目を閉じても耳を塞いでも、滝の音は体に沁みこむ。

ウブド近郊の小さな谷間。
石段を下りた先に、神の通り道のような滝壺が現れる。
地元の少年たちが浮き輪を投げ合い、観光客が記念撮影をする。
そんななか、一人の白人女性が、そっと水に入っていく。

ビキニのまま、髪を濡らさぬように両手を少し広げて立つ姿は、
まるで儀式の途中の巫女のようだった。

周囲の喧騒がすっと後景に退く。
滝の轟きの奥で、ひとつの沈黙が生まれていた。

■ 水に入る、という行為の意味

旅のなかで水に入ることには、いつもどこか**“境界を越える”感覚**がある。
日常の服を脱ぎ、肌を晒し、水と空気のあいだに自分を差し出す。
それは潔さであり、無防備さであり、祈りにも似た行為だ。

彼女の背中には、ひとつのタトゥーがあった。
龍か、蛇か、それとも抽象的な図案か。
それが滝壺の霧のなかで淡くゆれていた。

ふと、思う。

どこまでが観光で、どこからが儀式なのか。

彼女は写真を撮るために水に入ったのかもしれない。
だが、その姿はなぜか“聖性”を帯びていた。

水の中で静かに佇むというだけで、
人はどこか、自然と対話しているように見える。

■ バリの水は、“浄化”を含んでいる

バリでは、水は聖なるものである。
村の寺院でも、自宅の中庭でも、水は神とつながる媒体として扱われる。
その文化のなかに立ち現れるこの一枚の風景は、
西洋から来た異邦人が、無意識のうちにその文脈の一部に触れているように見えた。

滝は、ただ水が落ちる場所ではない。
神が降り、声を発する場所である。
バリの人々はそう信じてきた。

そして今、誰もがスマートフォンを構える中で、
一人の女が滝を見上げて静かに立っていた。

観光客としてではなく、一時的な巫女として。

みよ、この晴れやかな顔を──デンパサール、葬儀の日に

悲しみとは、必ずしも暗いものとは限らない。
少なくとも、バリの葬儀においてはそうだ。

デンパサールの郊外。
昼の光がきつく照りつける中、
女たちは白のレースに身を包み、鮮やかな黄色の飾りを頭にのせて歩く。

彼女たちの表情は、笑っている

とくに、写真の中央。
瞳を閉じて笑うこの女性──
どこか舞台の前の女優のようでいて、それ以上に清らかな何かを帯びていた。

これが、バリの葬儀だ。

■ 生と死が、分かたれていない

バリの葬儀(ングラワ)は、魂の旅立ちを祝う儀式である。
哀しみではなく、解放のために行われる。
そのため、人々は化粧をし、装束をまとい、音楽を奏で、舞い踊る。

そこには「死」があるのではなく、
死を生の一部として受け入れようとする姿勢がある。

この写真のなかで、誰一人として沈んだ顔をしていないことに気づく。
むしろ、彼女たちは“今”を生きていることを、全身で肯定している。

祭りのような、しかしどこか静謐な、
そんな矛盾が、ひとつの瞬間に凝縮されていた。

■ 「みよ、この晴れやかな顔を」

この言葉は、まるで一種の“賛歌”だった。
悲しみの深さは、必ずしも顔に出るものではない。
それを知っている文化は、しばしば「明るい死」を内包している。

日本では、「泣くこと」が供養であり、
沈黙や喪服、沈痛な表情が「礼儀」とされている。
だが、バリでは違う。

ここでは、装うこと、笑うこと、捧げること、舞うことが祈りなのだ。

写真の女性は、もしかすると親族かもしれない。
あるいは村の担い手か、舞を奉納する者か。
だが、その顔には確かに、永遠の一瞬が宿っていた。

■ カメラは“記録”ではなく“記憶”になる

私はこの写真を、ただ記録として撮ったのではない。
そのとき感じた“生の温度”を、あとで言葉にできるようにと願って撮った。

みよ、この晴れやかな顔を。

その言葉を心に唱えながら、私はシャッターを押した。

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無心の釣り──ウブドの谷で見た“かつての自分”

ウブド近郊、観光地から外れた細い道を進み、さらに苔むした石段を下りていくと、
水音だけが響く深い谷に出る。
滝の音が絶え間なく響くその場所で、ふと視線を下に向けると、少年が一人いた。

土の上にしゃがみ、手元をじっと見つめている。
釣り竿というにはあまりに簡素な道具。
小さな袋、ビニールの容器、手元にある黒い仕掛け。

彼は、釣っている。
無言で、無心で、ただ目の前の水と向き合っている。

■ 誰にも邪魔されない時間

その姿は、あまりに静かで、
そして、あまりに遠い記憶を呼び覚ました。

かつて、自分にもこんな時間があったのではなかったか。
誰に見せるでもなく、
誰と競うわけでもなく、
ただ、目の前の自然に心を預けていた午後。

都会で過ごす大人の時間には、
「意味」があり、「目的」があり、「成果」が求められる。
だが、この少年の釣りには、そのどれもなかった。
あるのは、静けさと集中と、期待しすぎない希望。

■ 少年は「世界と等価」だった

ふと思う。
この少年は、釣りをしているのではない。
“時間と遊んでいる”のだ。

土と葉と水の匂い。
濡れた岩に腰を落とし、
流れの音と自分の鼓動だけを聴いている。

私たちはいつから、「効率」と「結果」の奴隷になったのだろう。
この姿を見ていると、そんな問いがしずかに胸の底に沈んでくる。

■ 写真を撮ることの意味

私はシャッターを切ったが、
どこか後ろめたさを覚えた。

この無垢な時間に、自分のレンズが割り込んでよいのか。

けれど、それでも記録しておきたかった。
この“何も特別でない瞬間”が、あまりにも豊かだったから。

写真には、ときに“問い”が写る。
この一枚は、私に「君はまだ、無心になれるか?」と問いかけてくる。

帆を縫う手──サヌールの海辺で出会った男

白い砂、木陰、潮の香り。
サヌールのビーチで、ひとりの男が帆を縫っていた

青と白のチェック柄のビニール地に、竹の骨組みを合わせる。
細いロープをかけては引き締め、ゆるめ、また締める。
ひたすら静かに、丁寧に、その手は動いていた。

──右足の親指がなかった。
さらには、足裏に深く刻まれた古い傷跡。
言葉がなくても、海との格闘の年月がそこにあった。

■ 海は与え、そして奪う

バリの漁師たちは、観光とは別の時間を生きている。
夜明けとともに出て、風と潮の気まぐれに身を委ねる日々。
網にかかった魚の数、波の高さ、舟の安定。
その全てに命が関わる。

この男も、かつて何度となく命を削るようにして海に出ていたのだろう。
その足は、舟と岩場のはざまで何かに巻き込まれたのかもしれない。
けれど、今、彼は帆を縫っている。
誰にも見せることのない技術と、経験の静けさをまとって。

■ 帆は、風を受ける“身体”である

縫い上げられた帆は、ただの布ではない。
それは、**海に出る舟の“もう一つの身体”**であり、
風を受ける“意志”のようなものでもある。

この男が縫っているのは、布ではない。
自分と海をつなぐための、祈りにも似た装置なのだ。

黙々と作業を続ける彼に、私は声をかけなかった。
邪魔をしてはいけないような気がした。
その手つきに、何か儀式的な神聖さすら感じたからだ。

■ 傷痕と静けさ

旅をしていると、時おりこうした“顔の見えない物語”に出会う。
名前も年齢もわからない。
ただ、傷跡だけが、その人の人生の言葉になっている。

この日差しの下、海辺の白い砂の上で、
一枚の帆が縫い上がっていくのを見ながら、
私は静かにシャッターを切った。

それは、風のための布を縫う、沈黙の詩人のようでもあった。

神を背負う人──ウブド郊外で見かけた後ろ姿

それは偶然の出会いだった。
ウブド郊外のなだらかな道。車の窓から前方を見たとき、
一台のバイクに乗った老人の後ろ姿が目に飛び込んできた。

真っ白な衣。
金髪にも見える長い髪。
そして、異様なまでに長く編み込まれた束が、背中を伝って尻のあたりまで伸びている。

これは、ただの老人ではない。
マンクー(僧侶)──バリの神職者に違いない。
私は直感的にそう思った。

■ 霊性と日常の交差点

バリにおいて、神と人のあいだに立つ者は「特別な日常」を生きている。
だが、その姿は儀式の壇上だけにあるのではない。
こうして、バイクにまたがり、買い物や寺への用を足す彼らの姿は、
日常にとけこみながら、非日常の重さを背負っている

後ろ姿だけで、それがわかるというのは不思議なものだ。
まるで、背中に「神を編み込んでいる」ようにも見えた。

髪は、おそらく何年、あるいは何十年も切られていない。
編み方は奇妙で、きつく縛られた部分と緩やかに束ねられた部分が交互に現れる。
その複雑さが、内面の祈りの構造を思わせた。

■ バリ島という“重力”

この島では、背中に多くのものを背負っている人に、しばしば出会う。
神、先祖、土地、儀式、しきたり。
それらは重くもあり、しかし生きる理由でもある

このマンクーもまた、そのひとりだ。

バイクに乗る姿が、あまりにも自然だった。
だが、後ろ姿には「ただの人」ではない気配があった。

この写真を撮ったとき、私は声をかけることはできなかった。
ただ、静かにその姿が視界から消えていくのを見送った。

そしてふと思った。

神は、こうして日常を走っていくものかもしれない。

砂上の趺坐──サヌールの少年と影のゆらぎ

サヌールの海沿い、まだ朝の風が熱を帯びる前。
私は木陰に腰を下ろして、ただ波の音を聞いていた。
そのとき視界に入ったのが、この一人の少年だった。

白いTシャツ、短パン、投げ出されたサンダル。
地面に敷いた浅い板の上で、
彼はなぜかきまっていた

あぐらをかき、目を閉じ、
指先は印相を結ぶかのように丸く開いている。
まるで釈迦のような趺坐

……いや、ふざけているのか?
写真を撮ったとき、そう思わなかったといえば嘘になる。

だが、どこかきまっているのだ。

その表情の絶妙さ。
瞑想とも真似ごととも言い切れない、あわいの静けさがあった。

■ 遊びのなかの“真剣さ”

子どもが本気になるとき、それは大人が想像する“本気”とは違う。
計算や結果ではなく、ただその瞬間に没頭している
この少年も、きっと誰かのポーズを真似ているのだろう。
けれど、そこには「演技」ではない集中がある。

きっと1分後には、またふざけて笑っているのだろう。
だが、この数十秒は──
彼は確かに、世界の中心に座っていた。

バリではこうした“日常の中の神聖”に、しばしば出会う。
それは形式としてではなく、空気のように存在している。

■ 光と影と、少年

写真を見返すと、木漏れ日のまだら模様が、彼を包んでいる。
まるで、天地の気がそこに集まっているかのように。

この日、この場所、この時間。

彼がふざけていたとしても、
その姿は確かに私の目を惹きつけ、
シャッターを切らずにはいられなかった。

瞑想とはなにか?
無心とは? 重心とは?
──この少年の趺坐に、答えの一部が含まれていた気がする。


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