カントに関わって次のような質問をいただきました。
「カントは、暴力を用いた紛争解決は規模に限らず全て戦争であると述べていましたが、私は子供同士の喧嘩や、柔道、相撲等のスポーツで解決を図ることは健全なことであり、戦争ではないと考えています。なぜカントはすべてを戦争だと定義しようとしたのでしょうか。」
そもそもことばの定義というのは時代や地域・集団によって変わりうるものなので、
私はこう定義すると宣言して、それから逸脱することなく使っていくならば、
どう定義しようと自由なのだと思います。
ホッブズから始まる社会契約説の系譜においては、
国家間の戦争の話をする前に、そもそも国家なんて存在していなかった自然状態を想定して、
そこでの諸個人間の紛争をどう解決するかというところから議論を組み立てていったので、
個人間の紛争を暴力的に解決しようとすることを禁ずるというのがスタート地点でした。
ホッブズやロックはそのために国家を作らなければならないと論じたわけですが、
彼らの社会契約説は国家を設立したところで終わってしまっていて、
そこから先の国家間の戦争をどうなくすかということまではまったく考えておらず、
国家には国民を守るために戦争をする権利と義務があるのは当然のこととみなしていました。
カントは、社会契約説を推し進め、
諸個人間の暴力を廃絶するために諸個人は国家法に従わなければならないのと同様に、
国家間の暴力である戦争を廃絶するために諸国家は国際法に従い、
国連の場で暴力によらない紛争解決を試みなければならないと唱えました。
暴力による紛争解決は、個人間のものであれ国家間のものであれ禁じられるべきなのですから、
両者を引っくるめて「戦争」と定義したことは、
カントの立論からすると当然の成り行きだったと言えるのではないでしょうか。
さて、質問者の方は暴力による紛争解決の例として2種類挙げてくれていました。
子ども同士の喧嘩と、柔道や相撲などの格闘技系のスポーツの2種類です。
その例示のうちの後者は間違っていると言わなければなりまぜん。
スポーツというのは、きちんと定められたルールの下で勝敗を競う競争ですので、
それは暴力ではありませんし、紛争解決でもありません。
たしかに格闘技は他の陸上競技などとは違って肉体的コンタクトがあり、
殴ったり蹴ったりという行為が伴うので、相手に対して力を用いてはいますが、
それはプレイヤーの安全を守るためのルールに従って振るわれる力であって、
限度を超えていこうとする暴れる力ではありません。
したがって格闘技を含むスポーツを暴力と呼ぶことはできませんし、
それゆえ戦争の中に含めることもできません。
また、質問者の方は「スポーツで解決を図ることは健全なこと」とおっしゃっているのですが、
何を想定しているのかよくわかりませんでした。
私のイメージでは、スポーツはスポーツのため(勝敗を競うため)にやるのであって、
スポーツを用いて何かスポーツ以外の別の紛争や問題の解決を図る、
なんていうことがありうるでしょうか?
もしもそういうことが行われたとするならば、
それは私も健全な解決法だとは思いますし、カントもそう言うとは思いますが、
(当然それは戦争ではありません)
例えば北方領土問題とか、竹島問題とか、パレスチナ問題をスポーツで決着つけようなんて、
そんな平和な提案が受け入れられて、その結果に双方が納得するとはとても思えないのです。
たとえそういう問題解決方法がありえるとしても、スポーツで決められるような事柄って本当に些細な、
重大な国益に関わらないようなことだけじゃないかなあ。
さて、もう一つの例、子ども同士の喧嘩ですが、
これは口喧嘩とかではなくて殴り合いの喧嘩をするのであれば、
それは暴力による紛争解決であり、カントの定義によれば戦争になるだろうと思います。
子どもが本当に小さければどんなに殴ったり蹴ったりしてもたかが知れており、
暴れる力にはならないという見方もあるかもしれせんが、
そもそもそれは紛争の正しい解決には結びつかないという点において、
けっして健全な紛争解決手段とは言えないと思います。
なぜなら喧嘩の勝敗はどちらが強いかということを決するだけであって、
どちらが正しいか間違っているかとは無関係だからです。
私が育った昭和の時代には、子ども同士は何かトラブルがあったら殴り合いの喧嘩をして、
すっきりして仲直りをすればいいんだみたいな風潮がありましたが、
令和の学生さんから「子ども同士の喧嘩は健全な解決法だ」と聞くとは思っていませんでした。
なぜそう思うのかもっと詳しく聞いてみたい気がします。
私は自分が喧嘩が強いタイプの子どもではなかったということも関係しているのかもしれませんが、
喧嘩に勝ったほうが正しいという紛争解決方法は健全な決着とは思えないけどなあ。
「カントは、暴力を用いた紛争解決は規模に限らず全て戦争であると述べていましたが、私は子供同士の喧嘩や、柔道、相撲等のスポーツで解決を図ることは健全なことであり、戦争ではないと考えています。なぜカントはすべてを戦争だと定義しようとしたのでしょうか。」
そもそもことばの定義というのは時代や地域・集団によって変わりうるものなので、
私はこう定義すると宣言して、それから逸脱することなく使っていくならば、
どう定義しようと自由なのだと思います。
ホッブズから始まる社会契約説の系譜においては、
国家間の戦争の話をする前に、そもそも国家なんて存在していなかった自然状態を想定して、
そこでの諸個人間の紛争をどう解決するかというところから議論を組み立てていったので、
個人間の紛争を暴力的に解決しようとすることを禁ずるというのがスタート地点でした。
ホッブズやロックはそのために国家を作らなければならないと論じたわけですが、
彼らの社会契約説は国家を設立したところで終わってしまっていて、
そこから先の国家間の戦争をどうなくすかということまではまったく考えておらず、
国家には国民を守るために戦争をする権利と義務があるのは当然のこととみなしていました。
カントは、社会契約説を推し進め、
諸個人間の暴力を廃絶するために諸個人は国家法に従わなければならないのと同様に、
国家間の暴力である戦争を廃絶するために諸国家は国際法に従い、
国連の場で暴力によらない紛争解決を試みなければならないと唱えました。
暴力による紛争解決は、個人間のものであれ国家間のものであれ禁じられるべきなのですから、
両者を引っくるめて「戦争」と定義したことは、
カントの立論からすると当然の成り行きだったと言えるのではないでしょうか。
さて、質問者の方は暴力による紛争解決の例として2種類挙げてくれていました。
子ども同士の喧嘩と、柔道や相撲などの格闘技系のスポーツの2種類です。
その例示のうちの後者は間違っていると言わなければなりまぜん。
スポーツというのは、きちんと定められたルールの下で勝敗を競う競争ですので、
それは暴力ではありませんし、紛争解決でもありません。
たしかに格闘技は他の陸上競技などとは違って肉体的コンタクトがあり、
殴ったり蹴ったりという行為が伴うので、相手に対して力を用いてはいますが、
それはプレイヤーの安全を守るためのルールに従って振るわれる力であって、
限度を超えていこうとする暴れる力ではありません。
したがって格闘技を含むスポーツを暴力と呼ぶことはできませんし、
それゆえ戦争の中に含めることもできません。
また、質問者の方は「スポーツで解決を図ることは健全なこと」とおっしゃっているのですが、
何を想定しているのかよくわかりませんでした。
私のイメージでは、スポーツはスポーツのため(勝敗を競うため)にやるのであって、
スポーツを用いて何かスポーツ以外の別の紛争や問題の解決を図る、
なんていうことがありうるでしょうか?
もしもそういうことが行われたとするならば、
それは私も健全な解決法だとは思いますし、カントもそう言うとは思いますが、
(当然それは戦争ではありません)
例えば北方領土問題とか、竹島問題とか、パレスチナ問題をスポーツで決着つけようなんて、
そんな平和な提案が受け入れられて、その結果に双方が納得するとはとても思えないのです。
たとえそういう問題解決方法がありえるとしても、スポーツで決められるような事柄って本当に些細な、
重大な国益に関わらないようなことだけじゃないかなあ。
さて、もう一つの例、子ども同士の喧嘩ですが、
これは口喧嘩とかではなくて殴り合いの喧嘩をするのであれば、
それは暴力による紛争解決であり、カントの定義によれば戦争になるだろうと思います。
子どもが本当に小さければどんなに殴ったり蹴ったりしてもたかが知れており、
暴れる力にはならないという見方もあるかもしれせんが、
そもそもそれは紛争の正しい解決には結びつかないという点において、
けっして健全な紛争解決手段とは言えないと思います。
なぜなら喧嘩の勝敗はどちらが強いかということを決するだけであって、
どちらが正しいか間違っているかとは無関係だからです。
私が育った昭和の時代には、子ども同士は何かトラブルがあったら殴り合いの喧嘩をして、
すっきりして仲直りをすればいいんだみたいな風潮がありましたが、
令和の学生さんから「子ども同士の喧嘩は健全な解決法だ」と聞くとは思っていませんでした。
なぜそう思うのかもっと詳しく聞いてみたい気がします。
私は自分が喧嘩が強いタイプの子どもではなかったということも関係しているのかもしれませんが、
喧嘩に勝ったほうが正しいという紛争解決方法は健全な決着とは思えないけどなあ。