まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

カントとフランス革命

2013-12-05 17:07:45 | カント倫理学ってヘンですか?
「戦争と平和の倫理学」 では、先週今週とカントについて論じてきました。
それで思い出したんですが、昔 「社会思想入門」 の授業のなかで、
カントの社会思想について扱ったことがあったのでした。
先日、「社会思想入門」 の授業のなかで配ったアーレントのレジュメ資料をアップしましたが、
それよりも先にカントのレジュメと資料をアップしておくべきでしたね。
とんだ手抜かりでした。
カントは2回に分けて講義しましたので、まずは1回分。


 カント①「カントとフランス革命 ―なぜカントは抵抗権を否定したのか―」

Ⅰ.後進国の優位

 ドイツは宗教改革後、30年戦争の戦場となることによって、政治・経済的発展から取り残され、ヨーロッパにおける後進国としてその歩みを進めていきました。一般的にいえば、政治や経済の進んだ国が、学問や文化に関しても他国をリードしていくものです。逆に後進国の方は、学問や文化についても遅れをとり、先進国ですでにできあがった思想を受け容れ、その大きな影響を蒙りながら後追いしていくことになります。しかしながらそれはあくまでも一般的な話であって、時として例外現象が起こることがあります。特に思想の世界においては、後進国における真摯な思惟の営みが、先進国の思想を凌駕するということがしばしば生じるのです。たしかに後進国にとっては、先進諸国の現状や先進思想の斬新さは偉大なるお手本となります。しかし同時に後進国にいる者には、先進諸国においてすでに生じ始めている様々な矛盾や、先進思想が陥る行き詰まりなどがあらかじめ見えているわけです。たしかに自分たちはその後を追っていっているわけだけれども、その行き着く先が見えているのだとしたら、むざむざと同じ道をたどる必要はないのであって、そうした限界点をも突破できるような新たな道を切り拓けばよい。政治や経済に関してはなかなかそううまくいくものではありませんが、こと思想の世界においては人間の創造性が最大限に本領発揮されうるのです。
 18~19世紀のドイツにおいて、後の時代をリードしていくような思想が生み出されえたのも、こうした 「後進国の優位」 という逆転現象によるものと思われます。

Ⅱ.理想と現実の二元論 ―カントの社会契約論―

 18世紀ドイツの哲学者カントは、理想と現実の緊張関係をとことんつきつめて考えました。主著の 『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』 の三部作では、人間の理性能力が提供する純粋な観念と、我々の外なる現実の世界とを截然と区別した上で、両者がいかに関連しあって豊かな経験の世界を作り上げているか、そして両者のバランスが崩れたときに人間がどれほど道を誤ってしまうかを、カントは徹底的に論じたのです。
 カントは晩年、社会問題についても積極的に発言していきましたが、その場合にも、理想と現実の緊張関係がカントの主要テーマでした。国家のあり方を考えていくとき、ホッブズやロック同様、カントも社会契約説を採用しています。社会契約説とは、国家がまだ存在しない自然状態というものを想定し、そこで自由で平等な個人どうしが、互いの安全と利益のために、相互に契約を結ぶことによって国家は作られたのだ、と考える思想です。この社会契約説は、国家は国民のために存在するのだということをラディカルに宣言した、ひじょうに進歩的な思想でしたが、問題点として、社会契約が歴史的事実として実際にあったのか、それともたんに理論上そう想定してみているにすぎないのか、論者によってその区別が曖昧になってしまうことがありました。そこでヒュームなどは、社会契約を結ぶことによってつくられた国家なんて歴史上どこにも存在しないではないかと言って、社会契約説を批判しています。
 これに対してカントは、社会契約はあくまでも理想・理念であるということを強調します。理想・理念とは、理性が考え出したものであって、人間の頭の中にのみあるものにすぎません。とはいえ、好き勝手に考えつかれたたんなるイメージなどではなく、正しく理性を働かせていくならば、すべての人が至り着くことができるようなもの、たとえ人々が別々の考えをもっていたとしても、互いに感情的にならずに冷静に話し合っていけば、最後には合意できるような最終的結論のようなもの、それが理想であり、理念であります。社会契約も、このような意味における理念です。したがって、現実に社会契約にもとづいてつくられた国家が存在したかどうかはまったく関係ありません。よき国家とはどのようなものかということを、理性が真剣に考えていくならば、国家はあたかも、すべての国民の要求と合意 (すなわち社会契約) にもとづいてつくられたかのように組織され、運営されなければならないはずです。そのような理想的国家の理念 (共和制) は、現実の国家のあり方を改革していくためのモデルであり、我々人間にはその実現へ向けて努力していくという課題が課せられているのです。

Ⅲ.抵抗権・革命権の否認

 では現実の国家が理想の姿とかけ離れていた場合にはどうしたらいいのでしょうか。カントの時代はまさに革命の時代であり、カント哲学は当時の人々によって 「思想の世界における革命」 とも呼ばれていたほどなので、カントがフランス革命に対してどのような発言をするのか注目を集めていました。この問題に初めて言及したのは、フランスでルイ16世が処刑された直後のことでしたが、そこでカントは抵抗権・革命権を完全に否定したのでした。
 カントの抵抗権否認論は大きな衝撃をもって迎えられましたが、それが果たしたイデオロギー的機能は度外視して、その議論の組み立てにのみ着目するならば、純粋に哲学的に、批判倫理学の基本的枠組に忠実に構成されているのが見て取られます。まずカントは抵抗権・革命権という概念そのものの不合理性を指摘します。一般にカントは緊急権というものを認めません。緊急の場合だからといって不法に行為する権利があると言うのは矛盾です。理想的国家体制 (共和制) が実現されていないからといって、法・権利体系に背いたり、その源泉を根底から覆してしまうような権利を人民がもつと言うことは論理的に不可能なのです。
 それと同時に暴動や革命といった抵抗形態そのものの違法性が指摘されます。カントの言う法は、万人の自由を共存させ平和的市民的状態を成立させるための条件であり、それゆえ根源的に暴力とは対立する概念なのです。したがって理想的な法的状態の樹立をめざして為されるすべての行為もまた、非暴力的なものでなくてはなりません。すなわちカントは、理想をどのように実現していったらいいのかという手段の問題に関しても、徹底して理想的な方法を追求したのでした。

Ⅳ.フランス革命の評価

 ただしカントの抵抗権否認論は、ただちにカントがフランス革命を全否定したということを意味するものではありません。カントは最後の著作 『学部の争い』 の中で、フランス革命のことを、人類の進歩を証明する証拠であるとして、高く評価もしているのです。フランス革命の際に行われた様々なテロル (暴力行為) に関してはカントは否定しました。しかし、フランス革命の報に接してヨーロッパ中の傍観者たちが懐いた革命への共感を、カントは重視するのです。そこにカントは、人権とか共和制といった理念に対する共感が生じているのを見て取っています。つまりカントは、フランス革命という現実に起こった事件そのものやその成り行き、またそれによって生み出されたフランス共和制という現実の国家のあり方を絶対視してしまうことなく、それを背後で支えている理念・理想の方に着目するのです。人間理性は理念という名の完全なるモデルを手にしているが、有限な人間がつくりだす現実はどんなに素晴らしいものに見えようともけっして完全ではありえない。だからこそ理念の実現に向けて、人間は常に改善の努力を続けていかなくてはならない。このような理想と現実に関するカント的な二元論が、フランス革命に対する二重の評価にも現れていると言えるでしょう。


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