まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.人助けしたときの私は善い意志だったのでしょうか?

2020-06-15 16:38:25 | 「倫理学概説」
「倫理学概説」の遠隔授業に対して、授業内容に関わる質問をいただきました。
カント倫理学に関して学修した回の質問です。
簡単にまとめると標題のような質問だったんだろうと受け止めましたが、
正確には次のような長い質問でした。

「Q.以前、私は日本語がほぼ話せないベトナム人女性にある駅で話しかけられました。その女性の目的地までに乗り換えが発生するため、目的地まで到着するのは困難であると判断した私は、コロナが流行っている中で危険を顧みず、ただ助けたい気持ちだけで目的地まで同行しました。愚問であるとは思いますが、この場合善い意志に該当するのでしょうか。」

全然愚問ではありません。
いい質問だと思います。
まずは次のように端的にお答えしておきましょう。

A-1.もしも本当に質問文に書かれていた通りの状況であったとしたら、
    その時のあなたの行為は善い意志によるものと言えるでしょう!

素晴らしいです。
善意志そのものです。
最も重要なのは「ただ助けたい気持ちだけで」という部分です。
この「ただ~だけ」という文言を字句通りに受け取ってよいのだとするならば、
これこそまさにカントの言う「善い意志」にほかなりません。
ちょうど今朝の『エール』で音のお父さん(幽霊)が、
線路に落っこちた子どもを見て、ただ「身体が勝手に動いた」と言っていましたが、
そういう純粋な善意志のみによる人助けというのは、
なかなかできるものではありません。

さらにあなたの行為の道徳的価値を高めているのは、
「コロナが流行っている中で危険を顧みず」という部分です。
特に感染症や放射線などが蔓延していない平時においてですら、
上記のような人助けの行為は尊いものですが、
その行為を思いとどまらせるような試練・障壁が存在する中で、
にもかかわらずその行為が決行されたのだとしたら、
その価値は倍増するでしょう。
音のお父さんの場合は、
迫り来る列車を目にしながら助けに飛び込んだわけですから、
さらに価値は高まりますが、
コロナ禍の中での人助けはそれに近い価値があると言えるでしょう。

以上が公式の回答で、これだけでもいい気がするんですが、
せっかくですのでもう少し深掘りしておくことにしましょう。
さっきから「もしも本当に質問文に書かれていた通りの状況であったとしたら」とか、
「『ただ助けたい気持ちだけ』という文言を字句通りに受け取ってよいのだとするならば」と、
嫌みったらしい仮定法の条件を付けまくっているわけですが、
生身の人間の場合はここが本当に難しいのです。
「Q.心がキレイな人ってどんな人?」というブログ記事を読んでいただきましたが、
本当の本当に不純な動機がほんの少しでも紛れ込んでいないのかどうかというのは、
カントによると、自分自身ですら見通すことのできない深淵なのです。

今回の場合、相手が異性であるということをほんのわずかでも意識しなかったかどうか、
ひょっとして実は好みのタイプだったなんていうことがないかどうか、
あるいは相手が外国の方ということで、
そういう人を助けてあげている自分を誰かが見て賞賛してくれないだろうかとか、
あとでこれツイッターでつぶやいちゃおとか思っていなかったかどうか、
人目は関係なくとも自分の中で「俺、かっけー」とか思っていなかったかどうか、
ちょうど「倫理学概説」で『プレップ倫理学』の「3 義務」を読んだ直後で、
「これって善意志なんじゃね」と「小テスト」用の小ネタとして助けてあげたとか、
英語なら通じる相手だったけど、乗り換えを説明してあげられる英語力がなくて、
それぐらいなら目的地まで連れて行ってあげたほうが断然ラクだったんじゃないかとか、
私は根が不純な人間なもので、
「ただ~だけ」以外に含まれていたものが本当になかったのか、
いろいろ気になってしまって、とうてい字句通りに受け取ることができないのです。

「コロナが流行っている中で危険を顧みず」という部分に関しても、
本当にコロナのことを危険と思っているのか、
ふだんからそんなに気をつけているのか、
逆に3密回避を徹底していたので絶対に伝染らないという自信があったのではないかとか、
こちらもいくらでも疑問の余地はあるわけです。
こういう目で見ると、質問への答えも自ずと変わってきます。

A-2.あなたがフツーの生身の人間である以上、
    質問文に書かれていた気持ちだけによる行為というのは想定しづらく、
    あなた自身ですら気づいていない何らかの不純な動機が、
    まったく何一つ混入していないという可能性はきわめて低いと思われるので、
    あまり安易に善意志を自称しないほうがいいと思います。

さっきと比べて一気にイヤな感じのお答えになってしまいましたね。
私個人としてはさっきのA-1でいいんですが、
純粋かつ高潔な動機説の倫理学を打ち立てたカントの立場を堅持するならば、
カント主義者としてはやはりA-2のお答えも示しておく必要があるでしょう。

さらにもうひとつ、カント主義者として考えておかなければならない問題があります。
教科書ではカント倫理学の特徴のひとつとして「人格主義」に触れられていましたが、
カントは人格について語る際、「性格」というものを重視しています。
「義務論」の立場で考える場合は個々の行為が重要になってきますが、
「人格主義」の側面を強調すると個々の行為ではなく、
その人間の性格が重要になってくるわけで、
その観点からするとカントは限りなく徳倫理学に近づいていきます。
(このへんの話は教科書では触れられていませんでした。)
そうすると、今回のような1回限りの行為を行った意志を、
「善い意志」と評価してしまっていいのかという問題が生じてくるのです。

たしかにあなたはその日そのベトナム人女性を助けてあげたかもしれませんが、
別の日に日本人おじいさんがあなたが座っている電車の席の前にやってきたとき、
寝たふりをして席を譲ってあげなかったかもしれません。
受験の前日、最後の追い込みをしているときに、
突然弟から相談事を持ちかけられ、
「今日はごめん」と言って相談に乗ってあげなかったかもしれません。

道徳法則(=定言命法)に従って、いつもいつも危険や不利益を顧みず、
ただ助けてあげなきゃという義務感にもとづいて誰であれ助けてあげているのなら、
それはたしかに善い意志と言えるでしょう。
しかし、たまたまある時に本当に純粋な動機から善行を行ったとしても、
それ以外の時は不埒な悪行三昧に明け暮れている人間がいたならば、
その人のことを善い意志とはとうてい呼ぶことはできないでしょう。
そこまで極端でなくとも、たまたまできた時もあったけど、できなかった時もある、
みたいなごくフツーの人間に対して、できた時のことだけを取り上げて、
この時のこの人の意志は善い意志であると評価していいのでしょうか。
カントはこの問題に関して、
善意志と関連づけて明言はしていない(と思われる)のですが、
カント倫理学全体の構成を考えるならば、
それは善意志ではないと理解すべきだと私は考えています。
というわけで3パターン目のお答えです。

A-3.その行為自体は善い行為であったと思いますが、
    その1回の行為だけを取り上げて善い意志かどうかの判断はできません。
    それ以外の時も含めて常にどういう行為を心がけているのか、
    あなたの人格を決定する性格がどのようなものかを見極めないと、
    善い意志であるかどうかはわかりません。

やはりカント倫理学は厳格主義(リゴリズム)ですね。
説明すればするほどみんながカント嫌いになるのじゃないかと心配になります。
とはいえ、みんなに好きになってもらおうと思ってウソをつくのは義務違反ですから、
カント主義者として義務であるがゆえに真実をありのままに説明するしかないですね。


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