
「さかさま映画論 地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい」(角川文庫)
寺山修司が映画について語っている本です。特に読み応えがあるのは、黒澤明の「どですかでん」、ジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」、フェデリコ・フェリーニの「サテリコン」「81/2」、今村昌平の「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」、大島渚の「少年」といった、すでに鬼門に入った方もいる巨匠と呼ばれる監督が創った名作の誉まれも高い作品を独自の視点で切り込んでいくところ。そのほとんどの作品をボクも観ているが、その何本かはかつて観た映画のマイ・ベスト・テンにも入れたい作品があり、映画の偉大さを感じずにはいられないものばかり。とても寺山修司のように観ることなんかできない?
しかし、寺山は映画作品そのものについて言及してゆくというより、作品をきっかけに思考を自由に巡らしているといった風で、いつもの寺山節エッセイの世界へと引っ張り込んでいく。映画評論家はもちろんその作品についていろいろと述べるわけだが、寺山のそれはあくまで彼の世界を述べたいがゆえの手段でしかない、そんな印象をうける。同じアートの創り手として、そして自らも映画を創った寺山は一向に作品の批評など関心がないように見えるも、作品に対してわずかばかりの文字でけっこうシビアなことも織り込んでいたりしている。それがやっぱり寺山らしく、この本の魅力となっているのだと思った。

◆寺山語録~「地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい」より~◆
“私が生まれてはじめて飛行機に乗ったのは二十三歳の時である。それは鳥人のイメージとは全くかけはなれて、東海道本線の列車が空中に浮かびあがったという感じしかなかった。私は「これではない」と思った。「私が長い間のぞんでいた空の高さはこんなものではないのだ。これはただの空輸にすぎない。私たちは、運ばれるものになって、フライバシーとは全く無縁の状態で空中にいるのだ」”
“建たなかったビルの歴史、起こらなかった戦争の歴史、しなかったセックスの歴史”
“いまではこの荒野(性)も文化のトラクターですっかり平らにされてしまい、人は何事にも馴れてしまった。そして私がここに「おまんこ」だの「おさね」だのと書いても、人はまるで山本周五郎の小説の主人公の名のように、あっさりと読みすごしてしまうだろう。”
“社会的規範に対して以上であるということよりも、与えられた正常さによって自らの存在を歪めてゆくということのほうが、はるかに異常である。欲望も存在の一因なのであり、存在によって先行されない正常論などは、説明的なだけで不毛である。”
“「追放すべき父がいなかったために、母とネルことができなかった」ことへの恨みつらみが他人の父への報復となり、家長制度への挑戦となり、ひいては「家出のすすめ」となったのかもしれない。”
“言葉は体験の肉であり、皮である。”
“土着と近代化とは、必ずしも対立する概念ではない。土着は、一口に言えば血族の確認であり、親戚をふやしてゆくという思想であり、近代化は混血を進めてゆくことによって、親戚を否定してゆくという思想にほかならない。(人間は土着するが、決して「近代化」などすることはない。近代化するのは、人間ではなく環境だからである)”
“私はなにごとにつけて勝負ごとが好きだった。私はさまざまなのものに勝ちたかった。勝つための手段は思想にならないが「勝利」は思想だからである。”
“必然的な人生なんて信じられるものだろうか?どんな確実な売買契約だって、女の愛だって作られた偶然にすぎないのではないだろうか?”
“芸術家の主体とは社会的効用から逆算されるものではなくて、むしろ「完璧な道具」であることによって社会的な機能をもちうる。”
“「空想のなかで母親を殺す」のは、あくまでも「空想の暴力」の自立性であって、それ自体で充分に個人の現実原則との釣り合うだけのダイナミズムを持ちうるのである。だからこそ、詩や映画に賭ける意味があり、空想過程のなかにだけたぐられる、もう一つの歴史の有効性といったことが語られるに価するのだ。”
“オナニーは、まさに空想の拡大と、実感による個の回収といったところの、下現実的、超現実的な過程を私たちに示してくれるように思われる。”
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本当に「あの人」でいいの?



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寺山修司が映画について語っている本です。特に読み応えがあるのは、黒澤明の「どですかでん」、ジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」、フェデリコ・フェリーニの「サテリコン」「81/2」、今村昌平の「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」、大島渚の「少年」といった、すでに鬼門に入った方もいる巨匠と呼ばれる監督が創った名作の誉まれも高い作品を独自の視点で切り込んでいくところ。そのほとんどの作品をボクも観ているが、その何本かはかつて観た映画のマイ・ベスト・テンにも入れたい作品があり、映画の偉大さを感じずにはいられないものばかり。とても寺山修司のように観ることなんかできない?
しかし、寺山は映画作品そのものについて言及してゆくというより、作品をきっかけに思考を自由に巡らしているといった風で、いつもの寺山節エッセイの世界へと引っ張り込んでいく。映画評論家はもちろんその作品についていろいろと述べるわけだが、寺山のそれはあくまで彼の世界を述べたいがゆえの手段でしかない、そんな印象をうける。同じアートの創り手として、そして自らも映画を創った寺山は一向に作品の批評など関心がないように見えるも、作品に対してわずかばかりの文字でけっこうシビアなことも織り込んでいたりしている。それがやっぱり寺山らしく、この本の魅力となっているのだと思った。

◆寺山語録~「地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい」より~◆
“私が生まれてはじめて飛行機に乗ったのは二十三歳の時である。それは鳥人のイメージとは全くかけはなれて、東海道本線の列車が空中に浮かびあがったという感じしかなかった。私は「これではない」と思った。「私が長い間のぞんでいた空の高さはこんなものではないのだ。これはただの空輸にすぎない。私たちは、運ばれるものになって、フライバシーとは全く無縁の状態で空中にいるのだ」”
“建たなかったビルの歴史、起こらなかった戦争の歴史、しなかったセックスの歴史”
“いまではこの荒野(性)も文化のトラクターですっかり平らにされてしまい、人は何事にも馴れてしまった。そして私がここに「おまんこ」だの「おさね」だのと書いても、人はまるで山本周五郎の小説の主人公の名のように、あっさりと読みすごしてしまうだろう。”
“社会的規範に対して以上であるということよりも、与えられた正常さによって自らの存在を歪めてゆくということのほうが、はるかに異常である。欲望も存在の一因なのであり、存在によって先行されない正常論などは、説明的なだけで不毛である。”
“「追放すべき父がいなかったために、母とネルことができなかった」ことへの恨みつらみが他人の父への報復となり、家長制度への挑戦となり、ひいては「家出のすすめ」となったのかもしれない。”
“言葉は体験の肉であり、皮である。”
“土着と近代化とは、必ずしも対立する概念ではない。土着は、一口に言えば血族の確認であり、親戚をふやしてゆくという思想であり、近代化は混血を進めてゆくことによって、親戚を否定してゆくという思想にほかならない。(人間は土着するが、決して「近代化」などすることはない。近代化するのは、人間ではなく環境だからである)”
“私はなにごとにつけて勝負ごとが好きだった。私はさまざまなのものに勝ちたかった。勝つための手段は思想にならないが「勝利」は思想だからである。”
“必然的な人生なんて信じられるものだろうか?どんな確実な売買契約だって、女の愛だって作られた偶然にすぎないのではないだろうか?”
“芸術家の主体とは社会的効用から逆算されるものではなくて、むしろ「完璧な道具」であることによって社会的な機能をもちうる。”
“「空想のなかで母親を殺す」のは、あくまでも「空想の暴力」の自立性であって、それ自体で充分に個人の現実原則との釣り合うだけのダイナミズムを持ちうるのである。だからこそ、詩や映画に賭ける意味があり、空想過程のなかにだけたぐられる、もう一つの歴史の有効性といったことが語られるに価するのだ。”
“オナニーは、まさに空想の拡大と、実感による個の回収といったところの、下現実的、超現実的な過程を私たちに示してくれるように思われる。”
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