飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

演劇公演「サド侯爵夫人」(出演:篠井英介)

2008-10-31 | マルキ・ド・サド
「サド侯爵夫人」

■日時:2008年10月26日(日)14:00~
■劇場:東京グローブ座
■作:三島由紀夫
■演出:鈴木勝秀
■出演:篠井英介、加納幸和、石井正則、天宮良、他

昨日も書いたとおり三島由紀夫の戯曲「サド侯爵夫人」を事前に読んでから、このお芝居を観に行きました。(あるいは三島がそれを書く動機になったという澁澤龍彦の本に関することも以前に書いた)で、読後の感想は昨日の記事のとおり、それが舞台ではどんな印象になるのだろうか、楽しみに劇場のある新大久保へ。

東京グローブ座に足を運ぶのは何年ぶりだろう。少なくとも10年以上の月日が経っていることは間違いない。たしかこの劇場は開館当初はシェイクスピア劇専門のコンセプトを持つ劇場として、バブル経済の象徴的な存在であったように記憶している。劇場のロゴにはシェイクスピアの顔のイラストもあった。それがバブル崩壊により、スポンサーであった企業も離れていった。そんな激動を乗り越え現在もその役務を果たしているわけだ。久しぶりであっただけに中に入ったときはがんばれと心の中で言った。



この三島の戯曲は読むとわかるが、登場人物が少ない上、台詞が叙情的とも言える詩的な表現に満ちている。(⇒観客からすれば、それをしっかりと聞き取り具体的なイメージへと変換していくことが要求されるだろう)おまけに、ひとつひとつの台詞が長いときている。場面展開もない。(⇒観客は台詞中心で視覚的にはほとんど変化がない中で集中力の持続を要求されるのだ)その中で、役者は、劇に不在のサド侯爵についてその人物像を浮き上がらせていかねばならない。(⇒役者は長尺で詩的な装飾を纏った台詞を間違えずに、飛ばさずに、尚も観客のイメージに訴えかける演技力の底力を要求されるだろう)だいだいサドについての予備知識がないと、台詞に出てくる彼が起こした事件や登場人物がそれぞれどんな立場であったかが、時間を経過しないとわからないだろう。(⇒一般の観客はサドについてどれほどのことを知っているだろうか。せいぜいSMのサディズムの語源となった人物程度で、それさえも怪しいのではないだろうか)そんな悪条件?が揃っているのがこの「サド侯爵夫人」と見ることもできるのだ。

幕が上がると舞台装置は非常にシンプル、抽象的であった。これは観客の意識を役者の演技に集中させるためかなとも思う。登場人物はすべて女性、それをすべて男性が演じる。倒錯的な感じもしないでもないが、グローブ座という広い空間ではその方がいいだろう。演技ではやはり、篠井英介と加納幸和が、頭ひとつ抜きんでいたように思った。演技のひとつひとつに魅せられた。

しかし、一方で過酷な?劇空間のためか観客席には、まったりとした空気も一部で流れていたのは事実であった。とくにボクの横にいた人は半ば放棄したように二幕目以降は睡眠状態へと入っていた。斜めまえの客も頭を何度もこっくりこっくりさせていた。演じる方は相当きついだろうが、観るほうもちょっときつい。ボクも正直ほんの一瞬だが意識が飛んだ。

この「サド侯爵夫人」は、非常に豊穣な演劇であることは間違いない。だから観る方も覚醒状態である必要がある。覚醒しているとその凄みが伝わってくる。時間をわすれシビレさせてくれる。ボクの場合は、一幕目はややまったりとしていた。しかし二幕目は意識が覚醒状態で臨むことができ、台詞のひとつひとつが鳥肌もんであった。特に主役を張った加納幸和が独白する所は、さすがというか目眩がするような感覚に陥った。

「サド侯爵夫人は、サドに対してロマン溢れる人物像を、きっと己が生きていくために創りあげねばならなかったのであろう」と昨日の本を読んだ感想をボクは書いた。しかしそれより印象に残るのは、 革命によりバスチーユの監獄から開放されたみすぼらしい身なりで醜く太ったというサドの受け入れを舞台中央にたち正面を向ききっぱりと毅然と拒否した夫人の姿であった。それをどう受け止めていったらいいか少し時間がかかりそうだ。


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6 コメント

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TBありがとうございました。 (どら猫)
2008-11-14 00:22:11
飾釦様、はじめまして。
陋屋にTBをありがとうございました。
舞台はとても素敵だったのですが、少々疲れました。観客にも要求の多い戯曲ではあります。
今後とも、よろしくお願いします。
コメント (飾釦)
2008-11-15 16:35:50
ありがとうございました。「サド侯爵夫人」は台詞が中心なので疲れますよね。高いお金を払って神経を衰弱するという・・・。

ところで、どら猫さんのブログはかわいいですね。
天守物語行きたかった (とみ)
2008-11-30 00:41:37
>飾釦さま
音楽のように聞き流す演出も好きですが、今回のような演出も震撼でよかったです。
もう、ひと月、憂国忌もすぎましたが、やっと書き上げました。よろしかったみておくれやす。
とみ様 (飾釦)
2008-11-30 10:34:51
コメントありがとうございます。切れるようなとみ様の記事を拝読しました。くわしくはとみ様のブログに書きましたので、そちらをご覧くださいませ。
結論整理しました (とみ(風知草))
2008-12-03 07:18:34
>飾釦さま
若干修正しました。
マイ論述は、鈴勝×篠井が戯曲をどう読み説きどう上演したかに絞っています。
マイ三島論にまで言及するには力不足ですが、概ね鈴勝さん方に賛同しています。
興が乗れば書き切れるような気もしますが…。
読みました (飾釦)
2008-12-03 23:37:58
とみ様

若干の修正をされたのですね。興味深く読みました。

私はもうこの芝居は忘却の彼方になってしまっているのですが、思うに、男性の三島が女性だけの芝居を書き、登場人物が女性という設定を男性が演じるという配置。そして文字だけでも成立するんじゃないのという装飾された言葉の世界をを、わざわざ役者、それも男性の、を使って3次元の世界に劇化するという逆説。一箇所の場所の展開であるからリアルな舞台装置でもいいのが、抽象的な舞台。しかし衣装はわかりやすいリアルなもの。さんせいのはんたいではないが、演出家は無意識に深刻ぶった天才バカボンの世界を創り出してしまったのではないかと思ったりします。というのも膨大な台詞を覚え熱演する舞台上の役者とそこで語られる豊饒で微妙な感性の世界。それとは裏腹に観客席は、まったりとした状態に・・・。つまりお金を払って居眠りしにきたという。これらが裏「バカボンのパパ的世界」見えてしまうのです。だから最後にミエを切ったサド夫人は「はじめちゃん」が一瞬露呈してしまったと、そう納得することにしました。(かなり無茶苦茶なこじつけですが)

※同じコメントをとみ様のブログにもいたしました。

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