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ハノイの空は燃え、私たちの心も喜びに燃えた

2012-12-30 | ラジオ
ベトナムではハノイ上空のディエンビエンフーの勝利から40周年を祝っている。この出来事をロシア人のベトナム戦争の専門家たちも思い起こしている。
1972年秋、ベトナム民主共和国・北ベトナムとアメリカの間には、戦闘行為の停止を巡って交渉が行われていた。
ところがこの交渉の行方はアメリカの政治家、軍人たちの望むものではなかった。
北ベトナム指導ふ(?)譲歩を強要しようとアメリカは、インドシナにおける戦争史上最大の空中作戦ラインベーカー2を計画、実行する。

この作戦には800機を越す軍用機が参加し、これをアメリカ第7艦隊が海から援護した。
12月18日から30日、ハノイとハイフォンでは昼夜を問わず、じゅうたん爆撃が行なわれた。主な攻撃力はB52だ。このB52に迎撃機、攻撃爆撃機が追従し、当時、低空飛行を行なうことのできる最新の航空機F111が加わった。
これらの爆撃機の課題はベトナムの対空防衛を様々に妨害し、圧力を加えることにあった。このため使われたのはミサイル・シュレイクだ。
これはベトナムのミサイル設備のレーダー波をキャッチすることで、レーダー施設を攻撃するというものだった。

1972年から1975年、ベトナムでソ連軍の専門家グループを率いていたアナトーリ・ヒュペネン大将は当時を振り返り、次のように語っている。
「ベトナム軍司令部の主な課題はB52を潰すことだった。ところがこの課題は容易いものではない。おびただしい数の軍用機が飛び交い、あらゆるところでレーダー妨害が行なわれているなか、撃墜することを想像してみてほしいものだ。
ところがこの苦しい条件のなかでベトナム人たちはB52を見つけ出し、撃墜していった。B52を探し出すために使われたのは翼に取り付けられたレーダーのみ。攻撃ポジションを変え、カモフラージュをし、偽のミサイルが発射され、新たな設備が使われた。
ベトナム軍は81機を撃墜したが、そのうち34機がB52だった。ハノイ上空が真っ赤に燃えた様子は恐ろしいだけではなく、喜ばしい光景だった。攻撃機が打ち落とされたのだから」
当時1972年から75年当時(なんだこりゃ)ベトナムでソ連軍の専門家グループを率いていたヒュペネン大将の発言だ。

この勝利への最初の一歩は1965年の7月にすでに行われていた。ソ連の高高度対空ミサイル・ドゥヴィーナが米軍機を初めて撃墜したのだ。これについて、ベトナム戦争参戦者地域間社会団体組織のコレスニク代表は、次のように語っている。
「ソ連の専門家たちはベトナムの普通の子どもたちに教育を施した。そういった子どもらの大半は自転車よりも複雑な機械を知らない子どもたちだったが、その子たちが最新の地対空ミサイルを操縦できるよう仕込んだのだ。しかも勉強机に座らせて教え込んだのではない。アメリカ軍機の飛来する合間をぬって教えたのだ。
そしてこの子どもたちは習得し、その後人間の限界を超えて戦った。なぜならなんとしても勝利を手に入れたかったからだ」
コレスニク代表は、このように発言している。

ラインベーカー2作戦は失敗に終わった。インドシナにおける米空軍の10%が撃墜されたからだ。対空防衛の勝利をベトナム人たちは、フランスにレジスタンスを行なった第1次ベトナム戦争の終焉となったディエンビエンフーの勝利と同等に捉えた。
1972年12月の12日間におよぶベトナムの対空防衛と空軍の働きは、防衛作戦の輝かしいお手本として軍事教練の教科書に載せられている。
ハノイ上空のディエンビエンフーの勝利はアメリカの暴力に終止符を打った。
翌1973年の1月、ベトナムの提唱する条件で戦争の終結とベトナム和平復興の条約が締結されている。

「北ベトナム指導ふ」とは、どんな豆腐なのだろう
「当時1972年から75年当時」舌がもつれるベテラン女性アナウンサーらしい言葉だね

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12月26日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル