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植松聖の事件から2年。

2018-09-11 00:00:09 | 社会
植松聖のやまゆり園での大量殺戮から2年が過ぎた。追悼式に参列した神奈川県知事の黒岩祐治氏は事件の風化に

危機感を募らせた。事件後も未だに被害者の名前が公表されず「差別」の言葉がつきまとっている。犯人の植松聖

被告は「人では無いから殺人ではない。」と横浜拘置支所内で発言している。反省している様子は無いが罪は認めて

いる。一体なんだったのだろうか? 19人もの死亡者を出した大事件はオウムの地下鉄サリン事件や秋葉原通り魔事件

のように日々の生活の中で頭の片隅に残るような恐怖心を人々に与えない。それは植松が自首したからだろうか

それとも被害者が特殊な障害者だったからだろうか。米国で度々起こる銃乱射事件による無差別殺人テロの方が人々を

不安にさせるのは自己本位に生きる事が当たり前だからか。やまゆり園の事件は最初の報道では戦後最大の被害者数を

出したことで日本中を震撼させたが時間が経つにつれて一般的では無い特殊な他人事のように整理されてしまった。 

報道の冠言葉に何度も“障害者施設”“障害者施設”“障害者施設”津久井やまゆり園と何度も聞かされていく内に

これは障害者施設の話で私の住む世界とは違う所で起こった事件と考えるようになった。



精神病院で50年以上入院する精神病患者の数が2017年6月の時点で1773人いることが毎日新聞の調査で解った。

20年以上の入院となると2万5932人に上る。もしも植松聖被告が精神病患者の長期入院の実体を充分に知っていたと

したら植松の犯行声明からはそう遠くは無いところに現実がある。事件から2年経ち誰しもが今一度考える必要がある。

想像を絶する精神病患者の実態の恐ろしさ。加害者の植松よりも被害者の親族の方が障害者だからと世間体を気にして

いる今の世の中。一枚裏を返せば被告の植松聖も被害者の精神障碍者もどちらも社会悪として見られているので相殺で

利害関係の帳尻があってしまう価値観があることは間違いでは無いような気がする。昔の言葉で言えば口数を減らすと

して姥捨て山があったように一方的に否定はできないのが植松の犯行だ。しかしそれを障害者の「命の軽さ」として

利用して個人の利益や欲望を満たす為に使うことと同一視してはいけないし障害者側を擁護しすぎてもイケない。



植松被告が自分の刑期の長さを20年程度だと見積っているようで、有罪の認識もあり意外としっかりとした部分も

見せている。警察側は内心では植松を一生外に出したく無いと考えているだろう。彼が犯行前に手紙で犯行声明を出して

いた事を踏まえると裁判になれば事件は防げたかもしれないと議論になるだろう。そうすれば自民党にも何らかの問題が

発生してくる訳でそれを敬遠していると思われる。 常々一般社会ではグレーゾーンとして認識され問題視されてきた精

神障碍者の犯罪などに法のメスが入るとなるとその判例には大きな責任がある。法的な根拠として植松被告を重罪が妥当

なのか、それとも植松の言う通りに「殺したのは人では無い」が通用して罪が軽くなるか裁判が注目される。 


被害者が障害者だったので一般人を殺害するよりは罪は軽くなるだろうしかし余りにも多くの人を殺し過ぎたので重罪が

妥当な判例になってしまうかもしれない。個人的には選挙では選挙区によって一票の重さが違うように命の重さにも差が

あるのは当然だと思う。しかし裁判所はそこまで深く倫理観には踏み込まないと思う。

物事を客観的に捉え命の価値が軽かろうが重かろうが19人殺害は重罪です。天秤にかけるのは事の重大さ罪の重さです。

命の重さでは無い。だから知的障害者の命の価値ではなく、精神障碍者の犯罪をどうすべきか裁判所は考えるべきなのです。

犯罪を起す恐れのある精神病患者は強制的な措置入院や医療機関の保護入院をもっと有効活用するべきだと思う。










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