土曜日に福島の陽子ちゃんから電話が。
夏目さんのお父さんから電話があって、
「裕ねえ」が亡くなった。
え?気が動転して裕代ちゃんのお父さんが亡くなった!
と勘違いした私・・・その後フェイスブックに陽子ちゃん
がアップした内容を読んで勘違いに気がつく。
7月の頭に岐阜で行われた在宅血液透析研究会に発表者
としてうかがった時に小野木ご夫妻と一緒に食事をした。
具合悪そうだったけれど楽しく歓談したのが最後になった。
彼女は2002年に秋田県能代市で行われた
第12回日本移植者スポーツ大会のお手伝いのために、廣川陽子ちゃんと
二人で早くから能代市にやってきて、運営のお手伝いをしてくれた大恩人。
1992年は私が弟から腎臓の提供を受け生体腎移植を受けた年。
同じ年に夏目裕代ちゃん、廣川陽子ちゃんもオーストラリアの同じ
ところで脳死からの肝臓の移植を受けた「移植同期」の仲間でした。
僕は早々と17年で移植腎がダメになり再透析になりましたが、この
二人は移植した肝臓には問題なく元気に過ごしていました。よく電話
で私の事を心配してくれていました。
彼女は移植後看護師の資格を取り、岐阜の松波病院でレシピエント
コーディネーターの仕事をして、移植者のためにと働いていた頑張り
やさんです。
そんな彼女には血液の難病があり、定期的にオーストラリアで治療を
受けていたのですが、そんなことは微塵も感じさせない素敵な笑顔で
いつも私たちを元気づけてくれていました。
訃報を聞いて居ても立ってもいられなくなり、午後6時から透析をして
午後9時半に家内を伴って秋田を車で出発。日本海周りで、山形→新潟
→長野 松本市に到着が午前4時。そこでホテルに入り3時間だけ仮眠。
午前8時に出発して→岐阜→愛知→静岡から三ヶ日到着。
日本移植者協議会の仲間、原田氏と駅前で待ち合わせて一緒にご自宅へ。
まだ岐阜から運ばれたばかりのご遺体を前にお母様とお兄様から詳しく
お話をお聞きしました。彼女の周りには沢山の写真が。オーストラリアで
移植を受けた頃の写真、看護師になったときの記念の写真、沢山、沢山
の写真を一枚一枚一緒に見て、昔の記憶を蘇らせ、私の知っている限りを
ご家族に伝えました。また沢山の彼女の思い出話を聞きました。
まだこれからなのに。結局彼女は急性白血病を発症し、腎不全になり
呼吸が出来なくなり、最後は人工呼吸器で話すことも出来なくなり、そこで
脳梗塞をおこして息を引き取ったとのことでした。
お兄様からお聞きしました。
アパートを整理していたら、どうも死期を察していたのか、今年に入り
多くの方に順番にお会いしていたようだというのです。そういえば5月には
福島にオーストラリアで一緒に移植を受けた方と一緒に廣川陽子ちゃんを
訪ね、温泉で一泊したの聞いて居た。その他にも具合の悪い中、想い出を
たどるように友人を訪ねていたようです。
僕は7月に最後に食事をしたとき、「裕ねーは一杯苦労してきたのだから
必ず幸せにならないといけないよ」「僕はいつでも応援しているからね」
と言ったときに寂しそうに笑っていた顔が忘れられない。
僕と食事をして3日後に彼女から電話で「具合が悪くなったので入院します。
元気になったらまた電話するからしばらくは音信不通になります」と。
そして松波病院に入院をして1週間後岐阜医大へ搬送されICUから出ることは
なかったそうです。
あのときもっと話しておけば良かったと思うも後の祭り。
裕ねー、本当にお世話になりました。あなたのお陰でとても楽しい時間を
過ごすことが出来ました。ありがとうございました。
どうか生まれ変わって来るときは健康で元気な女の子で過ごされますことを
心よりお祈りいたします。
裕ねーのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
さようなら。安らかにお眠り下さい。どうもありがとう。
夏目さんのお父さんから電話があって、
「裕ねえ」が亡くなった。
え?気が動転して裕代ちゃんのお父さんが亡くなった!
と勘違いした私・・・その後フェイスブックに陽子ちゃん
がアップした内容を読んで勘違いに気がつく。
7月の頭に岐阜で行われた在宅血液透析研究会に発表者
としてうかがった時に小野木ご夫妻と一緒に食事をした。
具合悪そうだったけれど楽しく歓談したのが最後になった。
彼女は2002年に秋田県能代市で行われた
第12回日本移植者スポーツ大会のお手伝いのために、廣川陽子ちゃんと
二人で早くから能代市にやってきて、運営のお手伝いをしてくれた大恩人。
1992年は私が弟から腎臓の提供を受け生体腎移植を受けた年。
同じ年に夏目裕代ちゃん、廣川陽子ちゃんもオーストラリアの同じ
ところで脳死からの肝臓の移植を受けた「移植同期」の仲間でした。
僕は早々と17年で移植腎がダメになり再透析になりましたが、この
二人は移植した肝臓には問題なく元気に過ごしていました。よく電話
で私の事を心配してくれていました。
彼女は移植後看護師の資格を取り、岐阜の松波病院でレシピエント
コーディネーターの仕事をして、移植者のためにと働いていた頑張り
やさんです。
そんな彼女には血液の難病があり、定期的にオーストラリアで治療を
受けていたのですが、そんなことは微塵も感じさせない素敵な笑顔で
いつも私たちを元気づけてくれていました。
訃報を聞いて居ても立ってもいられなくなり、午後6時から透析をして
午後9時半に家内を伴って秋田を車で出発。日本海周りで、山形→新潟
→長野 松本市に到着が午前4時。そこでホテルに入り3時間だけ仮眠。
午前8時に出発して→岐阜→愛知→静岡から三ヶ日到着。
日本移植者協議会の仲間、原田氏と駅前で待ち合わせて一緒にご自宅へ。
まだ岐阜から運ばれたばかりのご遺体を前にお母様とお兄様から詳しく
お話をお聞きしました。彼女の周りには沢山の写真が。オーストラリアで
移植を受けた頃の写真、看護師になったときの記念の写真、沢山、沢山
の写真を一枚一枚一緒に見て、昔の記憶を蘇らせ、私の知っている限りを
ご家族に伝えました。また沢山の彼女の思い出話を聞きました。
まだこれからなのに。結局彼女は急性白血病を発症し、腎不全になり
呼吸が出来なくなり、最後は人工呼吸器で話すことも出来なくなり、そこで
脳梗塞をおこして息を引き取ったとのことでした。
お兄様からお聞きしました。
アパートを整理していたら、どうも死期を察していたのか、今年に入り
多くの方に順番にお会いしていたようだというのです。そういえば5月には
福島にオーストラリアで一緒に移植を受けた方と一緒に廣川陽子ちゃんを
訪ね、温泉で一泊したの聞いて居た。その他にも具合の悪い中、想い出を
たどるように友人を訪ねていたようです。
僕は7月に最後に食事をしたとき、「裕ねーは一杯苦労してきたのだから
必ず幸せにならないといけないよ」「僕はいつでも応援しているからね」
と言ったときに寂しそうに笑っていた顔が忘れられない。
僕と食事をして3日後に彼女から電話で「具合が悪くなったので入院します。
元気になったらまた電話するからしばらくは音信不通になります」と。
そして松波病院に入院をして1週間後岐阜医大へ搬送されICUから出ることは
なかったそうです。
あのときもっと話しておけば良かったと思うも後の祭り。
裕ねー、本当にお世話になりました。あなたのお陰でとても楽しい時間を
過ごすことが出来ました。ありがとうございました。
どうか生まれ変わって来るときは健康で元気な女の子で過ごされますことを
心よりお祈りいたします。
裕ねーのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
さようなら。安らかにお眠り下さい。どうもありがとう。
実は ごく最近このブログを見つけ 夏目さんの訃報を知りました。
18年間 ずっと彼女の担当をして 彼女の人柄に触れ 多くの勇気を頂きました。
いつも、くだらない僕の話を笑顔で聞いてくれました。
春ぐらいから、彼女の体調が目に見えて悪く感じ、尋ねると 時々輸血してるとか薬を試してるとか話してくれました。注射痕もすごかった。
あまり ご自分の病気の事は口にはしなかったので詳しくは分かりませんでしたが 、今までとは違う深刻な状態と感じました。そんな状態でも悲愴感を感じさせない夏目さんの強さを改めて感じました。
7月9日を最後に来店時期を過ぎ もしや、と思い 検索し大変ショックを受けました。
でも このブログのおかげで、夏目さんの情報を知ることが出来、 感謝しております。
彼女の言葉で印象に残ったのは、
なるようにしかならない 。
いつ死んでも悔いはない。
ずっと前から死を意識しながら 時間を大事にされていたように思います。
彼女を知る人に僕の話を聞いてもらいたくて投稿しました。稚拙な文章でスミマセン。
はじめまして。コメントありがとうございます。
裕代さんにもお気持ちが伝わっていることと思います。私は仲間からの訃報が届きましたのでお別れをすることが出来ましたが、梅村様にはご無念が残っていることと存じます。
ご家族も携帯電話の情報しか持ち合わせがなく、どこにお知らせすればよいのか判らないようでした。
最後までご自分の身体のことより私たち周りの人を元気づけてくれた人でした。生まれ変わったら本当に幸せな日々を送って欲しいと心から思っているところです。
夏目さんのお兄様からYouTubeのアドレスが来ております。ご覧いただければ幸いと思います。メールアドレスがわかれば添付するところでありますが、下記におきます。
松村様のますますのご健勝を心よりご祈念申し上げます。コメントありがとうございました。
村越拝 合掌
Youtube(お別れメッセージ):https://youtu.be/N3zNkSN2fnU
お兄様からの添付ファイルでのご挨拶
妹のヒロヨは昭和四三年にここ三ヶ日で生まれ、この地で育ちました。
地元の高校を卒業後は、遠州鉄道のホテルコンコルド浜松に就職しました。
その頃は皆さんには想像がつかないと思いますが、
中型バイクでツーリングに行くなど活発に行動していました。
23歳の7月、前日まで元気にしていたのに、突然の腹痛から聖隷三方原病院に緊急入院し、病気との闘いが始まりました。
病名はバットキアリ症候群という難病疾患でした。
東京の順天堂医大や長野の信州医大で名医の先生方に助けられ治療を続けましたが、余命宣告を受け、助かる道は肝臓移植しかないと言われましたが、
当時の法律で日本では臓器移植をやることができませんでした。
臓器移植のネットワーク関係の方々や、皆様から甚大なご協力をいただき
24歳の1月に、オーストラリアブリスベンでの移植を決意し海を渡りました。
移植を待つ不安な日々が続きましたが、奇跡的に表れたドナーのおかげで
2回の肝臓移植という大手術を乗り越え、
無事日本に帰還したころは2年の歳月が過ぎていました。
ヒロヨは移植のその日93年5月1日をセカンドバースディーとしていました。
手術から半年が経ち帰国することができ、2年間の入院生活から解放されたのは、25歳の7月でした。
1年後復帰宣言したときのハガキは今でもヒロヨの手元に残っています。
社会復帰してからは岐阜にある松波総合病院でお世話になり、
今度は自分が困っている人を助けるんだと「移植コーディネーター」を目指しました。
仕事をしながら愛知県にある「尾北(びほく)看護専門学校」に通い、国家試験に合格し、36歳で念願の看護士になることができました。
しかし、2007年ころから血液検査の数値が思わしくない症状が続き、脾臓がふくれ始めました。
2011年には脾臓を小さくする薬を投与するため、再び、日本とオーストラリアを定期的に行き来することになりました。
血液をうまく造ることができなくなってきていると告知されていたようです。
治療方法として、骨髄移植を検討しましたが、肝臓移植をした人の移植は世界でも前例がなく、成功する確率も4割くらいと言われました。
本人にとって非常に難しい判断をしなければならないことでした。
今になって振り返れば、この頃からお世話になった方や友人知人、そして家族となるべく会う機会を作ろうとしていた感じがします。
今年6月に骨髄移植をすることを決め、弟の骨髄を採取し移植するための準備を進めました。
一方でヒロヨは貧血や体がしんどくなり始め、松波総合病院に入院していましたが、容態が悪くなり、7月22日から岐阜医大に転院しました。
入院してすぐに白血球の数値が悪くなり、「急性骨髄性白血病」と診断され、
集中治療室で抗がん剤の投与をしました。
腎不全にもなってしまい、さらには人工呼吸器の気管挿管が始まりました。
体内に水分がたまり、体重は80キロ近くまで増え、顔はむくみ、髪の毛も抜け始めました。
しゃべることができないため、筆談とうなずきでコミュニケーションをとりました。伝えたいことを言葉にできず、さぞかし辛かったと思います。
8月16日には、脳出血も発症し、肺の機能も弱ってきました。
一般病棟に移し皆に面会してもらおうとしましたが、それもできませんでした。
9月に入り容態は改善することなく、一進一退を繰り返し頑張ってきました。
ヒロヨは今まで何度も困難を乗り越えてきましたが、「白血病」という病を克服することができず、今回ばかりは力尽きてしまいました。
これからレシピエント移植コーディネーターとして「移植で困っている人の役に立てる」と頑張っていた矢先のことで、とても悔しかったと思います。
人工呼吸器をつける前、見舞いに行った帰り際の「ありがとう」という言葉が最期の会話になってしまいました。
今回の闘病中は、皆様方より、度重なるお見舞い、
そして暖かい励ましのお言葉をいただき、ヒロヨも今一度 再起して
皆様のご好意に報いたいと力の限り頑張ってきましたが、命はいかんともしがたく、ここに永遠の別れをいたすこととなった次第でございます。
地元の同級生やご友人、ホテルコンコルド浜松でお世話になった皆様、肝臓移植をするために治療にあってくれた、聖隷三方原病院、順天堂医大、信州医大、オーストラリアのアレクサンドラ病院の先生、スタッフの皆様、肝臓移植の時にご支援賜りました皆様、オーストラリアで日常生活を支えてくれた現地の恩人、移植者同士交流して頂いた方とその家族の皆様、看護学校時代のご友人、先生方、松波総合病院の先生、スタッフの皆様、あとよっちゃんバイクを展示してくれてありがとう。ほかにもたくさん「忘れられない人」がいます。本当にいろいろとありがとうございました。
お兄さんの細かい説明で 過去をさかのぼり あの頃を色々思い出しました。そして彼女の強さを改めて知りました。
惜しむらくは やはりお別れが出来なかった事です。
本当にありがとうございました。
訃報を知ったのが今頃になりました。
菩提寺を教えていただければ、墓前に行きたいと思います。
よろしくお願いします。
私はご自宅には弔問に伺いましたが菩提寺については存じませんので、メールアドレスをお知らせいただけますか?三ヶ日のお兄様の連絡先をお知らせ致します。
宜しくお願い致します
mura-masa@akita.name
村越正道
岐阜県在住の永田です。
私の娘は信州大学で肝臓移植を受け、その後は松波総合病院で入退院を繰り返していましたが7年前に亡くなりました。
松波総合病院に通いだしてすぐに夏目さんを紹介され ずっとお世話になりました。
娘が入院すると必ず病室に来ては娘を励ましてくださいました。
娘が最後を迎えた時は病院に夏目さんの姿は無く海外で治療中とお聞きしました。
13年間に渡り娘が沢山の励ましを頂いたことには心からお礼とご冥福をお祈りいたします。