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自分の世界に閉じこもって現実の問題に積極的に関わろうとしない若者が増えているという。何とかしなければと思っても、どうしていいか分からない。自分がどう関わろうと、そのことで世の中は何も変わらないようにも見える。「だからどうしたっていうのだ? そんなことは自分とは関係ない」といってしまえば、それ以上考える必要はない。それでも、なんとか快適に生きていける。テレビとコンピュータという窓さえあれば、時代に乗り遅れることはないし、傍観者、観客として生きていれば、日常生活が乱されることはない。このような気分は、若者だけではなく社会全体をおおっているようだ。分裂、分断の時代といわれて久しい。しかし、経済を中心としたグローバル化が進む一方で、国家、民族、文化、集団や個人の間の亀裂はますます深まっているようにも見える。社会構造の複雑さと見た目の多様さが、問題状況にたいする自分のかかわりを見えにくくしている。問題そのものが見えなくなっている。そんななか、私たちは多様性の共存と協同に向かう手がかりをつかめるのだろうか。
かつて、グレゴリー・ベイトソン(1)は、人や集団が分裂に向かうプロセスを二つのタイプで説明した。ひとつは、双方が異なる方向に向かって同一の行動パタンを取るケースで、これを「対称型」の分裂生成と呼ばれる。お互いに自慢しあうなど、勝とう負けまいと競い合ううちに、次第に敵意へと発展し、分裂に向かうというのである。もうひとつは「相補型」と呼ばれるもので、「服従」と「攻勢」といったように互いに異なる行動パタンを取るケースである。一方が「服従」の態度をとれば、他方が「攻勢」を強め、それを受けて、さらに「服従」が進む。こうして、次第に双方の溝が深まり、敵対、関係崩壊へと向かう。しかし、互いに反目しあい、敵対していても、何らかの関係性が維持されている限り、当事者の対応次第で悪化した関係が修復される余地は残されている。たとえば、適宜、互いの立場や役割を交代して自分の行動パタンを変えてみる、互いに援助しあうなどして相互依存の関係を強める、相手にたいする忠誠心を維持することも必要だろう。ベイトソンは、さらに両者の関係の外にある要素(敵や人間以外のものであっても良い)に注意を向けるというのも分裂を食い止める要因であることを指摘している。だが、今日の分断、断絶の状況は、もっと深刻な事態に向かっているように見える。互いに没交渉というか、無関心や対立さえも存在しないという状況が進んでいるのではないか。
ベイトソンのダブル・バインド(二重拘束)という概念は、このような断絶が起こるメカニズムを把握するのに役立つかもしれない。ダブル・バインドとは、相反する二つのメッセージに縛られて、そこから抜け出せない状態のことをいう。たとえば、母親が自分の子どもを愛せないのに抱きしめようとしているケースを考えてみよう。母親の態度や声の調子には、子どもを拒絶するメッセージが無意識のうちにこめられている。それを察知して戸惑う子どもにたいして母親が「私はあなたをこんなに愛しているのだから、胸に飛び込んできなさい」ということばを発する場合、子どもは、母親のことばに従っても母親に拒否されるし、背いても責められるという状況に立たされる。このように、ある個人がその場から逃れられない関係のなかで、互いに否定しあう二つのメッセージを受けとりながら(それぞれのメッセージの階層がことなっていて)その矛盾を指摘できないとき、ダブル・バインドの状況に置かれる。このような状況を繰り返し経験していると、人は条件が満たされていない場合でもダブル・バインドの状態に陥り、次のような行動を取るようになるという。(1)メッセージを、それが発せられた状況とは関係なく、文字どおりにしか受け取ろうとしない。(2)逆に、メッセージにこめられた裏の意味ばかりを詮索しようとする。(3)コミュニケーションを拒否して内にこもる。
職場(学校)と家庭、公と私などレベルの異なる枠に幾重にも取り巻かれ、異なる価値観や本音と建前といった矛盾のなかで生きることを余儀なくされている私たちは、多かれ少なかれダブル・バインドに陥りやすい状況に置かれているといえないだろうか。そのような拘束(呪縛)から抜け出せなければ、互いにできるだけ関わらないように壁を築いて異質な他者や情報の介入を拒否することで心の安定を図るほかないだろう。孤独を癒すために他者の助けを求めることはあっても、同質で「ことば」の通じる仲間内の結束を固める方向にしか向かわないだろう。こうした内向きの傾向の中で、いま世の中では「オンリーワン」「みんな違ってそれでいい」「自分探し」といった生き方が人々の共感を集めているというが、それだけでは個性を伸ばし、共存のための公共性を育む力とはなりえないのではないか。個性とは、本来、異質な他者との協同行為(関わり)の中で明らかになってくるものであろう。
私たちが置かれている問題状況を的確に把握して分裂やダブル・バインドから脱出する方法のひとつとして、コンテクストという概念を使うことができる。ここでいうコンテクストとは、思考や行動の前提となる、ものの考え方や価値観のパタン、それを獲得するに至った状況、社会・文化・歴史的な背景と考えていいだろう。私たちの思考と行動は、そのようなコンテクストによって意味づけられている。私たちが生きていくための知恵や社会のルールを身につけるとき、対象となる事柄や「ことば」だけでなく、コンテクストも同時に学んでいる。私たちが獲得した知識や技能には、その背景となる社会の構造や価値観といったものが反映されているが、通常、私たちの意識は学ぶ対象にしか向けられていないので、そのことに気付かないことが多い。その結果、コンテクストが無意識の前提(あるいは思い込み)となって私たちの思考と行動を縛ってしまうことがある。相手の言動を自分のコンテクストにもとづいて理解し、反応をしてしまうためにすれ違いが生じることは、日常生活でよく経験することである。そのような状態から抜け出すには、目先の不一致にとらわれないで、まず、お互いが依拠しているコンテクストを明るみに出すところから始めなければならない。その上で、その場の状況に照らしてコンテクストの妥当性を問い直し、互いに共有できる新たなコンテクストを見つけることが必要である。具体的な困難に直面して問題の根源を問う必要を切実に感じる場面で、自分とは異なるコンテクストのなかで生きている他者と出会い、問題意識や目的を共有することによって自己を開き、自らの思考や行動を相対化するとき、新たな自己を創造していく道が開かれるだろう。だが、それは私たちに人格全体の変化を迫るがゆえにけっして容易なことではない。
学習と発達には他者の存在が不可欠である。問題状況に自分が関わっていることを自覚した上で、他者の介入を許し、多様な情報を取り入れて、目の前の問題と取り組むことで、次第にものごとの本質が見えてくる。自分の問題は他者の問題とも絡んでいて他者の問題は自分の問題とも絡んでいるということを、生身の人間が触れ合う関係のなかで五感を通して実感することが必要である。その営みがコラボレーション(協同)である。庄井良信氏(2)は、フィンランドの教育を優れたものにしている背景として、社会歴史的に三つのタイプのコラボレーションが育まれてきたことを指摘しているが、私たちも、このようなコラボレーションが織り成す豊かな社会の実現を目指したいものである。
・ 課題縁(三人の鍛冶屋に象徴される。ある課題遂行とその共有を目的とした共同活動。一緒に夢をかなえようタイプの共同。)
・ 問題縁(ムーミン谷のように多文化でホスピタリティがある。ある問題解決とその共有を目的とした共同活動である。困ったときはお互いさまタイプの共同)
・ 物語縁(寝る前の読み聞かせに象徴される。安心感のなかで、身体と身体で響きあい、語り合いながら対象世界との関係をたしかめ合う。現実からいったん相対的に距離をおきながら、ある物語世界のなかで、自己と世界、自己と他者、自己自身との関係を編みなおしていく営みを目的とした共同活動)
<参考資料>
(1)グレゴリー・ベイトソン著、佐藤良明他訳『精神の生態学』(思索社、1986)
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精神の生態学 |
クリエーター情報なし | |
新思索社 |
(2)教育科学研究会編『なぜフィンランドの子どもたちは「学力」が高いか』(国土社、2005)
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