ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

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場所と場による学校図書館づくり(大学ラーニング・コモンズから考える「場所としての学校図書館」報告4)

2014年07月11日 | 知のアフォーダンス

  

 歳を取ると時間が経つのが早くて、気がついたら、前回の投稿からずいぶん時間が経っていました。明後日(7月13日)に神戸でおこなう「場所としての学校図書館」勉強会のために、あわててこの文章をまとめました。(勉強会について詳しいことを知りたい方は holisticslinfo@gmail.com までご連絡ください)

 前稿の冒頭に取り上げたラーニング・コモンズの説明に気になる個所がある。

複数の学生が集まって、電子情報も印刷物も含めた様々な情報資源から得られる情報を用いて議論を進めていく学習スタイルを可能にする「場」を提供するもの。

(文部科学省、大学図書館の整備について(審議のまとめ)-変革する大学にあって求められる大学図書館像- 用語解説、平成22年12月、科学技術・学術審議会 学術分科会 研究環境基盤部会 学術情報基盤作業部会)

 何気なく読み過ごしてしまう人が多いかもしれないが、わたしは、ちょっとした違和感をもった。英語でlearning commonsというときのcommonsは「共有地」「広場」すなわち公共の「場所」のことである。だから、ラーニング・コモンズは、学生が図書館のコンテンツを利用して学習、共同、コミュニケーションといったさまざまな活動をおこなえる場所(施設)のことだ。そう思っていたからだ。どうして「場」なのか? なぜカッコに入れて強調してあるのか?

 わたしたちは日常的に「場」ということばをよく用いる。それほど意識しないで「場所」と「場」を代替可能な文脈で用いていることが多い。一つの文章のなかで「空間」「場所」「場」を使い分けることもある。では、まったく同義かと問われると、どこか違うような気もする。そこのところが、なかなかうまく説明できない。とくに「場」の意味はあいまいだ。辞書をながめていて分かってきたことは、どうやら「場所」の意味を残しながら、その場所の「状況」や「雰囲気」、その場所がもたらす「機会」「場面」「局面」といった意味をそのつど重ね合わせて使っているらしいということだ。だから、「場」を英語に翻訳しようとすると少し困る。一律にplaceとすることはできないので、文脈に応じて適切な語を選ばなくてはならない。英語のplaceは、あくまでもスペース、エリア、スポットといった物理的な空間としての「場所」のことである。それにくらべて日本語の「場」は(物理学の用語としての「場=field」をのぞいて)多義的で文脈依存度が高い。そのことは日常的な会話ではあまり問題にならないし、むしろ豊かで奥行きのあることばだと受け止めることもできる。だが、ここで話題にしている学習環境としてのLCや学校図書館の整備と、そこでの学習活動についてきめの細かい議論をしようとすれば、「場所」と「場」の使用範囲をはっきりさせて、その両面から考えてみることも意義があるのではないだろうか。

 そこで着目したのは、長年、都市計画に携わってこられた岩見良太郎氏(埼玉大学名誉教授)の「場」をめぐる議論である。岩見氏は、物理的環境と社会環境を一体的に設計することによって、ハードだけではない「場」の創出による街づくり(通称、「場所」と「場」のまちづくり)を進めてこられた方だ。その岩見氏が、日本語の「場」から「場所」とは異なる独自の概念を引き出して、英語の文章にも、そのままBaと表記しておられることの意味を探りたい

 岩見氏の場の概念は、おおむね以下のように要約できる。(知能環境論も視野に入れて、わたしなりに拡張的な解釈をしています。岩見氏は近著『場のまちづくりの理論‐現代都市計画批判』(日本経済評論社、2012)において詳しく理論的な説明をしておられるので、関心のある方は、ぜひご参照ください)

 人は生きていくためにさまざまな活動をおこなっており日々の生活はそうした活動の連鎖で成り立っている。生身の人間が活動するには一定の広がりをもつ空間と他者とのかかわりが必要である。「活動は、一定時間、一定の空間を占め、一定の人びとと関係を取り結ぶことによって実現される」。何らかの活動を行うことを前提として空間を語るとき、わたしたちはそれを「場所」という。社会的存在であるわたしたちの活動には、何らかの形で他者が介入し、お互いにかかわりあう。活動目的に応じて、そのつど、わたしたちが動員(あるいは参加)できる個人的な人のつながりを「縁」と呼ぶ。縁は社会的ネットワーク(社会・文化的環境)の一部分であり、活動は縁(ひいては、その背後にある社会・文化的環境)に規定されて営まれる。わたしたちは場所において、縁に媒介されながら、共同活動主体として相互行為をおこない、対象に働きかけている。といっても、活動は、いつも同じ場所で、同じ時間帯に、対面による相互行為として行われるわけではない。活動は、時間的に継起するいくつかの副次的活動からなり、場所の移動もおこなわれる。

 活動において場所と縁という二つの条件が重ね合わされたところに、その活動の基盤となる「場」が形成される。場は活動の条件であるとともに、その成果でもある。すぐれた場は一回のデザイン、一回の活動によって形成されるのではない。長い年月にわたる活動が積み重なって、場は豊かになっていく。豊かな場は豊かな活動を生み、豊かな活動が場をさらに豊かなものにしていく。前稿で紹介した『知能環境論』で半田智久氏が理想の学習環境として描写した「研究室の図書コーナー」はまさに、そのようにして形成された豊かな「学びの場」だったといえる。そこに集った人たちは、おそらく、先輩たちがその活動によって生み出し蓄積してきたものを、自分たちの活動によって引き継ぎ、その時々の活動に適した環境に変容させていったのだろう。場は活動をとおして形成され、蓄積され、継承され、変化していくものであり、何らかの意図をもった他者から一方的に与えられたり、提供されたりするものではない。そこには(単なる場所の受動的な利用者ではない)活動主体の関与が不可欠である。

 学校内のすべての利用者に開かれ、共有される場所としてのLCや学校図書館は、外在知の集積によって豊かな知のアフォーダンスを提供することをめざす。利用者(児童・生徒・学生)は、そこで外在知にふれて自らの内在知を駆動することによって、創造的な活動をおこなう。そこには何らかのかたちで他者が共同活動主体としてかかわり、相互作用がおこなわれる。利用者相互の直接的なコミュニケーションばかりでなく、そこにはいない人たちとの(たとえば、その活動成果の活用といったかたちでの)間接的コミュニケーションがおこなわれていることも忘れてはならない。教職員もまた教育主体として、学習主体である児童・生徒・学生とともに共同活動主体となって教育・学習環境としての場所と場の生成にかかわるだろう。そうしたダイナミズムを念頭においたうえで、学校図書館を「場所」と「場」の両面から見ていくことによって、わたしたちの課題に向き合う新たな地平が開かれることを期待したい。

(注)
1 〈場〉概念の意味論的考察--〈場の都市計画〉に向けて (岩見良太郎教授 岡部恒治教授 退職記念号) The semantics of ba: toward the city of planning of ba

2

場のまちづくりの理論―現代都市計画批判
岩見良太郎・著
日本経済評論社

3「場」「場所」「結い」の概念構成』(平成20年度埼玉大学総合研究機構研究プロジェクト(研究経費)研究成果報告書)
4 教育職でなくても教育施設の管理運営を担当する場合にも自らの役割について主体的な関与が求められるだろう。

 

 

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