敢えて重ねて言う「奇妙なカタカナ語の使用を止めよ」と:
これは、これまでに何度主張したか記憶もないほど唱え続けてきたことだ。それは「元の英語にはないような意味のカタカナ語を創り上げて、朝から晩までテレビで流し、新聞紙上で使うのを止めろ」ということだ。止めるべきだという最大の理由の一つが「小学校3年から英語を教えるなどと馬鹿なことを言っていながら、誤ったカタカナ語垂れ流して、児童や生徒や学生を混乱させることは英語教育上誠に好ましくないから」である。
近頃テレビで余りにも頻繁に使われるので憂慮しているのが「トラブル」である。彼らは「事故」でも「故障」でも「揉め事」でも何でも、一寸困った事態が生じると全て「トラブル」と表現してしまうのだ。局側でシナリオかニュース原稿を作っている誰かが、数分でも費やして辞書を見れば「トラブル」(=trouble)に「事故」だの「故障」だのという使い方はないと解るはずだ。彼らは視聴者を愚弄する気だとしか思えない。
念の為にジーニアス英和はどのように出ているかと言えば「①心配、苦労、悩み、~の持つ心配事、苦労(悩み)のタネ」が最初に出ている。これが常識的な trouble の意味だ。Oxfordには「1.~with a problem, worry, difficulty, etc. or situation causing this」とある。何と「2.Illness or pain」となっている。何処にも故障も事故もない。「3. Something that is wrong with a machine, vehicle, etc.」が出てくる。これらを全部「トラブル」で括って良い訳がない。
ここから先は既に「日本語の表音文字かを憂う」として採り上げた例と重複するかも知れないが、おかしいか誤った使い方であるカタカナ語を挙げていく。サッカーの中継などで無知な解説者が言う「滑りやすいピッチ」を「スリッピー」(slippy)とするのはおかしいのであり、正確を期せば slippery なのである。だが、これは放送用語としては登録済みのようなので遺憾だ。
次も解説者用語で「キャプテンシー」(captaincy)というのがある。これは歴とした誤りで「主将としての地位か役目」の意味になってしまう。彼らが言いたいのは captainship (=主将としての資格;統率の才)なのだ。良く考えなくと解ることで leadership という言葉があるではないか。語尾に y を付けるのではなく、shipを付ければ良いのだ。これなどは英語をチャンと教えられていれば犯すことがない誤りだ。とすれば「教育の問題」ではないのか。
次は私がテレビに登場する学者や教授や有識者や専門家が恥じることなく使う「フリップ」を挙げておこう。テレビ局も彼らも「表」か「チャート」の意味で「フリップ」と称するのは奇怪であり情けなくもある。それは flip という言葉を如何なる辞書で調べても「表」乃至は「チャート」の意味が出てこないのだ。恐らく、英語で flip chart という大きなレポート用紙のような模造紙を束ねたもののことを、(インフルエンザを「インフル」としたように)頭の「フリップ」だけを捉えて「表」のつもりで言っているのだろう。「辞書くらい引けよ」と言ってやりたい。先生方は恥ずかしくないのかと疑っている。
次は文法的にも誤りではないが、何故カタカナ語を使う必然性があるかという例。先ずは「オープン」だ。この言葉を彼らが導入したところで「開店」か「開業」か「始業」という熟語が消滅してしまった。私は「オープン」というカタカナ語を使う必然性を未だに見いだせていない。「何、開店よりもこの方が格好が良いし、近代的だと」言いたいのか。中には「オープンさせた」というのもある。「させた」って何だろう。
「スタッフ」(=staff)も「職員」、「部員」、「社員」、「従業員」等の漢字を使った言葉を死語にしてしまった。私にはスタッフを好んで使う意味というか意義が解らないのが辛い。中には「ホールスタッフ募集」などというのも見かける。一瞬 whole staff (従業員全体)かと思ったが hall staff という意味らしい。スタッフとした方が応募者が多く来るのだろうか。
こういう例を挙げていけば明日の朝までやっていられると思うが、この辺りで止める。でも後から後から良く飽きもせずにカタカナ語化していくものだと感心している。つい先日も所謂「食レポ」というのに「ボリューミー」というのが出てきて感心した。「沢山の量がある」と言いたいようだったが、volume の語尾に y を付けてみても、そういう意味にはならないし、そんな単語はない。voluminous という派生語はあるが「服などがゆったりした」か「書物などで巻数の多い」という意味である。でも、yを付ければ形容詞になると知っているのは偉いと褒めておくか。
兎に角、テレビ局も新聞社も英語の単語を数多く知っていると誇示したい気持ちは解らないでもないが、おかしなカタカナ語を広めることは青少年の英語の勉強の為にはならないと、もう好い加減に目が覚めても良い頃ではないのかな。学校で英語を教えておられる先生方は、奇妙か誤ったカタカナ語の氾濫をどうお考えか、一度でも良いからご意見が伺いたいものだ。「何、重宝に使っています」だと。
これは、これまでに何度主張したか記憶もないほど唱え続けてきたことだ。それは「元の英語にはないような意味のカタカナ語を創り上げて、朝から晩までテレビで流し、新聞紙上で使うのを止めろ」ということだ。止めるべきだという最大の理由の一つが「小学校3年から英語を教えるなどと馬鹿なことを言っていながら、誤ったカタカナ語垂れ流して、児童や生徒や学生を混乱させることは英語教育上誠に好ましくないから」である。
近頃テレビで余りにも頻繁に使われるので憂慮しているのが「トラブル」である。彼らは「事故」でも「故障」でも「揉め事」でも何でも、一寸困った事態が生じると全て「トラブル」と表現してしまうのだ。局側でシナリオかニュース原稿を作っている誰かが、数分でも費やして辞書を見れば「トラブル」(=trouble)に「事故」だの「故障」だのという使い方はないと解るはずだ。彼らは視聴者を愚弄する気だとしか思えない。
念の為にジーニアス英和はどのように出ているかと言えば「①心配、苦労、悩み、~の持つ心配事、苦労(悩み)のタネ」が最初に出ている。これが常識的な trouble の意味だ。Oxfordには「1.~with a problem, worry, difficulty, etc. or situation causing this」とある。何と「2.Illness or pain」となっている。何処にも故障も事故もない。「3. Something that is wrong with a machine, vehicle, etc.」が出てくる。これらを全部「トラブル」で括って良い訳がない。
ここから先は既に「日本語の表音文字かを憂う」として採り上げた例と重複するかも知れないが、おかしいか誤った使い方であるカタカナ語を挙げていく。サッカーの中継などで無知な解説者が言う「滑りやすいピッチ」を「スリッピー」(slippy)とするのはおかしいのであり、正確を期せば slippery なのである。だが、これは放送用語としては登録済みのようなので遺憾だ。
次も解説者用語で「キャプテンシー」(captaincy)というのがある。これは歴とした誤りで「主将としての地位か役目」の意味になってしまう。彼らが言いたいのは captainship (=主将としての資格;統率の才)なのだ。良く考えなくと解ることで leadership という言葉があるではないか。語尾に y を付けるのではなく、shipを付ければ良いのだ。これなどは英語をチャンと教えられていれば犯すことがない誤りだ。とすれば「教育の問題」ではないのか。
次は私がテレビに登場する学者や教授や有識者や専門家が恥じることなく使う「フリップ」を挙げておこう。テレビ局も彼らも「表」か「チャート」の意味で「フリップ」と称するのは奇怪であり情けなくもある。それは flip という言葉を如何なる辞書で調べても「表」乃至は「チャート」の意味が出てこないのだ。恐らく、英語で flip chart という大きなレポート用紙のような模造紙を束ねたもののことを、(インフルエンザを「インフル」としたように)頭の「フリップ」だけを捉えて「表」のつもりで言っているのだろう。「辞書くらい引けよ」と言ってやりたい。先生方は恥ずかしくないのかと疑っている。
次は文法的にも誤りではないが、何故カタカナ語を使う必然性があるかという例。先ずは「オープン」だ。この言葉を彼らが導入したところで「開店」か「開業」か「始業」という熟語が消滅してしまった。私は「オープン」というカタカナ語を使う必然性を未だに見いだせていない。「何、開店よりもこの方が格好が良いし、近代的だと」言いたいのか。中には「オープンさせた」というのもある。「させた」って何だろう。
「スタッフ」(=staff)も「職員」、「部員」、「社員」、「従業員」等の漢字を使った言葉を死語にしてしまった。私にはスタッフを好んで使う意味というか意義が解らないのが辛い。中には「ホールスタッフ募集」などというのも見かける。一瞬 whole staff (従業員全体)かと思ったが hall staff という意味らしい。スタッフとした方が応募者が多く来るのだろうか。
こういう例を挙げていけば明日の朝までやっていられると思うが、この辺りで止める。でも後から後から良く飽きもせずにカタカナ語化していくものだと感心している。つい先日も所謂「食レポ」というのに「ボリューミー」というのが出てきて感心した。「沢山の量がある」と言いたいようだったが、volume の語尾に y を付けてみても、そういう意味にはならないし、そんな単語はない。voluminous という派生語はあるが「服などがゆったりした」か「書物などで巻数の多い」という意味である。でも、yを付ければ形容詞になると知っているのは偉いと褒めておくか。
兎に角、テレビ局も新聞社も英語の単語を数多く知っていると誇示したい気持ちは解らないでもないが、おかしなカタカナ語を広めることは青少年の英語の勉強の為にはならないと、もう好い加減に目が覚めても良い頃ではないのかな。学校で英語を教えておられる先生方は、奇妙か誤ったカタカナ語の氾濫をどうお考えか、一度でも良いからご意見が伺いたいものだ。「何、重宝に使っています」だと。