新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

島倉千代子が亡くなった

2013-11-09 08:44:33 | コラム
島倉千代子の思い出:

いきなりお断りから入るが、私は流行歌とその歌手のファンと言う訳ではない。だが、島倉千代子については一寸変わった思い出があるのだ。

(1)今の人は誰ですか:
昭和32~33年頃だったと思う。私はその頃日本の会社の営業で日本コロムビアを担当し、当時は内幸町にあった購買部の事務所に出入りしていた。同社の担当者は当時は強豪だった野球部の捕手だった、確か法政大学出身のF氏だった。自分も運動部出身で野球が好きだったので話が合い、かなり頻繁に直ぐ近くの有楽町にあった自社から出かけていったものだった。

その日は雑談をしていると、ごく地味な黒のタイトスカートに白のブラウス(と言うのかな。今でもその姿を覚えている)を着た何処か他の部署の人かとも見える女性が「お世話になります」と挨拶して入ってきて、F氏と何と言うこともない会話を交わして静かに出ていった。当方は「何処かで見たことがある細面の女性だな」という程度の印象だったので、F氏に「あの女性は誰ですか」と尋ねた。F氏には「知らないの。あれは島倉千代子だよ。あの人はこうやってここ(内幸町)に来れば各部を挨拶して回る几帳面な人だ」と教えて頂けた。

島倉千代子は昭和30年に売り出していたのだから、その頃は既に大スターだったはずだが、それでも購買部にも挨拶に回っていくとは華やかなものに見える芸能界にもそういう礼儀が必要だったのかと知った次第。ろくに化粧もしていないその有名な歌手を直ぐそこで見たのだから誠に光栄で、本来ならばもっと感動すべきだったのかも知れないが、出ていった後から知ったのでは仕方がない。

(2)「島倉千代子という人生」:
これは1999年に日経新聞社の政治部記者だった田勢康弘が新潮社から上梓した島倉千代子の伝記だそうだ。この年だったかにこの本の出版記念パーティーが日比谷のプレスクラブで開催された(らしい)。と言うのは、私は当日その場に静岡放送のプロデューサーを某大学の教授に紹介すべく、玄関ホールに立っていたのだった。

そこに先ず故小渕総理が沢山の警備員に守られて猛スピードでエレベーターホールぬ向かわれ、その後にも所謂有名人が続々と入っていった。多くの大企業の経営者たちは秘書を伴っていったのが印象的だった。その流れが一段落着いた後に、日本興業銀行頭取の西村正雄君(故人)が秘書も連れずに一人でヒョコヒョコと入ってきた。

かれは旧制中学から高校までの同期生で当時住んでいたのも同じ鵠沼だった。もう15年以上顔を合わせていなかったので、追いかけて声をかけたのだが、瞬間的には何処の誰かを思い出してくれなかった。そのために話が通じるまでに何秒かかかってしまったのが残念だった。そこで「興銀の頭取とは激職なんだな」と痛感させられた。だが、島倉千代子のお陰で級友(旧友)の顔を見ることが出来たのは有り難いことだった。何しろ西村君は同期会に出てくることがなかったので。

因みに、彼は2006年1月、当方が第一回目の心筋梗塞で入院中に亡くなったと知った。ここに末尾ながら、あらためて島倉さんと西村君のご冥福を祈る。