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林羅山 仏教が人倫の道を説かず、身分的秩序に反する思想であることをあげて排仏説を唱えた。こうした初期の排仏思想

一 明治政府の宗教政策
 近世末期の動向

 明治維新における宗教界の大変革は、突然起こったのではなく、近世末期に始まった変化の流れにそったものであった。
 その大きな流れは排仏思想である。幕府は、五倫五常の道徳を説く儒教によって封建的秩序を樹立、仏教を協力者としてうまく取り込んだが、もともと両者は相いれない関係にあり、特に幕府の御用学であった朱子学の中でも、林羅山は、仏教が人倫の道を説かず、身分的秩序に反する思想であることをあげて排仏説を唱えた。こうした初期の排仏思想は、仏教の世俗を超える思想や宗教的絶対性に走る傾向を抑えて、仏教を封建的体制に組み込んだのであった。しかし、政治的立場からする朱子学の排仏論にとどまらず、他の学派においても、現実的な倫理主義から排仏論を唱えてやまず、その多くは、神儒一致思想を根底とするものであり、特に山崎闇斎に代表されるように、儒学者による神道論が目立っている。しかも、排仏説をなした儒者の主たった者の中には、仏門から転向して儒者になり、その中からさらに神道家になった者があったという皮肉な現象がみられる。
 一七世紀末にようやく勃興しはじめた国学においても排仏思想が顕著であるが、荷田春満の『創学校啓』に見られるように、その立場は儒学や仏教によって国学が衰退したとするものであり、賀茂真淵を経て本居宣長になると排仏論はより鮮明になったものの、批判は主として儒教に向けられていた。それが末期の平田篤胤になると、これまでの国学を数歩進めて、復古的な国学から復古神道へと宗教的色彩を強めると、いきおい仏教への排撃は積極性を増し、さらに、その国家主義的神道思想は、明治新政府の採用した神道主義的王政復古をもたらした。
 こうした排仏論に対して、当然仏教側からも、臨済宗白隠の『続神社考弁疑』をはじめ多くの反駁書が各宗から出され、真言宗寂本は『神社啓蒙邪証論』など数書によって最も熱心で、神道・儒教・国学を批判した。一方では、神・儒・仏・道の一致を説く護法論もあったが、主として禅宗の立場からのものが多く、のちには平田派国学の排仏論に対抗して各宗の学者が神儒仏一致を唱えた。これらは仏教護法論というよりは神・儒との融合論で、排仏論に対する積極的反論となり得ない妥協的なものであった。
 また、近世末期の復古神道とならんで王政維新の思想的源動力となったのは水戸学であり、神道を主とし、儒教を翼とする立場から尊王を唱え、攘夷論とその実践にまで及んだ。後期水戸学を代表する藩主斉昭の排仏は激しく、藤田東潮や会沢正志斎の著作は維新の変革に動いた志士たちの思想的背景になった。明治の廃仏毀釈のさきがけをなしたのは水戸藩で、天保三年(一八三二)につづく同一四年の寺院廃合は一九六か寺に及び、さらに、僧侶に還俗をすすめ、他国生まれの僧を国外に追い出し、領内の僧は十分の一に減少するというありさまであった。また、これらにあわせて神葬祭を実施して氏子組織をつくり、神仏分離を行って神社をすべて唯一神道に統一した。
 こうした水戸藩の廃仏毀釈を先縦として、復古神道の浸透していた諸藩では廃仏が徹底的に行われた。藩主島津久光廬まる薩摩の廃仏は維新まで継続して行われ、寺院総数一〇六六か寺のすべてが破却せられ、僧侶二九六八人が還俗させられた。また、津和野藩では、藩主亀井茲監以下、復古神道を奉ずる大国隆正・福羽美静などにより、藩主菩提寺の寺領を没収、領内の葬祭をすべて神葬祭に統一したが、ここでははなはだ不徹底なものに終おった。一方、主として水戸学の影響による廃仏の動きも各地にあったが、その実施は明治時代に入ってからであった。

 新体制への展開






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