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こういうのが保守っていうのかな

2015-02-11 | 日記
唐突ですが、
「不寛容」っていうことの問題点について、2つの種類があるんじゃないかなと思います。

1.ちょっとしたことでもすぐにバッシングして(クレームやネットの炎上など)表現規制などが厳しくなるような意味合いでの「不寛容」

2.表現の自由などを受け入れず、民族排外的な活動やテロ行為などに繋がるような意味合いでの「不寛容」

1と2について、良いものか悪いものか、は人によってさまざまですが、
個人的には1の不寛容はあまりよろしくなく、2の不寛容は悪くないことだ、と思います。

1の不寛容については、不寛容そのものが悪いというより、
インターネットでの発言発信が「誰でも・いつでもどこでも」できることによる弊害じゃないかと思います。
まず「誰でも」発信できるというのは、アクセス量の多いニュースやテレビや芸能関係や話題となった出来事に対して「ものすごい数」の意見が集まるということになり、また、「いつでもどこでも」発信できることで、「冷静さや熟慮という手間を省く」意見が出やすいということにもなります。
繋げると「その場の勢いの熟慮を欠いた意見が、大量に集まる」という状態が簡単に起こってしまい、それが社会的影響力にそのまま繋がる、と。
その影響そのものだけでなく、問題なのは、「簡単に発言する」事は楽なので、それに味をしめた多くの人々がその発言内容において「『長い目で見ることや熟慮することをクセで省いてしまうこと』が定常化してしまう」ということで一種の無熟慮文化が出来上がり、それが当たり前となるような社会価値観になってしまう、という問題があります。その背景には短期間で大量の出来事のニュースが日々移りゆくことで、それに対しすぐに応答し発言しなければ意味がない、というようなタイムフローとなっていることもありますね。そういう情報提供方法の土台もあいまって、
何かが起これば、「一旦冷静になって落ち着いて考えてみる」という事をできなくなるような文化になってきている、という事のように思えます。
これは色々な事において「長期サイクルよりも短期サイクル」で考え味わう、という事に重きを置く習慣に進んでいる事を表しているのではないでしょうか。
だから1については、不寛容そのものが悪いのではなく「一瞬イラっと来るのも、軽くイラッとする気持ちはすごいわかりますけど、発信はもうちょっと落ち着いて考えてからやりませんか?」というのと、「そんな手軽な発言に右往左往しないと稼げない(生きていけない)ようなシステムってどうなんだよ。。」というのが個人的結論です。

一方、2の不寛容さによる各種活動というのは、「他者の価値観を配慮しないような自由」が進みすぎた結果生まれたものじゃないかと思います。
全ての活動がそうだとは言いませんが、さすがにデモであったりテロ(犯罪だからやっちゃだめですが)であったり「実際に行動に起こそう」というのは、相当の気力がなければ無理です。1で書いたような「手軽な発言」とはわけが違います。それなりの熟慮があっての行動方針であることが多いでしょう。
なので、これについては「表現はなんでも自由だ」言い換えれば「表現の世界は(差別・背徳・破滅・残虐・理不尽)なんでもアリだ」という事が、そこそこに行き過ぎてしまった故の「不寛容」じゃないかと。こういうとテロ行為の肯定ととられそうですが、テロルという行動自体はダメですが、その土台の「不寛容」という精神作用自体はダメとは思わない。寧ろ「他者の価値観を嘲笑って踏みにじるような表現の自由」の方に問題があると思われます。
そしてこの「自由」という価値観の一番の大問題は「なんでもあり」という所にあると思います。
「自由」という概念をめいいっぱい利用すると「完全なる不自由」だってゆるされてしまうのです。それを敷くのも「自由だ」と言えるのですから。そしてそれを現実的に敷くには、なんらかの「力」がものをいいます。つまり、「力さえあれば、何やってもいい」世界が「自由」の向かう方向です。それは何の法律も無かった、弱肉強食の自然界そのものです。そこから逃れるために法を制定してなんだかんだして、結果的に元の原始に戻ったのが「自由礼賛」の行き着く先ではないでしょうかね。
「自由」というものが、そんなざんない事にならない為に必要なものってなんでしょうか。それは「常識」であり、上に書いた「他者の価値観を配慮すること」じゃないでしょうか。
そこを踏み越えての「『表現の自由』を侵すことは許さない」という発言は、明らかに間違ってると思います。それはえらそうに「俺たちはお前たちに何言ってもいいんだ。邪魔するな」と言ってるように聞こえます。「表現の自由」と簡単に言いますが、「なんでもあり」だと「不自由の自由」すら成立させますし、フィクションとノンフィクションでもその捉え方は違いますし、一言で全て正当化できるものでない事は誰が考えても確実です。「自由」だってそれを行使する人の「常識」がなければ成立しません。だからちゃんと整理して「どういう自由か」を選んで賛否すべきじゃないかと。

ということで、1と2だけでなく『「不寛容」が良いか悪いか』なんて一言で一元的にくくれません。
ガチガチに何かに凝り固まって窮屈になることなく、かといって「なんでもあり、なんでも自由」なんていう無秩序の原始時代に還ることもない、その手綱をうまく引いたり緩めるような力って一体何か、それが「常識」だったり「(それによって積み重ねられた)文化や習慣や価値観」ではないでしょうか。
そうすれば、そんなものが「一語一句具体的に完璧に数字で表せ」ということはできない類のものである事は、まあ普通分かるように思いますね。(あえて言葉でいえば『当然間違えもするけど、「概ね正しい」と言えるようなもの』としか言えそうにない。)そういうのを「保守」する姿勢が保守っていうのかなあ。