幹事さんのひとりごと

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空襲の話

2008年10月26日 | 日常のひとコマ
息子がじいさんにやたらといろいろ聞きたがる。
会話を求めてのことだろうけど。
ニュースの話、スポーツの話、そして昔話。

昔話と言っても童話や民話の部類のことではないけどね。
おやじが若かったころの武勇伝。
ってほどでもないけど、昔の思い出話をよく聞いている。
それに聞き耳を立てて俺。

俺ですら戦争など知らない世代。
息子は反戦も平和も知らない世代だ。

おやじが小学校のころ戦時中だった。
そんな記憶をたどって話しを聞いているのだ。

さすがに戦争と言っても、よく聞くのは田舎に疎開だの食い物がなくて闇市だの。
それは都会の話であって、田舎の秋田は食料にはそれほど困らなかったと。
給食には弁当持参。
ただし、貧富の差もあり、贅沢は滴の時代。
芋だけ持ってくるやつもいれば、白いご飯に焼き魚という豪華なやつもいたと。

贅沢はかなり反感を買ったようで。
そこで弁当にはご飯の下におかずを隠して持ってくるやつもいて、先生に見つかって
弁当を食う前に、全員がひっくり返して調べられるようになったんだと。
でもそれに対抗して、ご飯の間に隠すやつも現れ、今度はかき混ぜて見せるのが
実施されたんだと。

そんな話を聞いていて、やっぱり話題の中心として出てくるのが空襲。
土崎が戦争最後の空襲の地。
もしかすれば原爆を落とされてたかもしれない地なのだ。

終戦になる前日、空襲はあった。

その前には何度も空襲警報が鳴り、敵機は来ない。
もう慣れちゃって空襲警報でも避難するやつは少なくなっていたと。
空襲の前の日、岩手県の釜石あたりにアメリカの空母や戦艦が来たようで。
戦艦から攻撃される地響きが秋田まで響いてたとおやじが言う。
ほんとかなぁ。

土崎には海岸に石油基地がある。
空爆もそこを狙われたんだが。
一応空襲に備え、いくつかの高射砲はあったようだけど、数多くのものは
木で作った偽物だったそうな。

空襲の前日、空襲警報が鳴り、「空襲」の声。
またかよと誰もがどうせ来ないんだろうと思ってたらしい。
ただ子供たちは防空壕に行けば米の粉や穀物の粉を甘くしたものが食えると
おやつに飢えていた子供は大急ぎで防空頭巾かぶって防空壕へと走ったって。
そこへ米軍機が3機ほど飛んできた。
おそらく偵察機だったんだろうと。

そして翌日の夜。
空襲警報が鳴り響き、小学生だったおやじは防空壕へ避難した。
焼夷弾が落とされ、夜の暗闇は昼より明るくなったと。
その様子はやはり小学生だったおふくろも遠く離れた山の上から見ていたと。

いまさらここからは逃げないとばあさんは家に居座った。
血気盛んなやつが竹やりを持って屋根に上がり、敵機に罵声を浴びせ、
怒られて降ろされたと。
そしてまもなくドカンドカンと爆撃。
高射砲は敵機まで届かない。
そんな光景を防空壕から顔出しておやじは見ていたらしい。

土崎で火の手が上がるのを遠くの山で見ていたおふくろ。
子供ながらにこの世の終わりを感じていたと。

そんな話を興味深げに聞いてる息子。
平和という言葉より、戦争というものに興味があるのは確かで。
戦争を嫌っての平和を求める心。
戦争を知らないんじゃ平和の意味を理解するのは難しいなと思えるのは
俺のような父親の世代も同じだ。

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11 コメント

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戦争の話 (もみじ)
2008-10-26 16:18:56
私もよく父から戦争の話を聞きました。
土崎のように呑気な話ではありません。

父は海軍兵曹長(陸軍なら軍曹)で陸戦隊の分隊長だったそうです。
ニューギニアでジャングルに分け入って小川を隔てて両岸で打ち合ったそうです。相手はジャングルの戦いに慣れているのでサンザンだったそうです。
ある日のこと、早朝10人位の部下を連れて掃討作戦に参加したそうです。ところが夕方帰ってくると部下が5人しかいなかった、などという話です。

他にも大発の艇長の時の話とか食料の枯渇についての話しとかをよく聞きました。

最後はラバウルで敗戦となり捕虜生活を経験し、栄養失調とマラリアにやられて早めの帰国となったということでした。

早く帰国できたお陰で私が生まれたのですが。
いまだに不発弾が (雲板)
2008-10-26 17:17:01
この土崎の空襲、あまり知られていないことのようです
昔、新潟と秋田は石油の取れる場所というこで
大規模な石油の精製・貯蔵に関する施設があった

そこで、翌8月15日の終戦以降には何も出来ないようにするかのように
きっと、終戦後の日本軍のクーデタが阻止ってことでしょうね
石油がなければ船も飛行機もただの邪魔者でしょうから

石油関連施設に対して、100機をこえるB29による空襲があり
落とされた爆弾は、100ポンド及び250ポンド爆弾 計12000発と
この狭い町に、12000発もの爆弾ですよ

人的被害の大きかった広島や長崎の原爆の陰に隠れてしまっていますが
いまだに様々な工事の際には不発弾が出て来る
東北としてはそんな珍しい(?)ところ
土崎って、そんなそんなところなんですよ
Unknown (仲村ロンリー)
2008-10-27 00:36:12
戦争世代はウチの祖父になりますねぇ。
医務係みたいのをやってたみたいです。
あまり話を聞いたことはありませんが。

いずれ、祖父も父も他界したので、
戦争自体もう遠い話になってしまった我が家。。。
戦争の話は (ルート356)
2008-10-27 01:32:46
私も聞いたことがないかも・・・・
親にとって
あまり語りたくないことなのかも・・・・

でも
話は聞いてないけど
命が尊いものだということはわかっているから
戦争の無意味さというのもわかります。

こんなこと書くと、また変人扱いですが・・・・
風が吹くと、焼夷弾の落ちてくる音に聞こえて
こわくて足がすくむんです
もしかして前世は戦争で亡くなってるのかもね
体験談 (幹事)
2008-10-27 08:27:23
悲惨な戦争の状況を語りたがる方って多いようで。
平和な世代に自らは発言しないけど、一旦話が出ると水を得た魚。

土崎の住民はすでに大半が空爆の地だということを知らない。
もしかすれば原爆投下もありえたかもしれないのに。
  (ぢぞう)
2008-10-27 09:40:05
昭和20年8月9日、原爆投下の第一目標は小倉市(現・北九州市小倉区)でしたが、
前日の八幡市(同 八幡区)空襲の残煙と靄に目標が覆い隠されて、目視による
投下が出来なかったため、第二目標の長崎に投下されたと言われています。

ワタシの母親は戸畑市(同 戸畑区)の出身なので、もしも小倉市に原爆が投下
されていたら、ワタシはこの世に生まれていなかったということになります。
原爆は (幹事)
2008-10-27 12:28:12
良し悪しを議論すると収まりつかなくなるからなぁ。
人間も生きていく上で争いごとはあるわけで。
それはぬぐえないし否定できない。
問題は最小限にとどめる努力ができるかどうかということかと。
はまなすはみた (Kawagon)
2008-10-27 21:31:47
私も今は亡き祖母から昔話を聞いていました。
もちろん土崎空襲の話も。
そんな小学生のある日、祖母が、一冊の絵本
「はまなすはみた」を買ってきてくれました。
土崎空襲を語り継ぐために貴重な一冊です。
皆さんも、機会がありましたらご一読を。
なんとなく (幹事)
2008-10-28 08:28:01
はまなすはみた
聞いたことはあるっすね。
んだすか (Kawagon)
2008-10-28 22:57:31
せっかくの貴重な話題だったので紹介させていただきました。↑のKawagonに秋田市の紹介ページをリンクしていますので見てください。秋田市内でしたら、大手書店で扱っているのでは?と思いますが、よく目にするネットショップでも購入可能です。検索してみてください。
上京当時は、秋田の情報を得るため随分郷土関係の書籍を買い求めましたが、今ではこうやって幹事さんとも交流が出来、随分田舎が身近に感じられます。

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